小さな幸せを喜びに

春風秋雄

妻の不貞で離婚したのに、すべてを失ったのは俺だった

今回の旅はどこでもよかった。とにかく、俺のことを知っている人間がいない街に行きたかった。東京駅からSuicaで改札を通り、在来線の各駅停車に飛び乗った。

 俺は3か月前に離婚した。離婚の原因は妻に他の男が出来たからだった。それだけ聞けば、慰謝料をとって離婚をして、俺が妻を家から追い出したと思われそうだが、実際は家を出て行かざるを得なかったのは俺の方だった。何故なら、俺は婿養子だったからだ。

 俺は医大を卒業して、大迫総合病院に内科医師として働いていた。そこで院長の大迫先生に気に入られ、29歳のときに、一人娘の大迫絹香と結婚し、婿養子となった。次男だった俺は両親に相談したところ、大きな病院の跡取りになるのだから医者冥利につきると賛成してくれたので、生まれてからの名前、守屋卓(もりや すぐる)から大迫卓に変わった。絹香は俺より3歳年下で、8年間の結婚生活で二人の子供にも恵まれた。絹香と夫婦仲がギクシャクしだしたのは、子供が生まれてからだった。もともとお嬢様育ちだった絹香は、子供たちを甘やかした。何か悪いことをしても注意もしない。誕生日でも、クリスマスでもないのに、子供が欲しがると、子供にこんな高価なものを?というものを買い与えた。そのため、誕生日に俺がプレゼントを買って帰っても、見向きもせず「ありがとう」すら言わない。俺が子供に注意すると、絹香は「あなたが、そんなつまらない物を買ってくるからでしょ」と口を出すといった具合に、子育ての考え方に大きな隔たりがあった。こういうことが度重なり、俺たち夫婦はほとんど口をきかなくなった。そして、絹香は大迫病院の外科の医師と不倫をし、その医師と結婚したいから別れてと言ったのだ。

俺は、大迫院長から形ばかりの謝罪をうけ、それなりの金額を提示されて離婚に応じてくれと言われた。離婚すれば、当然大迫の家からは出て行かなければならない。そして、病院にも居づらくなるので、俺は職を失うことになる。しかし、俺は病院にも家族にも未練はなかった。離婚して苗字も守屋に戻し、アパートを借りて次の働き先を探したが、履歴書を見せると、どこの病院も雇ってくれなかった。大迫総合病院といえば、名の知れた病院なので、関わりたくないということだ。俺は地元に帰って、大迫院長からもらったお金で、小さい医院でも開こうと思った。その前に、自分の気持ちを整理するために、今回あてのない旅に出たというわけだ。

いくつか電車を乗り継ぎ、この街にたどり着いたときは夕方になっていた。駅を出ると、何もない。高いビルもなく、線路の反対側は海が近いのに、こちら側は遠くにあるはずの山の緑がぐるりとこの街を囲っている。


 とりあえず俺は、今日の寝るところを確保しようと、ホテルを探した。しかし、見渡せるところにホテルや旅館はなさそうだった。降りる駅を間違えたなと思った俺は、もう少し先の駅に進むか、戻るかにしようと考えた。その前に腹ごしらえだと、駅前にある定食屋に入った。俺はメニューを見てアジフライ定食を注文した。田舎育ちの俺は、実家にいる頃はもちろん、独身の頃はよくアジフライを食べていた。しかし、大迫の家に入ってからは、アジフライなどは食べる機会がなかった。懐かしくてついつい注文してしまった。

しばらくすると、俺とそれほど変わらない、30代後半と思われるエプロン姿の女性がアジフライ定食を運んできてくれた。化粧けのない女性だが、とても綺麗な女性だ。こんな街にこんな綺麗な女性がいるんだと、思わず厨房に戻る姿を目で追ってしまった。

この街は海が近いということもあるのだろうが、アジフライはとても美味しかった。食事を終え、時計を見ると7時だった。そろそろ移動してホテルを探さないといけない。俺がお会計をしようと立ち上がりかけた時に、奥から先ほどの女性が携帯で話している声が聞こえた。何か切羽詰まっているようだ。

「わかった。すぐに谷原医院に電話してみる」

女性は電話を切ると、今度は谷原医院に電話しているようだ。どうやら家族に急患でも出たのだろう。俺は会計をするタイミングを逃し、湯呑に手を伸ばす。

「そこを何とかお願いできないですか?他の病院へ行くには1時間近くかかるのはご存じじゃないですか」

その後やりとりをしていたが、結局断られたようだ。電話を切った女性が大将と話している声が聞こえた。どうやら娘さんが熱を出しているようだが、谷原医院の先生はすでにお酒を飲んでしまったようで、診察が出来ないということらしい。医者は基本的にアルコールを飲んでいる時は診察しない。よほどの急患であればアルコールの量の程度によっては、やむを得ず診察する場合もあるが、何かあった時に責任問題に発展するので、一切断ると言う医者は多い。

「あのー」

俺が声をかけると、大将が俺を見た。

「あ、お会計ですか?」

「ああ、お会計もお願いしたいのですが、そちらの娘さんの容態はどういう感じなのですか?」

俺の聞き方が悪かったのだろう。単に野次馬根性で聞いていると思ったらしく、気にしなくても大丈夫ですと大将に言われた。

「実は私は内科の医者です。話を聞いていると、近くの医院では診察出来ないということのようですので、よかったら私が診ましょうか?」

俺が医者だと聞いて、女性が奥から飛び出してきた。

「本当ですか?お願いできますか?」

「旅の途中ですので、大した道具も持っていないので、症状によってはさっき言われていた谷原医院に行って私が処置をするということになりそうですが」

「ありがとうございます。じゃあ、さっそくうちに来てください」

「わかりました。じゃあ大将、お勘定をお願いします」

「そんなのはいいから、早く行ってあげなよ」

大将はがそう言ってくれたが、とりあえず千円札を1枚おいて出て行った。


女性の家は車で10分程度のところだった。早速家にあがると、この女性の母親なのだろう、年配の女性が女の子に付き添っていた。

俺はどんなときでも聴診器だけはカバンに入れている。早速聴診器を胸に当てる。体温計は39度3分と表示されていた。聞くと3日ほど前から発熱して、昨日一旦熱は下がったそうだが、今日の夕方になってまた熱が上がったそうだ。体には発疹もみられた。おそらく麻疹、いわゆる“はしか”だ。はしかは自然治癒が原則だが、この子の場合、脱水症状が見受けられる。

「すみません。先ほどの谷原医院に電話をしてもらえますか?処置はすべて私がやるので、設備を貸してくださいとお願いしてもらえますか?電話が繋がれば、私が説明しますので」

電話に出た谷原医師は、俺が身分を名乗り、病状を説明すると、すぐに来てくれと言ってくれた。


女の子の母親は名前を“砂原”と名乗った。お母さんと思われる女性が“マキコ”と呼んでいたので、砂原マキコさんだろう。女の子の名前は「美与(みよ)」ちゃんだと教えてくれた。5歳ということだ。麻疹の予防接種は1歳のときにうける。それで95%の子は予防できる。しかし、残りの5%の子は運悪くかかってしまう可能性があるので、小学校に上がる前にもう一度予防接種を受けることになっている。美与ちゃんは5歳なので、二回目の予防接種をうける前だった。

谷原医院に着き、谷原医師に症状を説明し、点滴の準備をしてもらう。谷原医師は60歳は過ぎているだろうと思われる老人だった。確かにお酒の匂いをさせていたので、点滴の針は俺が刺した。これでとりあえずの処置は終わった。時計を見ると、8時だった。やばい、今日泊まるところを探さなければ。

「じゃあ、私はこれで失礼します」

俺はそう言って医院を出ようとすると、谷原医師が点滴が終わるまではいてくれと言う。

「私、今日泊まるところをまだ確保していないので、今からホテルを探しに行かなければいけないのです」

「だったら、うちに泊って下さい」

砂原さんがそう言った。

「そういうわけにはいかないでしょ」

「大丈夫です。うちは部屋数はあるので。それにうちに泊ってくれれば、美与に何かあっても安心ですから」

谷原医師もそうすれば良いと勧めてくれた。

点滴が終わるまでの間、三人で谷原医師の奥さんが淹れてくれたお茶を診察室で飲んだ。谷原医師が俺の旅の目的を聞いてきたので、東京の病院を辞めたので、気分転換にあてのない旅に出たのだというと、何故辞めたのだとか、色々聞いてくるので、離婚のことなども話す羽目になった。

「だったら、うちで働かないか?俺も年だし、守屋さんがこの医院を手伝ってくれれば助かるよ」

「ありがとうございます。でも、地元に帰って開業医をやろうと思っていますので」

俺がそう言うと、谷原医師は本当に残念そうだった。


美与ちゃんの点滴が終り、砂原さんのお宅に戻った時は、10時近かった。マキコさんがお母さんに俺を泊めることになったと説明している。

「砂原さん、ご主人は?」

俺がそう聞くと、マキコさんは仏壇の方を見ながら言った。

「3年前に亡くなりました。ガンでした」

「そうですか。では、今は三人でお暮しなのですね」

「ええ。母は、主人のお母さんです。豊子と言います」

そうか、ご主人が亡くなって、そのまま義理のお母さんと暮らしているということか。聞くと、亡くなったご主人は母子家庭で、お父さんはいなかったそうだ。マキコさんの字を聞くと、真希子だと教えてくれた。年は俺よりひとつ下の36歳だった。

寝る前に美与ちゃんの様子を見たが、まだ熱は38度台だった。


翌朝目覚めると、まずは美与ちゃんの様子を見に行った。熱はまだ38度台だった。あと2~3日はこの状態が続くだろう。

真希子さんに呼ばれ、朝食を頂くことにした。朝食は昨日の残りと思われる肉ジャガと、卵焼き、そしてみそ汁といった、シンプルな和食だった。

「朝食は和食なのですね」

「パンの方が良かったですか?」

「いえ、そうではないです。結婚していた時はずっと朝食はパンでしたから、ご飯の朝食が懐かしくて嬉しいです」

真希子さんの仕事は10時に行けば良いそうで、朝はゆっくりできるのだそうだ。お母さんは年金が入るようになって働いていないらしい。

「守屋さんの旅行は、今日はどこかへ行く予定はあるのですか?」

真希子さんが聞いてきた。

「特に決めていないです。あてもなく、足が向くままといった旅です」

「じゃあ、美与の熱が下がるまで、ここにいてくれませんか?」

「美与ちゃんは大丈夫ですよ。あと2~3日すれば熱は下がります」

俺がそう言った時に、砂原家の電話が鳴った。豊子さんが電話に出て、俺宛に電話だと言った。谷原医師かららしい。

「変わりました。守屋です」

「守屋さん、申し訳ないけど、今日うちの医院を手伝ってくれないか。朝から患者が殺到しているんだ」

「どうしたのですか?」

「麻疹だよ。美与ちゃんの幼稚園で流行っているらしい」

真希子さんに車に乗せてもらい、谷原医院へ行くと、待合室には5組ほどの親子がいた。麻疹にかかっているだろう子供は皆ぐったりしている。

「悪いね。4~5日前に麻疹にかかった子を診察したけど、その子から広がっているみたいで、美与ちゃんもそうだけど、皆同じ幼稚園の子なんだ」

俺は早速白衣を借りて、診察を始める。基本的には脱水症状がないかの確認をし、必要に応じて点滴をする。高熱でぐったりしている子には解熱剤も処方する。麻疹に感染しているかどうかの確定診断は血液検査をしなければならないので、今後ワクチンを受けるかどうかの問題もあるので、血液検査も行った。

すべての患者が終ったのは、昼過ぎだった。

「守屋さん、助かったよ。ありがとう」

谷原医師が俺を労ってくれた。一緒に昼食にしようと言って、俺を家にあげてくれた。奥さんが俺の分も昼食の用意をしてくれていた。メニューは月見うどんと五目御飯だった。うどんはネギと天かすとかまぼこの具に、生卵をおとしているだけのシンプルなうどんだった。

今朝の和食といい、この昼食といい、大迫の家にいたときとは別世界だと思った。田舎育ちの俺としては、こっちの方がホッコリした気持ちになれる。

「美与ちゃんはどうだい?」

「熱はまだありますが、特に変わったことはないので、2~3日で回復すると思います」

「守屋さんはいつまでこの街におられるのだい?」

「本当は今日出て行こうと思っていたのですが」

「せめて、美与ちゃんの熱が下がるまでいてあげたらどうかい?」

「真希子さんにもそう言われたのですが」

「あそこの豊子さんは、俺の幼馴染でね」

「そうなんですか」

「もともと高血圧だったんだけど、数年前から腎硬化症を患っているんだよ」

「そうなんですか?透析は?」

「まだ透析までは行ってないけど、そのうち必要になるかもな」

数年前ということは、真希子さんのご主人がまだ健在のときからだ。真希子さんとしてはご主人が亡くなったからと言って、お義母さんを放っておけなかったのだろう。

「だからマキちゃんとしては、美与ちゃんのことを全部豊子さんに任せるのが心苦しいのだと思うよ。そういうことだから、守屋さんさえ良ければ、もう少しいてあげて欲しいんだ」


ひょんな流れから、俺はこの街に少しだけ滞在することになった。俺が砂原さんのお宅に滞在していると知った谷原さんは、電話で俺を呼び出し、診察を手伝わせる。ちゃんと報酬は出すからとは言ってくれているが、そんなことはどうでも良い。やはり俺は医者という仕事が好きなのだろう。

美与ちゃんの熱も下がり、そろそろ大丈夫かなと思っていたところで、谷原さんが俺に頼みがあると言う。

「守屋さん、1ヵ月ほど医院を頼めないだろうか」

「1ヶ月?どういうことですか?」

「1か月が無理なら2週間でもいい。実は、白内障の手術をしたいんだ」

谷原さんの話では、ずいぶん前から目がぼんやりとかすみ、眼科で見てもらったところ、加齢による白内障だったそうだ。このままではちゃんとした医療はできないと思い、しばらく休診にして手術をしようと思っていたが、患者はひっきりなしに来るし、休むに休めない状況が続いていたそうだ。白内障の手術は、通常は片目ずつするので、1ヶ月ほどは仕事を休むのがベストなのだが、長く休みたくない場合は両目同時に手術をする方法もある。しかし、感染症のリスクを考え、谷原さんとしては、片目ずつやりたいということだった。

「わかりました。じゃあ、1ヶ月だけお引き受けしましょう。そうなると、住むところを探さなければいけませんし、一旦東京へ帰ってそれなりの荷物を持って来る必要があります」

「住むところなら、豊子さんのところに引き続き世話になればいい。豊子さんには既に了解もらっているから。守屋さんの生活費は俺の方から豊子さんに渡しておくから安心してくれ」

なんと根回しの早い人だ。俺はとりあえず東京へ帰ることにした。


東京に戻り、1か月滞在する荷物を持って、今度は電車ではなく車で移動した。大迫の家には車はベンツとトヨタのハリアーがあった。離婚する時、大迫院長はベンツを持って行きなさいと言ってくれたが、今後の維持費を考えてハリアーにした。

砂原さんのお宅に着くと、豊子さんと美与ちゃんが迎えてくれた。美与ちゃんはすっかり元気になっていた。真希子さんはお仕事のようだ。

荷物を片付けた俺は、谷原医師と今後の打ち合わせをし、早速翌日から働くことにした。

谷原医院は、受付は17時で終了し、すべての患者さんの診察が終わるのはだいたい18時だった。砂原さんのお宅に帰ると、豊子さんが食事を作ってくれている。豊子さんも美与ちゃんも俺が帰るのを待ってくれているようで、夕飯は三人で食べる。真希子さんはお店の忙しい時間が過ぎた8時頃に帰ってくる。まかないで少し食べているようだが、家に帰ってからもちゃんと食べる。

ある日、真希子さんの夕食が終ってから、4人でお茶を飲んでいると、美与ちゃんが可愛らしい手作りの人形を持ってきた。フェルトで作ったウサギの人形だ。

「これ可愛いでしょ」

美与ちゃんはそう言って俺に見せた。

「可愛いね。これはお母さんに作ってもらったのかな?」

「うん。先月の誕生日に、プレゼントでもらったの」

「誕生日プレゼント?」

「そう。お母さんが、プレゼント何がいいって聞くから、可愛い人形が欲しいって言ったら、作ってくれたの」

俺は驚いた。誕生日プレゼントに、こんなお金がほとんどかかっていない手作りの人形をもらって、この子は、本当に喜んでいる。俺の子供たちだったら、見向きもしないだろう。絹香であれば、手作りしようという発想すらないに違いない。この人形を見れば、真希子さんの美与ちゃんへの愛情がひしひしと伝わってくる。そして、この人形をもらって心底喜んでいる美与ちゃんは、感受性豊かな優しい子に育つだろうと思った。俺が作りたかった家庭とは、こういうものではなかったかと思った。


その日は木曜日で休診日だった。俺が与えられた部屋で本を読んでいると、まだ16時だというのに、真希子さんが帰って来た。

「今日は早いですね」

俺がそう言うと、真希子さんは体調が悪くて早退したと言う。見ると、顔色が悪い。とりあえず熱を測ってもらうと、37度8分あった。俺はカバンに入っている聴診器をとってきた。

「ちょっと診てみましょうか?」

「え、でも・・・」

真希子さんがためらった。

「胸の音を聞いて問題なければ、単なる風邪だと思いますから」

俺はそう言って聴診器を耳にあて、胸を出してもらうように促した。その時初めて、真希子さんがためらった理由がわかった。俺はいつも患者に接するように行動しただけだったが、真希子さんからしてみれば、同居している男の俺に胸を見せるということなのだ。それに気づくと、俺まで意識してしまった。真希子さんは仕方なく胸を出す。俺はいつもと変わらないように努めながら、聴診器をあてる。胸が終り、後を向いてもらい背中から音を聞く。とりあえず異常は認められなかった。

「単なる風邪だと思います。医院に行って、薬をとってきましょう。早く治したいのであれば、注射もしておきますが、どうしますか?」

「じゃあ、注射もお願いします」

「わかりました」

俺は医院の鍵を持って、ハリアーに乗った。

車を運転しながら、さきほどの真希子さんの胸の残像が消えない。30代後半だというのに、綺麗な胸だった。医者になって10年以上になるが、患者さんの胸をそういうふうに思ったのは初めてのことだった。そんなことを思うようでは医者失格だと、俺は自分を責めた。


真希子さんの熱は、注射が効いたのか翌日には下がった。俺は昨日のことがあったので、まともに真希子さんの顔を見られなかった。真希子さんも変に意識しているのか、会話がぎこちない。豊子さんはそんな二人を見て不思議そうにしていた。

その夜、夕食が終り、美与ちゃんがお風呂に入っている時、豊子さんが俺に話し出した。

「真希子さんは、本当によくやってくれてますよ。私は助かっています。息子が早くに逝ってしまったものだから、本当に真希子さんには苦労をかけて、申し訳ないと思っているんですよ。まだ若いし、器量も良いのに、こんな年寄りと、子供のためだけに人生を終わらせるのはもったいないし、可哀そうだなと思ってるんですよ。誰か良い人がいれば再婚すればいいと、いつも言っているんですけどね。そんな奇特な人は現れるはずはないと、真希子さんはいつも笑って言っているんです。誰か、そんな奇特な人はいないものですかね?」

豊子さんはそう言って、俺の顔をジッと見た。


豊子さんの話を聞いてから、俺は真希子さんを意識するようになった。話し方、小さな仕草、すべてが気になって来た。もともと綺麗な人だと思っていたので、気にするようになれば、異性として意識してしまうのは当然のことだった。


谷原医師と約束した1ヶ月になろうとしていた。

豊子さんと美与ちゃんはもう寝ていて、俺と真希子さん二人でコーヒーを飲んでいた。

「豊子さんが心配していましたけど、真希子さんは、再婚は考えないのですか?」

真希子さんがジッと俺の顔を見る。

「そういう守屋さんは、再婚は考えないのですか?」

「私の場合は、まず働く場所を決めてからですね」

「谷原先生が、ずっと谷原医院で働けば良いって言っていましたけど、そういう気持ちはないのですか?」

「それも選択肢のひとつです。あそこは働きやすいですし、患者さんも良い人ばかりで、こういうのもいいなと思いました」

「じゃあ、気持ちは傾いているのですね?」

「かなり傾いていますけど、それにはもうひとつ決め手がほしいですね」

「決めて?」

「できたら、谷原医院には、ここから通いたいです」

「うちは、ずっといてもらってもいいですよ」

「単に居候としてではなくて、ここの家族になりたいと思ってきました」

真希子さんが黙り込んだ。

「以前、美与ちゃんが手作りの人形をプレゼントにもらったのを嬉しそうに話していました。あの姿を見て、良い家族だなと思いました。誕生日プレゼントに手作りで人形を作ってあげる真希子さんも、それをもらって喜ぶ美与ちゃんも、素敵だと思いました。そんな家族に、私も加わりたいなと思ったのです」

「買いかぶりすぎです。私だって美与には、本当はリカちゃん人形とか、もっと良い人形を買ってプレゼントしたかった。でもうちにはそんな余裕がないのです。だから、仕方なく手作りしたのです」

「それはわかっています。でも、手作りしながら、これを美与ちゃんにプレゼントすれば、美与ちゃんは喜んでくれるだろうなと思ったのではないですか?真希子さんには喜んでもらえると信じる根拠があったのだと思います。何故なら、あなたがそうやって美与ちゃんを育ててきたから。美与ちゃんは庭に咲いている小さな花を見つけて、しゃがみこんでそれを見ながら綺麗と言っていました。真希子さんや豊子さんが作る料理を美味しいと声を出して言って笑顔で食べています。そうやって、どんな小さな事でも自分の心を豊かにし、どんな小さな幸せでも笑顔になるように、あなたは美与ちゃんを育ててきたのでしょう。そんな家族に、私も加わりたいと思ったのです」

真希子さんは俺を見つめたまま返事をしない。

「どうやら私は、真希子さんのことが好きになってしまったようです」

「それは、女としてですか?」

「もちろん、女性としてです。できたら、真希子さんと再婚したいと思っています」

真希子さんが口をつぐんだ。しばらくして、やっと口を開いた。

「私、主人が亡くなってから、もう男の人はいらないと思ってきました。ですから、どんな男性を見ても、異性として意識したことはありませんでした」

やっぱりそうか。俺のこともそういう対象では見ていなかったんだ。

「でも、自分でも驚きましたが、ふと異性を意識した瞬間がありました。それは、守屋先生に聴診器を当てるために胸を見せた瞬間でした。あれ以来、守屋先生を男性として意識してしまうようになってしまいました」

「私も、あの時は思わず意識してしまいました。医者としてあるまじきことだと思って、極力見ないようにしたのですが、チラッと見えた胸にドキドキしてしまいました」

「チラッとしか見てないのですか?」

「ええ。見てはいけないと思って、見ないように努めましたから」

「ちゃんと見たいですか?」

俺は真希子さんの顔を見た。とても緊張した、真剣な顔だった。

「もちろん。好きな女性の胸はちゃんと見たいです」

「私が守屋さんを異性として見る気持ちの中には、打算も含まれています。この人と一緒になれば、夜は働かずに、美与と一緒にいられるかな、そして少しは美与に贅沢をさせてあげられるかな、お義母さんの病気がこれから進行しても、お医者さんが家にいれば少しは安心かな、そんな打算もあるのです。それでもいいですか?」

「もちろんです。むしろ、私はそうしてあげたいと思っています」

「ありがとうございます。じゃあ、守屋さんの部屋へ行きましょう」


翌日、俺は豊子さんにここに住むことを許可してくださいとお願いした。豊子さんはすべてを察したようで、「真希子さんと美与をよろしくお願いします」と頭を下げた。

谷原さんに報告すると、

「やっぱりそうなったか。1か月も一緒に暮らせばそうなるだろうと、豊子さんと話していたんだ」

「最初からそれが目的だったのですか?」

「俺は白内障の手術が目的だったけど、豊子さんにはそうなる可能性が高いからと言って、1ヶ月住まわすことを説得したんだよ」

そうか、豊子さんは最初から俺が真希子さんと一緒になることを期待していたんだ。

でも、そんなことはどうでも良い。俺は砂原家の家族が好きだ。あの家族と、昨日の残りのおかずで楽しく朝食を食べたい。

俺は昨日の夜、布団の中で真希子さんに言った。結婚して、俺は砂原卓になりたいと。俺は一度捨てた守屋の苗字に未練はない。それより、砂原の苗字を名乗ることで、豊子さんとも美与ちゃんとも、本当の家族になれると思った。

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