第11話 純粋な愛に溺れる

 学園の塔の高さまで浮遊したところで、リヒトはようやく足を付いた。抱えられていたアイネも、平らな屋根にそっと降ろされる。


 普段見上げている場所に足を付いているのは不思議な感覚だ。屋根の上から町を見下ろすと、あまりの高さにゾッとした。


 こんな場所まで連れて来たことに文句を言ってやりたかったが、リヒトの顔を見たら牙を抜かれてしまった。学園都市を見下ろす横顔があまりに美しかったからだ。


 リヒトはアイネを支えながら、静かに語り始める。


「この町に来たばかりの頃は、こんなに幸せな場所があるのかと驚かされたよ」


「幸せな場所?」


 随分大袈裟な物言いだ。首を傾げていると、リヒトは穏やかに微笑みながらに話を続けた。


「朝起きたらみんながおはようって挨拶をしてくれて、温かい朝食も準備されている。毒が入っている心配もしなくていい。学園に行けばクラスメイトが話しかけてくれて、先生達も親切にしてくれる。とても幸せな場所だよ」


「それは普通の事なのでは?」


「普通じゃない。特別なことだ」


 リヒトの瞳は星を宿したように輝いている。純粋な眼差しから目が離せなくなった。


「この場所に来るように導いてくれたのが、琥珀色の乙女なんだ」


「え?」


 突然自分の話が持ち出されてドキッとする。リヒトは過去を懐かしむように柔らかく微笑んだ。


「魔法学園に行けば、幸せになる魔法も使えるようになる。彼女はそう言ったんだ。その言葉を頼りに、僕は生きてきた。学園に入学する時は……まあ、それなりに揉めたけど、みんなを黙らせてここに来た」


 黙らせて、というのは穏やかではない。とはいえアイネも父を黙らせて学園にやって来たから、似たようなものなのかもしれない。


「僕の人生を変えてくれた彼女には心から感謝している。再会できたらお礼を言いたい。それで今度は、僕が彼女を幸せにするんだ」


 幸せにする。その言葉に胸が締め付けられた。真っすぐな想いをぶつけられたら、どうしたらいいのか分からなくなる。


 リヒトからの愛情が、こちらの処理速度を上回る勢いで流れ込んできて苦しくなる。油断をすれば溺れてしまいそうだ。


 アイネは顔を隠すように、ローブを頭から被ってその場で蹲った。


「どうした?」


「……少し、脚が竦んだだけです」


 そういうことにしておいた。実際、脚も震えている。


 リヒトから想われているのは嬉しい。こんなにも強く恋心を寄せられたのは初めてだから。


 もういっそ、自分が琥珀色の乙女だと白状してしまいたい。だけど、それを口にした瞬間、全てが壊れてしまうような気がした。


 リヒトが恋焦がれているのは、七年前に出会ったアイネ・リデルだ。今のアイネではない。


 自分が可愛げのない女であることは自覚している。頑固者で、不愛想で、父を黙らせてまで学園に通っているような女だ。リヒトの思い描いている女性像とはかけ離れているだろう。


 もしも琥珀色の乙女の正体が知られたら、リヒトの中で育んできた恋心が消えてしまうような気がした。魔法が解けるように、あっさりと。


 リヒトから失望されることを想像すると、泣きそうになった。


「こんなに高い所まで連れて来たから、怖がらせてしまったようだね。ごめんね」


「いえ……」


 声が震えないようにするだけで精一杯だった。沈黙が続いた後、リヒトは何かを思いついたかのように声を弾ませた。


「そうだ、いいものを見せてあげよう」


 顔を上げると、リヒトは祈るように胸の前で手を組んでいた。何が起こるのかと身構えていると、リヒトは花びらを散らすように両手を持ち上げる。


――その瞬間、夜空に光の花が咲いた。


 王宮庭園でアイネが見せた魔法と同じだ。マーガレットのような形をした琥珀色の花がリヒトの横顔を照らす。


「綺麗だろう。昔、琥珀色の乙女に見せてもらったんだ。彼女と同じ魔法が使えるようになりたくて、たくさん特訓して習得したんだ」


 まさかリヒトが同じ魔法を使えるようになっているとは思わなかった。光に照らされた瞳は、キラキラと輝いている。それは得意な魔法を好きな子に見せびらかす少年のようだ。


 凄く、微笑ましい。アイネは慈しむように目を細めた。


「素晴らしいです。こんな魔法が使えるなんて、リヒト様は優秀な魔法使いですね」


 素直に賞賛すると、リヒトは驚いたように目を見開く。その数秒後、カアアっと顔を赤くして両手で頬を覆った。


「なんだろう? 今、凄く嬉しい。弟に褒めてもらったからか? 本当は琥珀色の乙女に褒めてもらいたくて特訓したんだけどなぁ」


 リヒトは顔を覆ったまま唸っている。そんな姿も微笑ましかった。何度か深呼吸すると、リヒトはこちらに向き直る。


「よし。もっと凄い魔法を見せてやろう」


「凄い魔法?」


「ああ」


 頷くと、リヒトは大きく両手を上げた。


「光の花よ、町中を埋め尽くせ」


 次の瞬間、夜空に光の花が咲き乱れた。琥珀色の小さな花が、はらはらと地上に落ちていく。幻想的な光景に、アイネは瞳を輝かせた。


「こんなにたくさん……凄いです!」


「そうだろう、そうだろう」


 リヒトは得意げに笑いながら、次から次へと光の花を散らす。学園都市が花で埋め尽くされてしまうのでは心配したが、光の花は地上に落ちるよりも先に闇夜に消えていった。


 胸の高鳴りが抑えられない。こんなにも美しい魔法は初めて見た。アイネはリヒトの魔法に心惹かれていた。


 夜空に舞う光の花は、少しずつ消えていく。もう終わりかと思うと、寂しい気分になった。


 光が完全に消えた時、リヒトは深く息を吐きながらアイネの隣で蹲った。


「どうしました?」


 枯れた花のように蹲るリヒトを心配していると、ぐったりしたまま告げられた。


「調子に乗って魔法使ったから、魔力が枯渇しかけている。今日はもう、魔法は使えそうにない……」


 それはお気の毒に、と労おうとしたが、今の状況を把握すると背筋が凍った。


「どうするんですか!? こんな屋根の上で!」


 ――前言撤回。無計画に魔法を使うこの男は、あまり優秀ではないのかもしれない。

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