第10話 夜間飛行

「アイネ、まだ怒っているのか?」


 自室で飛行術のテキストを読んでいると、扉の外からリヒトの声が聞こえてきた。アイネは小さく溜息をつきながらテキストを閉じる。


「怒っていませんよ」


 リヒトが気にしているのは今朝のことだろう。アイネも気にしていないと言えば嘘になるが、これ以上気まずい雰囲気を長引かせるのも面倒だ。


「直接謝りたいから、部屋に入ってもいいか?」


「はい」


 アイネが許可すると、リヒトは扉をそーっと開けて顔を出した。


「断られなくて良かった」


 安堵したように微笑むリヒトを見ていると、避けていたことが馬鹿らしく思えてきた。部屋に入ると、リヒトは深々と頭を下げる。


「今朝はすまなかった。男同士といえども、あのような話を振るのは良くなかった。反省している」


「もういいですから」


 これ以上掘り返さないでほしい。余計なことまで思い出してしまうから。


 無事に仲直りできたところで、リヒトは机に寄ってきて手元を覗き込んだ。


「何をしているんだい?」


「明日の授業の予習をしていました」


「ほう、アイネは勉強熱心だな。偉いぞ」


 頭を撫でようと伸びてきた手を、アイネは振り払う。


「勉強するのは当然のことです。私は魔法を極めるためにこの学園に来ているのですから」


 素っ気ない態度を取るアイネを見て、リヒトは残念そうに手を引っ込めた。


 しばらくは腕組みをしながら何かを考えるような仕草を見せていたが、妙案を思いついたのかパッと表情を明るくした。


「そうだ! お兄様が勉強を見てあげよう!」


「結構です」


「遠慮することはない。こう見えても僕は首席なんだ」


「首席? 冗談でしょう?」


 つい失礼なことを口走ってしまった。とはいえ、リヒトが主席というのはどうにも信じがたい。


「冗談じゃない。僕は優秀なんだ」


 リヒトは腕組みをしながら得意げに笑う。嘘をついているようには見えなかった。


 首席というのは俄かに信じがたいが、監督生という役職を任せられているのだから優秀なのは確かなのだろう。意外な一面に驚いていると、ひょいっと飛行術のテキストを奪われた。


「なるほど、飛行術か。コレに関しては理論を叩きこむよりも実践した方が早い。理論が頭に入っていても、飛ぶことを恐れていたら上達しないからね」


 その理屈は分かる。知識として飛び方を理解していても、実際に空を飛ぶのは勇気がいる。アイネも空を飛ぶことに不安に感じていた。


 すると目の前に手が差し出される。顔を上げると、リヒトが微笑んでいた。


「今朝怒らせてしまったお詫びだ。可愛い弟に空を飛ぶ楽しさを教えてあげよう。立って」


 言われるままに椅子から立ち上がる。次の瞬間、リヒトはアイネをひょいっと両腕で抱え上げた。


「ちょっと、何を?」


 アイネは身をよじらせて抵抗する。しかしリヒトは抵抗なんてお構いなしに、アイネを抱きかかえたまま窓へ移動した。


 窓を開けると夜風が吹き込み、二人の髪を揺らした。呆然としていると、薄く微笑んだリヒトから指示される。


「しっかり掴まっているんだよ。そうでないと落としてしまうからね」


 一体何を、と尋ねようとした瞬間、リヒトはアイネを抱えたまま窓の外に飛び出した。


「ひゃっ!?」


 黒いローブが羽のように広がる。風の勢いを感じながら、重力に従って落下した。


 アイネの部屋は二階だ。飛び降りるなんて正気の沙汰ではない。


 目をぎゅっと閉じて身構えていたが、いつまで経っても落下の衝撃はやって来ない。恐る恐る目を開けると、驚くべき光景を目にした。


 リヒトが宙に浮いている。箒も持たずに夜の学園都市をゆっくりと浮遊していた。


「浮いてる? 箒も持たずに?」


「僕は箒がなくても飛べるんだ。もっとも、このことはみんなには内緒だけどね」


 内緒という割には随分派手に飛んでいる気がするが、いいのだろうか? アイネの心配も余所に、リヒトは楽し気に笑いながら足もとへ視線を向ける。


「見てごらん。町が綺麗だよ」


 恐る恐る視線を下ろす。そこには淡い光に包まれた学園都市が広がっていた。


 街灯や民家から漏れる灯りが、空中から見るとこんなに綺麗だなんて知らなかった。オレンジ色の光に包まれる町並みを前にして、感嘆の溜息を漏らす。


「綺麗……!」


「気に入ってもらえて良かったよ。空を飛ぶのも悪くないだろう?」


「はい。私も自分の力で飛んでみたくなりました」


「アイネならきっとすぐに飛べるさ。少しスピードを上げるからしっかり掴まっていてね」


 リヒトは片足で宙を蹴りぐんぐんと上昇する。ひゅんと心臓が縮こまる感覚に襲われ、咄嗟にリヒトのローブにしがみついた。胸板に顔を埋めながら身を固くしていると、リヒトに甘い声で尋ねられる。


「怖い?」


 正直に頷くと、抱えられている腕に力が籠った。


「大丈夫。落としたりしないから」


 今はその言葉を信じるしかなかった。自分の命は、この男に委ねられているのだから。

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