第4話

「真野くん、ちょっといいかな?」


 教室後方の扉から呼び掛けられた純太は声の主に振り返り、ギョッとした。そこには全身を黒い布に覆われた翠が立っていたからだ。

 いよいよ文化祭も目前に迫り、午後からの授業は全て文化祭の準備にてられている。純太のクラスは投げ輪やダーツ、ミニバスケなど屋台に並んでいるような遊具で遊んでもらうことになっており、今はその飾り付けの制作をしていた。

 汚れてもいいように、と体操着に着替えているクラスメイトが詰める教室に、黒尽くめの翠の出現は異様だった。


「その格好どうしたの?」


 扉に辿り着くなり、思わず尋ねてしまう。


「うちのクラスの出し物に急遽出ることになっちゃって」

「三組は演劇カフェだっけ?」

「うん、そのキャストとして。魔法使いのおばあさん役」


 そう言って翠は両腕を広げる。一枚の布かと思いきや、きちんとローブのような形にはなっているらしい。服に着られて布の塊に見えなくもないが。

 決まった人数の客にまとめて入ってもらい、注文を取るところから演劇スタート。準備や配膳中にキャストとなった生徒が客にも参加してもらいながら演劇を行うというコンセプトだったか。

 言わば即興劇の要素も含まれている出し物のキャストだなんて随分とハードルが高い。


「演技するなんてすごいね。しかも急に選ばれてとか」

「人前で話すのに慣れてるから出来るかなって」

「そうなんだ?」

「実は中学のとき、クラス委員やってたんだ」


 多分、きっと、純太の思い違いでなければ翠はドヤ顔になっている。

 僅かに上がった顎と少しだけ自信を覗かせた笑顔が微笑ましく、表情だけでは止められず声に出して笑ってしまった。


「知ってる。高江に聞いたよ」

「え、知ってたの?」


 眼鏡の奥の瞳が見開き、一瞬にして紅潮した。


「うわぁ、自信ありげに言ったのに恥ずかしい」

「いや、クラス委員出来るのもすごいし、劇に出るのもすごいと思う」


 素直な気持ちでそう言えば、赤らんだ頬のまま彼女は眉を下げて笑う。


「演技はやってみないとわからないけどね」


 それでも大したものだと心の中で感心していると、翠は「あ」と口を開いた。


「ごめん、話が逸れちゃった。ちょうど演劇カフェのことでお願いがあって」


 うん、と頷いて話を促す。


「演劇カフェのお客さんって入れ替え制だから整理券を配ろうって話になってね。待ち時間に他の二年生の出し物を見てもらえるように案内するのはどうかなって。四組はお客さんいっぱい入れそう?」

「ゲームはいくつかあるし、ランキングを決めるから時間掛けてやる感じじゃないし、増えても大丈夫だと思う」

「ほんと? 良かった」


 安堵の笑顔に純太の視線は釘付けになる。

 数日前のホールでの一場面が鮮明に思い出された。

 どくんと鼓動が跳ねたことを自覚し、その嫌な予感に慌てて言葉を探す。


「あー…コマちゃんは、その、ずっと演劇に出続けるの?」

「ううん、キャストもちゃんと交代制だよ」

「じゃあ、暇があったらゲームしに来てよ」


 咄嗟に引き出した会話にも翠は快く頷き、誘いを受けてくれた。

 また小さな後悔が降ってくる。




 作業は放課後まで続き、秋空にうっすら夕闇が迫り始めた頃。

 帰宅準備を整えた純太はクラスメイトと共に教室を出て薄暗い廊下を歩く。ふと視線を窓の外に投げると、外灯の下を歩く数名の女子生徒の姿があった。

 コマちゃんだ、と心の中で呟く。

 周囲には別の女子生徒もいるというのに、すぐにその姿を捉えてしまった。


 彼女を、駒井翠を意識しているのだと、いよいよ純太も自覚する。

 きっかけは、あの告白だ。

 それまで純太の中で『駒井翠』という女子生徒の存在は形成されていなかった。委員会のミーティングだって隣に座るおさげ頭の女子がいたという認識だったし、告白前に呼び出されたときに正面から見た彼女も知らない人という括りにいた。


 しかしあの告白を経て翠が委員会で肩を並べていた事実を知り、同級生のみならず先輩にまで頼りにされている様を見て、彼女の一面に触れた。

 実際に言葉を交わしてみれば気遣いに溢れ、こちらに気まずい思いをさせまいと心を砕いているのがわかる。

 けれどその態度は卑屈なものではなく、屈託なく笑う様はおおらかで彼女の心根をそのまま現しているように思う。

 だからこそ、積み重なる後悔は重みを増していくのだけれど。


「純太、何してんの」


 クラスメイトに呼び掛けられて意識を引き戻す。外灯の下にはもう彼女の姿はなかった。

 数メートル先の友人たちに追い付くために足を動かす。

 心の中では別の一歩を踏み出すための勇気をかき集める純太だった。



◇◇◆◇◇



 文化祭当日、実行委員は朝一番に多目的ルームに集められていた。

 壇上に立った実行委員長が仲間に労いの言葉を送り、最後に文化祭の無事の成功を祈って締めくくる。これが実質的に最後のミーティングとなることを承知しているため、各々が手を打ち、声を上げて士気を高めるとそれぞれの教室に散っていく。

 純太を含む二年生もぞろぞろと二階に向けて階段を降りていた。


「コマちゃんは演劇カフェの出番いつなの?」


 それとなく隣に並んで話を向ける。一瞬だけ純太を見上げた翠は、足元を踏み外さないように再び視線を下ろして答えてくれた。


「途中交代も挟みながらだけど、午前中担当だよ」

「そっか。俺も午前中にスコア記録しなきゃだから見に行けないな」

「いやー、恥ずかしいから来なくていいよー」


 からりと笑う彼女の横で、告げられたスケジュールを記憶に刻み込む。

 階段を降りれば、そこはホールだ。平常時は無機質な空間だが、今では各クラスの看板や設置物で騒々しく埋め尽くされてる。自分たちにはすでに見慣れた景色でも、すでに登校し始めている生徒たちが物珍しそうに眺めている様子を見ていると、こちら側に特別な繋がりを感じるような気がした。


 廊下を歩けば一人、また一人と実行委員の仲間が教室に吸い込まれていく。

 三組の教室前で翠が足を止めた。


「みんな頑張ろうね!」


 残りのメンバーにそう声を掛け、手を振って教室に姿を消す。


(頑張ろう)


 誰に告げるでもなく心の中で呟いて、純太もまた装飾の施された四組の教室へ入った。




 外部招待はされず、訪れる客は生徒と教師に限られているため、穏やかに文化祭の時間は過ぎていく。

 扉付近で入りづらそうにしている後輩たちに声を掛けたり、ダーツで凄腕を見せる先輩を囃し立てたりしながらランキング用のスコアをメモしていく。三十分ごとにホールのランキング表を書き換えるために教室を出ていた純太は、ちょうど三組の演劇カフェが客の入れ替えを行うタイミングに出くわした。

 整理券を持った生徒の列に、芝居がかった口調で入店を促している仮装した三組の面々。もちろん、黒尽くめの魔法使いもいる。


「さぁさ、お客人がた。どうぞこちらへ」


 眼鏡をずらし気味にした翠がローブに覆われた手で扉を指し示す。

 人の多い廊下で仮装した格好は幾分目立つ。足を止めてその様子に見入る生徒たちに混じって純太も事の成り行きを見守っていると、客の最後尾につけた彼女がふいに廊下を見渡した。

 翠を目で追っていた純太は、自然と視線が彼女とかち合う。

 ずれた眼鏡越しに覗く大きく見開かれた瞳と瞬時に赤らんだ頬、ローブの袖で顔を隠してそそくさと立ち去る姿は、彼女の羞恥を如実に現していた。


(本当に恥ずかしかったんだな)


 朝の階段のやり取りでやんわりと拒否されたことが心に引っ掛かっていたけれど、言葉通りの意味だったらしい。クラス委員をやっていたと自信げな態度をとっていた彼女とのギャップが微笑ましい。

 しばし閉じられた三組の扉を見つめていた純太は己に課せられた仕事を思い出し、急ぎ足でホールへ向かった。




「三年のマジックやってるクラス、ヤバかった。タネ全然わかんねぇ」

「茶道部のお茶美味しかったよー」

「早く体育館行こ。吹奏楽部そろそろでしょ?」

「腹減ったからどっか食べられるとこ行くか」


 午前の当番を外れた者たちが教室に戻り始める。そろそろ交代の時間だ。

 教室後方に段ボールの壁で仕切られた狭い控室がクラスメイトでひしめき合う。催し物を満喫してきた者、これから出向く者の会話が飛び交い、ゲームを楽しむ生徒たちのざわめきと混じり合って賑やかさを増していく。

 その喧騒をくぐり抜けて廊下に出た純太は隣の教室の扉を確認する。そこには演劇カフェの開演スケジュールが貼り出されており、そろそろ次の客が入る時刻だ。

 午前中の担当だと言っていた翠も入れ替わりのタイミングで出てくるのでは、という純太の予想は幸運なことに当たっていた。


「コマちゃん、少し時間いいかな?」


 友人と連れ立って出てきた翠はいつも通りのブレザー姿だった。

 純太の声掛けに翠本人ではなく隣の女子生徒が先に反応する。


「実行委員の話じゃない? 翠、後で合流しよ」

「うん、ちょっと行ってくるね」


 軽く手を挙げて去っていく翠の友人に心の中で謝罪する。

 あるのはごくごく私的な話で委員会の話ではないのだ、と。


「問題でもあった? うちのクラスのお客さんがいっぱい行っちゃったとか?」


 内省する純太を余所に、翠が心配げな表情を浮かべる。安心させるために笑顔を取り繕った。


「ううん、そういうんじゃないんだけど。ここ人が多いから移動してもいい?」


 笑顔も言葉も不自然にならないように心掛けたつもりだが、実際にどうなっているのか、自分ではわからない。しかし翠は訝しむ様子もなく、「いいよ」と頷きを返してくれる。

 気を抜けば震えそうな足に力を込めて、純太は一歩を踏み出した。

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