第3話

 文化祭の準備が進むにつれて校内も活気付いていく。廊下には各クラスの催し物に使われる小道具や装飾品が雑多に並び始め、それらを囲んで話し合う生徒の声も心なしか弾んで聞こえる。

 休み時間、純太はメジャーを片手にクラスメイトの高江たかえと二階のホールに来ていた。以前ミーティングで決めた仮案が本決定となったので、純太のクラスに与えられたスペースの採寸を行うためだ。

 二階のホールはそのまま二年生の教室が並ぶ廊下に繋がっている。その廊下への出入りに邪魔にならず、しかし通行人の目に留まりやすい位置を提案してくれたのは翠だった。

 高江と二人がかりで計測した数値をメモしていく。


「なぁ、高江。ランキング表の高さはこれくらい?」

「もう少し低くしないと女子が見辛くね?」

「あぁ、そっか。じゃあ看板も低めにしなきゃか」


 養生テープで壁に目印を付けながら作業を進めていると、廊下の先を小走りで駆け抜けていく人影を見た。「コマちゃんだ」と思わず口から零れてしまう。


「純太、コマちゃん知ってんの?」

「あー、うん。文化祭実行委員で一緒。高江も知ってるんだ?」

「中学から一緒だもん」

「へぇ。その頃からみんなにコマちゃんって呼ばれてるのか」

「そう。コマネズミのコマちゃん」


 ん?と純太は首を傾げた。駒井のコマちゃんじゃないのか、と。

 そっくりそのまま質問すれば、あっさり高江は頷いた。


「多分最初はそのはず。でも担任がコマちゃんに『お前はコマネズミか』ってツッコんでさ」


 彼女は中学時代にクラス委員を任されていて、クラスの雑用をテキパキとこなしていたらしい。その立ち回りがすばしっこく、思わず担任が放った一言だそうだ。


「髪も今はふたつに分けてるけど昔は後ろでひとつに結んでてさ。それ尻尾だろって言われてたわ」


 そう言えばミーティング以降、時折見掛ける翠はいつも耳下のツインテールにしている。過去のミーティングの記憶を辿っても、忙しなく動いていた女子はその髪型だったような気がする。

 しかしこの瞬間、純太の脳裏に蘇ったのは髪を下ろした彼女だった。

 暖色を薄く乗せたような十月の柔らかい日差しが襟元まで垂れた黒髪をつややかに照らしていた。よく似合っている桜色の眼鏡もなかった。


(もしかしてイメチェンしてくれた、とか?)


 短絡的な思考ではあるけれど、あの日にしか見せなかった様相に特別な意味を見出してしまいそうになる。

 自惚れた発想だと気付いて、すぐに頭の隅へ押しやる。自分自身に恥ずかしくなり、高江との会話に意識を引き戻した。


「ニックネームの由来がネズミってどうなの」

「いや、本人喜んでたよ。俺らコマネズミがわかんなくて画像検索したんだけど、コマちゃんは画像見てはしゃいでた」


 そんなものなのか。純太もコマネズミを知らないので今ひとつピンと来ない。


「まぁ実際可愛いしな」

「え?」


 思いがけない言葉にぎくりと心臓が跳ねる。


「純太もそう思わん?」

「いや、俺は……」


 どう答えるべきなのだろうか。高江があっさりと言ってのけるのなら、自分もあっさり答えても問題ないのだろうか。


「見たことないのか、コマネズミ。画像検索してみ」

「あ、あぁ、そっちか」

「ん?」

「いや、何でも」


 早とちりしたことを内心で恥じつつも手はポケットのスマホに伸びていた。

 高江が横から覗き込んでくる中、素早く検索文字を入力する。そうしてずらりと表示された小動物の画像に、純太は図らずも癒やされてしまった。




「純太、立て看板の奥行きってどれくらいまでいける?」


 放課後、クラスメイトから問い掛けが飛ぶ。

 教室の床に屈み込んで養生テープを貼り付けていた純太は声の主に問い返す。


「あれ、測ってなかったっけ?」

「メモには書いてないぞ」

「悪い、今から測ってくるから別のところを進めておいて」


 床に置いていたメジャーを拾い上げる。巻き取りボタンを押せば、だらしなく垂れていた目盛りテープが軽快に収納されていく。最後まで巻き取ったことを確認してから純太は立ち上がり、教室を出た。

 測り忘れがあったとは迂闊だった。休み時間に高江と採寸した際のことを振り返り、メジャーを持つ手を止めて翠の話題に触れたことに思い至る。


(あのときかぁ)


 自意識過剰になったり、狼狽えたり、無駄に心を揺らして肝心な作業をおろそかにしていては意味がない。ましてやコマネズミの画像に癒やされている場合でもない。

 何をやっているんだ、と自戒の念を抱いたところで、通り過ぎようとしていた三組の教室の扉が唐突に開かれた。


「うおっ」

「わぁっ」


 あと一歩でぶつかる距離だった。互いが何とか踏み止まり、衝突は避けられた。しかし相手は大きく上半身を引いたため、眼鏡のフレームが少々ずり落ちてしまっている。


「ごめん、大丈夫だった?」

「こっちこそごめんね、急に出たりして」


 姿が視界に飛び込んできた瞬間に誰かを悟った。小柄なその身を案じれば、翠も申し訳なさそうな表情で見上げてくる。

 純太はハッと息を飲んだ。

 ずり落ちた眼鏡のレンズ越しではない、素の瞳がそこにあったから。

 中庭で対峙した、何物にも遮られていない真っ直ぐな眼差しを否が応でも思い出してしまう。


「あー…眼鏡、傷付いてない?」


 動揺を隠すためにそれらしい言葉を捻り出す。

 眼鏡のつるを指で押し上げて軽く笑んだ翠は、いつも通りの彼女だ。


「大丈夫。真野くんもまだ文化祭準備?」

「うん。ホールで採寸し忘れたところがあって」

「奇遇だね。私もほら」


 そう言ってパステルピンクの小ぶりなメジャーを軽く振って見せてくる。

 行き先が同じとなると自然と肩を並べて歩くことになる。準備に奔走する生徒の合間を縫ってホールへと向かうが、会話らしい会話の糸口が掴めない。

 いくらか砕けた接し方になったとはいえ、二人きりではまだ緊張が伴うし、翠絡みで自意識過剰な自分が露呈していくことに恥ずかしさも覚える。何より、今こうしている間にも彼女に無理を強いているのではないかという罪悪感もある。

 顔を真っ直ぐに向けたまま、横目でそっと動向を探る。

 翠は廊下を彩り始めた文化祭のポスターや小物を楽しそうに眺めながら歩いている。


(何ともない、のかな)


 彼女にとっては終わったことで、とっくに気持ちの切り替えは済んでいるのだろうか。

 言いようのない靄がかった気持ちが心に広がり始めたとき、二人はホールへ到着した。


「もうお化け屋敷の看板が入ってる!」


 ホールの一角を見るなり、翠が驚嘆の声を上げる。つられて純太もそちらを見やると、休み時間にはなかった不気味な色彩の大きな看板が壁に立て掛けられていた。動かないように固定されているところを見ると、すでに完成形のようだ。


大牟田おおむたくん、早いね。もう作ったんだ?」


 遮蔽するための暗幕を手にした二組の実行委員、大牟田に翠が話し掛ける。


「お化け屋敷は前日じゃないとセット組めないから、こういうところから進めないとさ」

「そっかぁ。あ、ここにスタンプラリーの台を隠すんだよね?」

「そうそう、柳の葉っぱの下に置けるようにした」


 看板上部から枝垂れるように作られた紙の柳を大牟田がひょいとめくって見せると、翠は興味深げに観察を始める。その表情は好奇心に満ちていて、まだ準備段階の今でさえ楽しんでいるのがひしひしと伝わってくる。


「コマちゃんも見に来いよ。俺、幽霊役だからめちゃくちゃ驚かせてやる」

「絶対行くよ」

「真野もだぞ。特別サービスしてやるから」

「お化け屋敷のサービスって何だよ」


 軽口を叩いた大牟田は暗幕を被せて看板を隠すと「セット作りに戻るわ」とホールを後にする。


「楽しみだなぁ」


 残された翠が黒い幕に覆われてしまった看板を見つめたまま、その声に期待の感情をたっぷり込めて呟く。


「そんなに文化祭好きなの?」


 訊いたのは何となくだった。


「うん、大好き」


 失敗した、と思った。

 何故こんな問い掛けをしたのか、と後悔した。

 振り返った翠は一片の曇りもない笑顔で純太の質問に答えを差し出した。しかし今の純太にとって、その言葉はまるで違う意味に聞こえてしまう。


「昔からお祭りが好きなんだけど、自分たちで作り上げる文化祭が一番かなって」


 続く翠の言葉がかろうじて耳を掠めていくが、意識は別のところを漂っていた。


(もし……もし、あのとき断らなければ)


 この一言も笑顔も、自分に向けられる日が来たのだろうか。

 惜しくなったわけではない。

 しかし、自分の返答次第で得られていたかもしれない幸福がこのような形なのだと現実味を帯びると、無性に胸を掻きむしりたくなる。


「真野くんは文化祭好き?」


 何の含みも感じさせない、ごくごくありふれた会話。

 けれど純太には「うん」としか返せなかった。

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