第19話 月と海・前編
ヴォルフスファングを構えたアドルフを、だがオイゲンは制した。切れ長の左目に、必死の色合いが凝っている。
「止めろ、アドルフ。貴方の言う通りだ。確かに、貴方の言う……。しかし未だヨーゼフを傷付ける時ではない」
「貴様は何を言っている。オイゲン、その手を離せ!」
アドルフが左手を振り払った。黒い籠手のスパイクで頬を打たれながら、オイゲンはなおもアドルフを見据えている。
「ヨーゼフが以前、私に教えてくれたことがあるのだ。今のような事態を見越して」
「……何?」
「ヨーゼフはこう言っていた」
アドルフがオイゲンを見つめた。精悍な面差しに当惑が浮かんでいる。オイゲンは小さく息をつき、
「―――己が肉体を捨て、その意志と魂で他者の体を乗っ取り、新たな生を生きる邪術を心得た魔術師がいる。万一己がそうした邪悪の徒に体を奪われ、心を失おうとする時には、耳飾りを外す。その時は自分を殺してくれ、自分がこの世に邪悪を撒き散らす前にと、そう言っていた。これは貴方が自分にくれた耳飾りで、大切なものだからと、そう」
アドルフは黙した。青い目がオイゲンを見、真紅のマントの魔術師を見つめ、そしてまたオイゲンを見た。隻眼の騎士はアドルフを見つめ返し、
「アドルフ、ヨーゼフは未だ耳飾りを外していない。彼は私との約束を違えない。待っていて欲しい。どうか―――」
「私も待っていて欲しいんだ!だってヨーゼフはすごく強いから。魔力だけじゃなくって、心も強いんだ。強くって、すごく優しい。そのヨーゼフが言ったんだ。アドルフ、だから―――」
ラインハルトが必死の叫びをあげた。メルヒオールに治癒魔法の白光を注ぎ込みながら。同じく治癒魔法を行使するぽこの黒い目が、アドルフを見上げる。
「アドルフさん、ボクからもお願いしますよう。……ヨーゼフさんがいなくなっちゃったら嫌ですよう……」
「だが、オイゲン、ライニ、ぽこ。だが―――」
アドルフが首を振った。己に絡みつく様々の思い、己の迷いを振り払うかのように。
「愚か者」
ユストゥスが唇を歪めた。闇色の双眸がラインハルトたちを睨み据える。
「一時の感傷に捕らえられ、合理的な決断を下すことが叶わない。それは心身共に脆弱な者の振る舞いだ。―――私が見せてやろう。この器が心を失ったという証を」
雪白のほっそりした指が動いた。耳たぶを飾る、ルビーと金の枠に触れようとし―――。
「止めろ、止めろ!止めろ!!」
オイゲンは叫び続けている。血を吐くような叫びだ。ラインハルトも、また。
「止めろっ、ユストゥス!!止めるんだっ!!止めろおおお!!」
「……奇妙だ」
ユストゥスが呟いた。闇色の目が、指先を呆然と見つめている。白い指が真紅のマントに触れ、アナテマの操作盤に触れる。そしてルビーの耳飾りに触れようとする。だが……。
「……耳飾りに触れることが叶わない。外套に触れること、アナテマの操作盤に触れることは叶う―――いや」
ユストゥスの声が不自然な震えを帯び始めた。驚愕が焦燥に取って代わられようとしているのだと、オイゲンは感じた。
「指先が動かない……。耳飾りばかりではない。クレイヴ・ソリッシュの光を放つことも、―――雷術魔法までもか!!」
ユストゥスの声が甲走る。指先が全身に、周囲のものに、狂ったように触れようとする。手のひらを掲げ、魔力を集中させようとする。
だが耳飾りに触れることは叶わない。アナテマの文字盤に力を込めることも出来ない。手のひらに青白い雷光が宿ることはない。指先、手のひらは、突如として動きを止め、予期せぬ動きをする。ユストゥスを嘲弄するかのように。
「……ヨーゼフ…」
アドルフが呟いた。ラインハルトは頷き、潤んだ空色の目を真紅のマントの魔術師に向けた。
「ヨーゼフはやっぱり、すごく強いんだ。強くて、優しい心の持ち主なんだ。オイゲンとの約束を守ろうとしてるんだ……」
「ヨーゼフ……、私は…」
オイゲンの声が震えた。手が激情で震えかけるのを、シャルフリヒターに力を込めることで何とか押さえ込む。
「私は貴方が……。貴方を守る!!」
「……この器は……」
ようよう呟いたユストゥスの上体はだが、がくりと揺れた。苦悶の呻きがもれる。指先が両の肩を抱く。その関節が白い。呻きにある変化が現れたのは、その時だ。
「………に、勝手なことをして……んです。……わたしの体…、に…!」
呻きは切れ切れの言葉になり、言葉は力を帯び始めた。
「……ヨーゼフ。ヨーゼフ!!」
「ヨーゼフっ!」
「ヨーゼフさん…!」
「貴様……、貴様なあ!」
ラインハルトたちの叫び―――感嘆と喜びの叫びに、ヨーゼフはにやりと笑い、
「魔術師ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲンはね、無粋な邪魔が嫌いなんです……!……今更、ユストゥス殿、遅いですよ…。わたしの体から、怖じ気づいて……逃げ出そうたって…。させるもんですか……!オイゲン、ライニ!!」
「ヨーゼフ!」
ラインハルトとオイゲンを、ヨーゼフの闇色の双眸が見つめた。沈着と強靭な意志力を蘇らせた目が。
「……わたしを刺し、わたしに雷術魔法を撃つんです。…この、このヒメルの魔術師もろとも……!!」
身の内で荒れ狂うユストゥスの意志、魂を押さえ込むことに、相当の体力を消耗しているのだろう。ヨーゼフは荒い息をつき、それでも指先は胸元を示した。アドルフがその目を見開く。
「ヨーゼフ、そんなことをしたら貴様が死―――」
「分かった、ヨーゼフ。一瞬で済ませよう」
アドルフの叫びをよそに、オイゲンはシャルフリヒターを構えた。魔術師の胸元―――その指が示した胸元に切っ先を定める。
「……それで良いんです。……逃がしゃしませんよ、ユストゥス殿…!器の選び方を間違えましたねえ……っ!!」
焼け付くように赤い唇に、ヨーゼフは笑みを浮かべた。美しい深淵の凄絶をたたえる笑みを。ラインハルトがゴルデンレーヴェを構える。呪文を詠唱する。
シャルフリヒターの切っ先が、魔術師の胸元――つい先刻ヨーゼフが示した右胸――に刺突を加える。真紅のマントの魔術師がよろめいた様を認め、オイゲンの左目はラインハルトに鋭い一瞥をくれた。魔杖のアクアマリンが、青白い雷光を雨さながらに降らせる。刺突の苦痛に苛まれる魔術師を、強かに打ち据える。
「ヨーゼフ!ライニ、オイゲン、貴様らは―――」
アドルフが叫ぶ。だがそれは苦渋と絶望の叫びではない。ヨーゼフの体から白く幽かな光芒が揺らめくように出、倒れ伏すユストゥスの体に吸い込まれていったのを、アドルフの青い目は確かに認めていた。
「……もっと早くに出ていって欲しかったですね。…これじゃ、わたしの体が保たないじゃないですか……」
白い床に両膝を付いたヨーゼフを、駆け寄ったオイゲンが抱き止める。ぽこを抱えたラインハルトが、その後に続く。
「ヨーゼフさんっ!」
「大丈夫かっ、ヨーゼフ!ヨーゼフが合図をしてくれたから―――一撃で仕留めることの出来ない右胸を示してくれたから、加減して撃ったけど。痛みはないかっ?」
「……痛いには痛いですねえ。まあ、ライニの雷術魔法、オイゲンの刺突にユストゥス殿がいよいよ動揺し、わたしの体から逃げようとしましたのでね。わたしもユストゥス殿を縛す力を弱めたんです。結果としてわたしは体を取り戻せたわけですが……」
ヨーゼフは苦笑し、ラインハルトの頬を軽く叩いた。
「ライニ、魔法の威力が増していることくらい把握しておいてください。オイゲンも、自分の馬鹿力を自覚しておいた方が良いです」
「自覚しておく。だがヨーゼフ、私はもう二度と、貴方をこんな危険にはさらさない」
オイゲンは生真面目に言い、ヨーゼフを抱く腕に力を込めた。ぽこは丸ぽちゃの手で丸ぽちゃの顔をあおぎながら、
「あーあー、ふーふー、やーれやーれ」
「ぽこ!おちょくったりしちゃ駄目だろ!大人の男の思いやりを見せなきゃ」
ラインハルトはラインハルトでどこかずれている。オイゲンの馬鹿力と熱烈な恋歌(こいか)に耐えかね、ヨーゼフが呻いた。その首筋が赤い。
「とにかく痛いです……。色々と」
「大丈夫だ、ヨーゼフ」
ヨーゼフの傍らに屈み込んだメルヒオールは、真紅のマントの背に手のひらを当てた。メルヒオールの声音、サファイアブルーの瞳には、力が蘇っている。
「私が君に治癒魔法をかける。ユストゥスを防ぎ止めてくれた君には、感謝してもしきれない」
「それは光栄ですねえ。マラキアの魔術師、緋炎のヨーゼフとして」
「それだけ皮肉が言えりゃあ大丈夫だろう。しかしあの厄介な機械―――アナテマを捨て置くわけにはいかんな」
アドルフは持ち前の無造作な口ぶりで言い、アナテマの操作盤にヴォルフスファングの切っ先を向けた。オイゲンとラインハルトも頷き、ヨーゼフをメルヒオールに託す。シャルフリヒター、ゴルデンレーヴェを構える。
「ライニ、オイゲン、アドルフ。アナテマを頼む!ユストゥスには私がとどめを刺す。―――刺さなければ」
「……」
ラインハルトの空色の目に、屈託の影がすっとよぎった。だがそれも束の間のこと、
「アドルフ、オイゲン!壁の機械とコードは、私が雷術魔法で壊す。二人には操作盤と、周りの機械を壊して欲しいんだ!」
「分かっ―――」
アドルフが言いさし、言葉は宙ぶらりんのまま消えた。
「ライニ、分かった!」
オイゲンは跳躍し、操作盤を台座ごと両断した。返す刃で、ぐるりの機械、台座を薙ぎ払う。
「壊してから言う奴があるか。それから俺の分も残して置け!」
アドルフは不敵に笑い、円盤状の機械を切り飛ばしている。鈍色の機械とコードを撃ったのは、青みがかった白い雷光だ。
「……く…!!」
ユストゥスは呻き、僅かに残る魔力で己に治癒魔法を使おうとし―――。
「させませんよ!」
ヨーゼフがシュラークを向ける。火焔の鳳は咆哮し、ユストゥスに飛び掛かった。紅蓮の両翼、燃え盛る鉤爪が、黒衣の魔術師の身動きを封じる。
「……メルヒオールっ!!」
ラインハルトが叫んだ。―――空色の目から涙を溢れさせながらも、なお。メルヒオールは頷きを返し、眼前のユストゥスを見据えた。魔杖ドラッヘンバールトを握る手に力を込める。ドラッヘンバールトが青白い光輝を放つ。九尾の鋼鞭の先端から現れたものは、九体の氷のドラゴンだった。―――極寒の冷気をまとい、氷の爪牙を携えた、巨大な。
メルヒオールが魔杖ドラッヘンバールトを一振りした。ドラゴンが一斉にユストゥスを襲う。身を氷漬けにするかのような冷気と吹雪が、青白く鋭い爪牙が―――。
「………!」
氷雪の爪牙に身を切り裂かれ、極寒の冷気に血肉を凍らせられながらも、ユストゥスの表情は静かだった。異様な鋭さの消えた澄明な碧眼が、メルヒオールとラインハルトを見つめている。
「…ふ」
ユストゥスが、微かに笑った。血の氷雪に塗れた襤褸(らんる)の如き体が、白い床に倒れた。朽ち木が倒れるかのように、静かに。
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