第18話 邪術・後編

「うえー、ぎぼぢわるいー」

「…くそっ、どいつもこいつも、どうして一言言わん!」

「それだけ毒づける元気があるなら、一言なくても問題ないんじゃないですか」

 ぽことアドルフはつくづく、この緑光の渦が性に合わないらしい。ヨーゼフはルビーの耳飾りの位置を正しながら、些か切り口上で答えている。時の大渦に巻き込まれたはずみで、耳飾りの金の枠、ルビーに傷が付いたのではないかと案じる余裕があるのは、さすがと言おうか何と言おうか。

 ラインハルトはメルヒオールの半身を庇いながら、辺りを見回している。ラインハルトが腰を下ろしているのは白いタイル張りの床であり、頂(いただき)に円盤様(えんばんよう)の機器が位置する尖塔に似たものがぐるりに林立している。鈍色の緻密かつ奇異な形状の機械やコードに半ば覆われた白い壁、ドーム型の高い天井……いずれもラインハルトに馴染みのないものばかりだ。

「……ここは…?レーベンスブルネンの機械に雰囲気が似てるけれど、もっと冷たい……」

「アナテマの内部―――司令室ですよ。そしてあれが操作機器です」

 ヨーゼフのほっそりした指先が、円盤状の機器を戴く台座の一つを示した。オイゲンが強張った表情で頷き、シャルフリヒターの切っ先を黒衣の魔術師に向けた。ヨーゼフもシュラークを構えながら、

「しかしまあ、それほどの傷を負いながら味な真似をしてくださいますね。貴方の魔力も残り僅かだというのに、ユストゥス殿」

「…ふ…」

 ユストゥスが小さく嗤った。その唇が動き、何かを呟いているようだ。オイゲンが細い眉を微かに顰めた。―――ラ……、ウ…。ロー……。何を言っている。私の聞き損じか。

 ラインハルトは白い床に座り、メルヒオールに治癒魔法を施していたが、

「ヨーゼフ、空気が違う。三千年前のマラキアの空気に似てる、清浄で軽い空気だ。色彩も鮮やかな感じがする……」

「邪神ユストゥスの穢れが消えたからですよ、ライニ。神像に己が血を降り注ぐことが叶いませんでしたからね。ここにいるユストゥス殿は神ではありません。ヒメルの魔術師です」

 ヨーゼフの冷ややかな言葉に、だがユストゥスは黙したなりでいる。獣の鋭さと澄明を持つ碧眼が、ヨーゼフを見据えている。唇は何かを呟いている。オイゲンはその眼差しと呟きに、背筋が冷えてゆく思いがした。―――ロール……、アラウ……。いや、これは……!

 ヨーゼフはやおら顔を上げ、

「陛下の気配を感じます。わたしが存じ上げる陛下の気配です……衰弱してはいらっしゃいますが。皇太子ルドルフ・マンフレート殿下もご無事のようです」

「ユストゥスが神の力を失ったからか」

 アドルフは呟き、ヴォルフスファングを構えた。精悍な顔に苦渋が滲んでいる。

「それはそれで結構なことなんだが……。とどめを刺すのはメルヒオールでなくては―――」

「アドルフ!ライニ!ぽこ!」

 オイゲンが絶叫した。左手に絡めた鋼の蜘蛛糸を、ユストゥスに放つ。

「その男の言葉を封じろ!唱えさせてはならない!それは邪術だ。彼はヨーゼフを狙っている!!」

 ラインハルトとぽこ、アドルフの顔が引きつった。ヨーゼフが闇色の目を見開く。鋼の糸に右頬を切り裂かれながらも、ユストゥスは口角を上げた。今や勝利を確信した黒衣の魔術師は、邪(よこし)まな呪文を朗々と唱えていた。

「我に器を示し給え、

 アンヌンを統べる灰色の王アラウンよ、

 九百九十九の傀儡もてる真闇(まやみ)よ、

 邪眼のバロールよ、

 九百九十九の貌(かお)もてる月影よ、

 アラウンよ、バロールよ、

 我に器を示し給え、―――我が器ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲンを照覧(しょうらん)あれ」

「黙れ貴様!」

 ユストゥスの身が禍々しい黒紫の光を放つ。ヴォルフスファングがその右肩に凄まじい刺突を加えた。ユストゥスの体が、白いタイルの床に呆気なく崩折れる。呆気ないのは当然だと、ラインハルトは奇妙に冷めた頭で思った。―――これはユストゥスの脱け殻なんだから。新しい器は―――。

「この男にとって、己の体は道具に過ぎなかった。取り替えのきく道具に……」

 オイゲンが呻いた。左目が見据えているのは、真紅のマントをまとう黒髪の魔術師だ。ルビーの耳飾りが不穏に揺れ動く。魔術師は笑っていた。ふっさりと長い睫毛に飾られた闇色の双眸、焼けつくような赤い唇、雪白の肌の魔術師―――ヨーゼフは。

 しかし顔形、姿こそヨーゼフのそれであったものの、闇色の目が宿すものが決定的に異なっていた。沈着と深い知性、強靭な意志力ではなく、刺すような鋭さと異様な澄明を、闇色の双眸は宿していた。今やユストゥスのものとなった目は。魔術師はくっくっと笑いながら、

「貴様は油断していた、マラキアの魔術師」

「……ヨーゼフ」

 茫然自失のていで呟いたオイゲンだったが、ヨーゼフの声、姿形を改めて目の当たりにしたからだろう。

「ヨーゼフ!私だ、オイゲンだ!貴方の家族だ、ヨーゼフ!!私は貴方の―――」

 狂気のように身をもがき、叫ぶのを、アドルフが羽交い締めにした。ラインハルトとてアドルフに加勢したい、オイゲンのように叫びたいが、それは許されない。―――メルヒオールに治癒魔法をかけないと。顔に血の気が差してきたんだから……。少しだけど、見間違いかも知れないけど、―――でも!!

 ユストゥスはオイゲンを無感動に見据え、

「この男に恋情(れんじょう)を抱いているのか、隻眼の騎士。私には何の関わりもないことだが」

「黙れ!!よくもヨーゼフを―――!!」

「オイゲン、落ち着け。今こそ平静さを失うな。貴様も分かっているだろう。俺も分かっているし、分かっていなくてはならない。あれはユストゥスであって、ヨーゼフではない」

 激昂したオイゲンを、アドルフは羽交い締めにしている。しかしその言葉はオイゲンに向けられたものというより、自分に言い聞かせているかのようだ。

 メルヒオールがうっすらと目を開いた。

「……邪術を……。ユストゥス……」

 メルヒオールの言葉に、ユストゥスは口元を歪める笑いを返した。

「私の寛大な譲歩を弱さと勘違いしていたのかね、メルヒオール。この男の体など、私はいつでも乗っ取ることが出来たのだ」

「ヨーゼフの体を返すんだ、ちち―――ユストゥス!返すんだ!!」

 ラインハルトが叫んだ。涙で潤んだ空色の目は、それでも真っ直ぐにユストゥスを見つめている。

 ユストゥスが闇色の目を逸らした。物憂げな仕草で、アナテマの操作機器に歩み寄る。真紅のマントが、血染めの幽鬼のようにその後に続いた。

「この器の使い勝手、試してみるとしよう」

 細く長い指先が、手慣れた様子で円盤様の機械を操る。文字盤に触れ、記号に触れてゆく。虚空に巨大な光景が浮かび上がる。緑が点在する、灰色の急峻な山岳地帯だ。彼方には濃い青の海が見える。青嵐の海を臨むグロウスバル山脈だろうと、ラインハルトは見当をつけた。

「ふむ、アナテマの再現度合いもなかなかのようだ。これで設計図の表紙が散逸していなければ、貴様らには幸運だったかも知れんが」

 ユストゥスは嗤い、アナテマを操作し続けている。アルトアイゼン帝国を、ひいてはマラキアを翻弄してきた邪まな意図の持ち主の嗤いに、オイゲンは込み上げる怒りを抑えかねつつあった。―――だが、抑えなければ。平静でいなくては。ヨーゼフを救わなくては!!

 ユストゥスがにやりと笑った。虚空に浮かぶグロウスバル山脈に、巨人族の剣を思わせる幾筋もの白光が炸裂した。広大な山岳地帯が、瞬く間に崩壊してゆく。

「やめろおおおお!!」

 ラインハルトが絶叫した。だがユストゥスは崩れ落ちるグロウスバル山脈、手元の文字盤を素っ気なく見やり、

「ふむ…悪くはない。アナテマを操作するのに充分な魔力だ。加えてこの男の意志は、私が思っていたほど強靭ではない。私の意志に抗うことも最早ない」

「―――貴様!!」

 アドルフは吼え、ヴォルフスファングの切っ先をユストゥスの喉元に向けた。疾風(はやて)の素早さで、ユストゥスに凄まじい刺突を加えようとし―――。

「愚か者」

 雷光の雨がアドルフを強かに打った。その場に膝を付いたアドルフに、ユストゥスは闇色の硝子玉の目を向けた。

「血の上った頭で私を害せると思ったのか。ヒメルの血を引かぬ蛮族」

「……思っては、いない。しかし、人には怒りで我を忘れることもある。野獣には分からんだろうが……」

 ユストゥスが嗤った。オイゲンとぽこがアドルフに駆け寄る。ぽこはアドルフに治癒魔法をかけ、オイゲンはアドルフに肩を貸してやっている。

「アドルフ、平静さを失うなと私に言ったのは貴方だ」

「すまなかったな。……あまりに腹が立ったものでな」

「詫びなど必要ない。今はあの男を、ヨーゼフの体から引き離さなければ。だが迂闊にヨーゼフを傷付けることは出来ない……」

 オイゲンが唇を噛み締めた。その下唇に血が滲むのを、アドルフは認めた。

「……すまなかった。助かった」

 アドルフは無造作に言い、ヴォルフスファングを構えた。その眼前ではユストゥスがアナテマを操り、マラキアを破壊し続けている。虚空には白光に焼き尽くされるヘーリンの台地、ザントの荒野が次々と映し出されてゆく。

「くそ……!」

 アドルフが呻いた。ぽこはラインハルトの許に駆け戻り、

「おちび!早くメルヒオールさんを助けなきゃです!……助かりますよね?」

「助けるんだ!……メルヒオール、もうちょっとだ、もうちょっとで良くなるんだっ…」

 ラインハルトは叫び、溢れそうになる涙と絶望を堪えた。


「妙だ」

 ユストゥスが首をかしげた。白い眉間に訝しげな皺が寄っている。

「アナテマの白光―――クレイヴ・ソリッシュの光の威力が減じた。操作盤への魔力注入に問題があるようだ。私は未だ、この器を使いこなせていないのか。だが直ぐに慣れるだろう」

「勝手なことをほざきやがって。貴様―――!!」

 アドルフは跳躍し、ユストゥスに斬撃を加えようとした。ユストゥスがアドルフを見やった。闇色の双眸、雪白の肌の、ほっそりと秀麗な面差し、―――ヨーゼフの面差しが。


『好きでいらしたのでしょう、テティス殿を』

『魔術師ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲンは、無粋な邪魔が嫌いなんです』


「畜生!」

 アドルフは叫び、ユストゥスの腕を浅く切り下げると、そのまま飛び退った。オイゲンがアドルフに駆け寄る。

「アドルフ!貴方はヨーゼフに―――」

「…オイゲン。全くもって実に腹立たしいが、あの男の言う通りだ。血の上った頭で勝てる相手ではない。だから俺は―――」

 青い目がユストゥスを見据える。黒い胸甲の騎士は剣を構え直し、

「迷っていてはならない。あれはユストゥスだ!」


 聖なるエメラルドグリーンの水の中。その煌めきがくすんだかと思いきや―――。


 び、……きっ……。


 始祖の翠玉に微かだが深い亀裂が生じた。

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