第17話 邪術・前編

「この男は油断がならない。念には念を入れた方が良いだろう」

 ユストゥスは呟き、右手を掲げた。見る間に手のひらが青白い雷光を帯びる。その光輝を、眼前に横たわる白いローブの魔術師に放とうとする。―――その時だった。

「ライニ、今だ!」

 ラインハルトの傍らに佇むアドルフが叫んだ。

「分かってる、メルヒオール!」

 少年魔術師は力強い頷きを返し、両手を掲げた。両の手のひらが光弾を作り出す。雷術魔法の巨大な光弾が、ユストゥスの右手めがけて放たれる。

 二つの青白い光輝は、互いが互いを呑み込むようにして消えた。

「メルヒオール……」

 ユストゥスの唇が、乾いた呟きをもらす。黒い胸甲の騎士、ゆっくりとだが身を起こし、今や不敵な笑いを浮かべる白いローブの魔術師、そしてラインハルトを、その碧眼は呆然と見つめている。

「相殺ですねえ」

 ヨーゼフは淡々と言い、荒い息をつくラインハルトの肩を抱いた。

「ですがライニが魔杖を稼働させていたなら、ユストゥス殿の魔力を吸収出来ていたでしょうね」

「魔杖なしで相殺しなきゃいけないんだ。こんな―――」

 ラインハルトがヨーゼフの腕を解いた。その声には一途な怒りが滲んでいる。

「残忍で卑劣な魔術師の魔法なんか」

「………」

 ユストゥスの碧眼がラインハルトを見据えた。異様に澄明で、それ故刃の鋭さを宿すその眼差しは、ラインハルトの心を惹きつける。理屈を越えた何かで惹きつけるのだ。―――やっぱり心がざわざわする。綺麗な目だけれど怖い。怖いけれど見てしまうんだ。見ていたいって思うんだ……。

 しかしユストゥスがラインハルトを見つめたのは、束の間のことだった。ユストゥスの舌が赤い唇を湿す。青ざめた顔のヒメルの魔術師は、黒い胸甲の騎士を見つめ、

「その仕草、その気配……。なるほど、貴様がメルヒオールか。考えたものだ」

「その通りだ。ライニ、ヨーゼフ。アドルフの手当てを頼む」

 黒い胸甲の男―――メルヒオールの口ぶりは落ち着いている。ラインハルトとヨーゼフは白いローブの男―――アドルフに駆け寄り、その場に屈み込んだ。

「大丈夫か、アドルフ」

「痛いには痛いが、オイゲンの鋼の糸ほどではないな」

「それだけ軽口が叩けるなら心配要りませんよ。何食べてるんだか知りませんが、貴方は丈夫ですからね。アドルフ」

 得意の皮肉を披露している辺り、ヨーゼフも心配は要らないようだ。手慣れた仕草で、アドルフの傷を診、治癒魔法をかけてやっている。

 メルヒオールは小さく頷き、呪文を詠唱した。メルヒオールとアドルフ―――二人の身が白光のヴェールに包まれる。ややあって翠玉の前に展開されたのは、黒衣のユストゥスを見据える白いローブに紫紺のマント姿のメルヒオール。ヨーゼフとラインハルトの治癒魔法で傷を癒した黒い胸甲、黒と緋色のマントのアドルフ、そんなアドルフたちを庇うかのようなオイゲン。そのような光景であった。

 メルヒオールは息をつき、

「私が嘗て貴様を殺めた時、最後の結界の傍らに伺候していたのは、魔術師フレゼリク―――彼の髪色は亜麻色だった。違和感を抱いた私はアドルフに合図をし、彼は先にこの部屋に入ってくれた。こうした時に備えて変化魔法(へんげまほう)を使い、姿形を入れ替えておいたがね」

「わたしは皆に防御魔法とアーサソールの結界――雷術魔法の威力を軽減させる結界――を施していましたしね。貴方が得意とするのは雷術魔法だと、メルヒオール殿が教えてくれたんです」

 ヨーゼフは物憂げに言い、少しく乱れた前髪をかき上げた。アドルフはヴォルフスファングを抜き放ち、

「そういうことだ。それにこの胸甲と籠手には、メルヒオールの魔力も注ぎ込まれている。傷は浅傷(あさで)だったが、礼はさせてもらう」

「そしてユストゥス。アドルフの血が始祖の翠玉にかかったのを見ただろう。故に貴様が神となることは叶わない」

「……貴様…」

 ユストゥスの血走った目が、メルヒオールを睨み据える。その狂気じみた憤怒の眼差しはラインハルトのみならず、手練れの武人であるオイゲン、アドルフの背をも冷たくさせた。だがメルヒオールは落ち着いた様子で、

「一つことに集中すると周りが見えなくなるのは貴様の悪い癖だ、ユストゥス。私たちの裏をかくことに執着するあまり、翠玉の守りがおろそかになったな」

「黙らないか!黙るのだ!!」

 ユストゥスの甲高い叫びが、部屋の空気を切り裂いた。

「メルヒオール、貴様はそう、いつもそうだ。貴様の深謀は、私の浅慮を暴く。貴様はそうやっていともたやすく私を凌駕し、私を貶めてきた。私が望むものをたやすく手にしてきた。そうではないのか」

「そんな……。メルヒオールは親友だって言って……!」

 激しかけたラインハルトを、ヨーゼフは制した。闇色の双眸はいつになく無感動だ。

「ライニ。ここまで思い込んでいる相手に、言葉は通じません。始祖の翠玉の言う通り、彼を止めましょう」

「……でも、ユストゥスは私の―――!」

「そう、貴方の父君だ。ライニ、貴方はそう言いたいのだろう。父君と話をし、―――分かり合いたいのだろう」

 オイゲンは静かに言い、ラインハルトの背に手のひらを当てた。震える小さな背に。

「……ふぐっ…。う……」

 ラインハルトが唇を噛み締めた。手の甲が空色の目を乱暴に拭う。オイゲンはシャルフリヒターを構えたが、ラインハルトに語りかける口ぶりは静かなままだ。

「だがライニ、貴方は分かり合うことを諦めなくてはならない。正気の人間はあのような目をしない。異様に鋭く、硝子玉のように澄んだ―――あれは最早野獣の目だ」

「……分かってるっ!そんなことっ!!私だってユストゥスを止めるっ!!」

 ラインハルトは叫び、懐から魔杖を取り出した。ヨーゼフは頷き、魔杖を構えた。メルヒオールも二人に続き、ローブの懐からサファイアの象嵌された黒檀の魔杖を取り出す。

「我が魔杖ゴルデンレーヴェよ、目覚めよ。汝が主ラインハルト・クラウス・グリューンフリューゲルが命ずる。汝と汝が主、その同胞を傷付けんとする者、命奪わんとする者を滅せよ。汝が力は金獅子の爪牙、汝が誉れは勇気と忠誠なり!」

「覚めよ、我が魔杖シュラーク!汝が主ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲンが命ず。主とその同胞を害す者を破却し、主とその同胞を守れ!汝が力は猛き緋炎、汝が誉れは叡智と忠誠なり!」

「覚めよ、我が魔杖ドラッヘンバールト!汝が主メルヒオール・イェレミアス・アルジェンタータ・スクードが命ず。汝と汝が主の血、同胞の血を見んと願う者を破却せよ。汝が力は白銀(しろがね)の氷雪、汝が誉れは神聖と忠誠なり!」

 ゴルデンレーヴェのアクアマリン、ドラッヘンバールトの蒼玉から放たれた白光が、一同の身を包む。シュラークの紅玉が放ったものは、赤光と火焔の鳳だった。鳳はユストゥスを襲い、赤光はヴォルフスファング、シャルフリヒターの剣身に紅蓮の炎を宿した。メルヒオールは頷き、呪文を詠唱した。金色の光輝が一同の身を包む。

「アーサソールの結界だ。そしてライニが防御魔法と身体能力強化魔法をかけてくれた」

「わたしの炎術魔法も忘れてもらっては困ります。効果はあるようですから」

ヨーゼフは物憂げに言い、右半身の火傷に治癒魔法を施すユストゥスを示した。肩で息をするユストゥスは、奇妙にぎらつく目でヨーゼフを睨み据えている。

 ヴォルフスファングの切っ先を、アドルフはユストゥスの胸元に定めた。打ち込まれようとした刺突を、だがユストゥスは間一髪のところでかわした。背後の石柱に刃が突き立ち、深く巨大な亀裂を生じさせた。ユストゥスの口元が歪む。青白い雷光が、アドルフを打ち据える。

「痛くないわけじゃないんでな。こう続けざまにやられたんでは、俺も腹が立つ」

「……!」

 ユストゥスが小さく息を呑んだ。放たれた雷術魔法を、アドルフが左手で――左手の黒い籠手で――振り払ったのだ。口元には不敵な笑みが、青い目には怒りが浮かんでいる。その隙をつき、鋼の蜘蛛糸がユストゥスを襲った。

「貴方にこの玩具は必要ない」

 黄金の柄の短剣を絡め取ったオイゲンは、ユストゥスの左手をも縛した。火傷に治癒魔法の白光を注ぐ腕の自由を奪われたユストゥスは、形の良い唇を無意味に開いた。オイゲンはユストゥスの動揺を悟ったが、手負いの獣の碧眼は異様に澄み切ったままだ。―――この男は痛みや恐怖を感じないのか。心底からの恐怖、真実の痛みを。他人事のように感じている……?

「オイゲン!」

 アドルフの叫びに、オイゲンはその場を素早く飛び退(すさ)った。行きがけの駄賃とばかりに、ユストゥスのこめかみを柄頭で殴り付ける。黒衣の魔術師の上体が揺らいだ。

 アドルフはにっと笑い、ユストゥスを袈裟がけに斬りつけ―――。

「……!」

 ラインハルトは覚えず目を見開いた。斬りつけると見せたその寸前で、アドルフは右腕を内転させた。炎の鳳をまとう波状の刃が、ユストゥスの胸元を切り上げる。

「ごおっ!!」

 血肉を抉られ、その傷を炎の爪牙に蝕まれる苦痛に、ユストゥスが獣じみた叫びをあげた。だが黒衣の魔術師は倒れ伏すことをしなかった。のみならずアドルフ、ラインハルト、そしてヨーゼフを見つめるその碧眼からは、鋭さと異様な静謐が失われていない。

「ライニ、彼は長く関わっていてはいけない相手です。わたしたちの魔法で動きを止め、後をメルヒオール殿に―――」

 ユストゥスの眼差しを振り払うかのように、ヨーゼフは口早に言った。秀麗なその顔がいつになく白いのは、緊張のためだろう。ラインハルトは強張った面差しで頷き、ゴルデンレーヴェを掲げた。ヨーゼフの魔杖シュラークの紅玉が、鋭く煌めく。

雨の如く打ち付ける青白い雷光、紅蓮の翼の鳳がユストゥスを容赦なく襲った。

「………!」

 ユストゥスは苦悶の呻きをあげたが、火傷を負った右手で治癒魔法を施すことを止めようとはしない。オイゲンは覚えず金色の眉を顰めた。―――奇妙だ。そして不穏だ。やはり己の体を、負わされた傷を、他人事のように感じている。己の体を道具、機能を果たす部品のように……。

 奇妙だとオイゲンは呟き、シャルフリヒターの切っ先をユストゥスの喉元に定めた。―――野獣の目だ。不穏だ……。

「メルヒオール殿、とどめを!」

 オイゲンの言葉にメルヒオールが頷いた。魔杖ドラッヘンバールトを一振りすると、それは幾筋もの鋼を入念に編み込んだ、九尾の鞭の柄となった。メルヒオールが俊敏な仕草で鞭を振る。切り裂かれた風は刃と化し、ユストゥスを襲う。

「……ふ…」

 ユストゥスが口元を歪めた。鋼の糸で縛(いまし)められた左手を、風の刃に向ける。鞭の衝撃波が鋼の縛めを切り裂いたものの、ユストゥスも左腕に裂傷を負った。既にアドルフの斬撃を受けていたユストゥスの総身が、重苦しい血に染まる。

だがユストゥスは黙し、右手で己が身に治癒魔法を施し続けている。今やラインハルトたちは不穏さを―――野生の獣が喉元に飛び掛かる寸前に似た不穏さを、黒衣の魔術師に対して感じていた。メルヒオールが呪文を詠唱する。ドラッヘンバールトは青白く輝く氷雪の柱となり、極寒の冷気をまとう。

「……ユストゥス!!」

 メルヒオールは吼え、最後の一撃を嘗ての親友に見舞おうとし―――。


 何が起きたかを、ラインハルトは咄嗟に解することが出来なかった。

「愚か者」

 ユストゥスは低く呟き、異様な鋭さの眼差しでメルヒオールを見据えている。その左手――間断ない治癒魔法で傷が癒された――は、僅かに青みを帯びた白い雷光の刃を握り締めている。そして雷光の刃が刺し貫いたものは、メルヒオールの胸元だった。見開かれたサファイアブルーの目には、ユストゥスの狂気じみた愉悦の笑いが映じている。

「何故私が反撃することなく、治癒魔法のみを駆使していたか。やっと分かっただろう。―――魔力を温存し、貴様を油断させ、殺すためだと」

「……ユス、…トゥス…」

「嬉しいだろう?メルヒオール。貴様は不老不死の呪いに苦しんでいたのだろう?術者の私ならばそれを解くことが出来、こうして死を与えることも出来るのだからな」

「……メルヒオール……」

 アドルフの声は掠れていた。込み上げる吐き気を、ラインハルトはようよう抑え込んだ。力の入らない冷たい指で、それでもゴルデンレーヴェを握り締める。

 ヨーゼフが唇を噛み締めた。シュラークをユストゥスに向け、炎の鳳を続けざまに放つ。ユストゥスが身を逸らす素振りを見せた。オイゲンは吼え、黒衣の魔術師の左腕を切り下げた。ユストゥスがよろめき、はずみで雷術魔法の刃が消える。倒れ込んだメルヒオールに、ラインハルトとぽこが駆け寄った。治癒魔法を施そうとして。

「メルヒオール……!」

「メルヒオールさん、メルヒオールさんっ!」

 雷光が血肉を焼いたせいだろう、ラインハルトが思ったより出血は少ない。だが白いローブの胸元に空いた黒く深い亀裂を見、ラインハルトは周囲の喧騒が遠退いた気がした。―――雷光の刃が、メルヒオールの体の奥深くを傷付け、焼け爛れさせている……。

「何ぼんやりしてるんですか、おちび!」

 ぽこの悲鳴に似た声が、ラインハルトを現へ引き戻した。ぽこは丸ぽちゃの手をメルヒオールの傷口に当てながら、

「メルヒオールさんを助けるんですよう!マラキアがどうとかこうとか言う前に、おちびの大切な家族なんでしょ!馬鹿おちび!」

「……分かった。分かってる。私の家族を助けるっ!」

 ぽこの傍らに屈み込んだラインハルトは、呪文を詠唱した。治癒魔法の白光を黒く焼け爛れた亀裂に注ぎ込む。メルヒオールは助かる、助けると、己に言い聞かせながら。

 唐突な、いっそ荒々しいと言って良い仕草で、ユストゥスが両腕を掲げた。射竦めるような眼差しが、ラインハルトをまともに見据えている。―――怖い目なんだ。でも今の目は、どうしてだろう、寂しそうだ。

 ラインハルトの奇妙な感傷はだが、そこで断ち切られた。ユストゥスのみならずラインハルトたちの体が、緑色の光を帯び始めたのだ。ユストゥスの白い眉間に、傷のような皺が寄る。唇が苦痛の息を吐く。虚空に翠玉の色をした渦が現れ、ラインハルトたちを否応なしに呑み込む。

 時の奔流に巻き込まれながら、それでもラインハルトは離すまい、離れまいとしていた。メルヒオールの身を、ぽこを、アドルフを、ヨーゼフ、オイゲンを、そして―――。


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