第16話 翠玉・後編

「……なんだか頭がぐるぐるしますよう。うえー、気持ち悪い…」

「貴様もか、ぽこ。俺もだ……。始祖の翠玉も、一言言ってくれれば良いものを……」

 ぽこはともかく、アドルフも珍しく愚痴を言いながら、乱れた黒髪をかき上げ、額のサークレットに触れている。緑光の渦が性に合わなかったらしい。ヨーゼフは目蓋を揉みほぐしながら、

「わたしとメルヒオール殿の術法が成功したんですから、良しとしてください。それにアドルフ、立ち居振る舞いに気を付けてくださいよ。メルヒオール殿はそんな伝法な話し方をしません」

 美男の魔術師は些か中っ腹である。だがラインハルトは動じた様子もなく、ぐるりを眺めている。―――緑したたる枝葉、茂った青い下草。目を射るように陽射しに輝く、白い花、紫の花、その香気。葉と葉の擦れ合う音、微かな風の音、彼方で泉が湧き出る音……。

「……これが三千年前のマラキア……。三千年前の緑と光、空気、息吹なんだ……。今の空気と似ているけれど、全然違う……」

「貴方には分かるのか、ライニ」

 オイゲンが左目を瞬いた。

「私には貴方ほど、マラキアの相違を感じることは出来ない。草花や光が今より鮮やかだと、そう思わぬこともないが……」

「オイゲンの言う通りなんだ。世界の色が三千年後より鮮やかで、空気が澄み切っているんだ。私には懐かしいような感じもするけれど……」

「これが世界の本来の在りようだったのだ。三千年後のマラキアが、それだけ穢されているのだろう。―――ユストゥスの邪念によって」

 黙していたメルヒオールが口を開いた。黒と緋のマントが爽風に靡いている。

「三千年の時を隔て、故郷の空気を忘れていた私は、邪念の穢れに気付くことが出来なかった……」

 ラインハルトたちは黙し、メルヒオールを―――その灰色に続く孤独を思いやっている。しかし直ぐと顔を引き締めたメルヒオールは、何やら呪文を詠唱している。……ややあって、辺りに甘い花香(かこう)、薔薇を思わせる香りが漂い始めた。花香は生き物たちを眠りにいざない、泉でさえその妙なる音色を止めたようだ。

「ヒュプノスの薔薇の術法―――眠りの術法ですね。この時代の貴方と顔を合わせずに済むように」

「君の言う通りだ、ヨーゼフ。もっともこの姿では、この時代の私が己と直ぐには気付くまいが」

 メルヒオールは苦笑し、茶褐色の前髪をかき上げた。

「しかしもの皆全てを眠らせ、その動きを封じておいた方が良いのだ。違和感に気付くことが容易になる」

「違和感は策略の証なんだ……」

 呟いたラインハルトの背を、黒い籠手が軽く叩いた。

「その通りだ、ライニ。行こう。ユストゥスの神殿はこの直ぐ先だ。未だここは翠玉の海に沈んでおらず、ユストゥスも神となってはいないため、始祖の翠玉は水中にはないが……」

「吹き抜けと階段、扉は作られているのか?」

「ああ。だが結界が施されていないため、扉の前にはユストゥスの配下の魔術師が伺候している。五つの扉、五人の魔術師が」

「その魔術師たちの名前、特徴を教えてもらえませんか」

 闇色の双眸が、射抜くような眼差しをメルヒオールに向ける。メルヒオールは頷き、

「一の扉にはエルンストが伺候していた。彼は大柄で、髪は茶褐色、目は灰色がかった緑だ。二の扉はユリアーネが守っており、彼女の髪は赤、目は茶色だ。三の扉にはテューラ、彼女は黒髪に碧眼だ。四の扉はグレゴール、髪色は栗色、目は水色だった。そして最後の扉にはユストゥスの腹心、フレゼリクが伺候していた。彼の髪は亜麻色で、目は青色だ。皆、黒いローブに緑のマントを着けていた」

「よく分かりました。……茶褐色、赤、黒、栗色、亜麻色」

 ヨーゼフが魔術師たちの髪色を諳(そら)んじる。ラインハルトは訝しげにヨーゼフを見上げ、

「髪色がどうかしたのか?ヨーゼフ」

「覚えておいた方が良いと思ったんですよ。この順序が入れ替わっていたなら、違和感を感じるでしょう」

 ラインハルトは頷き、五人の髪色を諳んじ始めた。アドルフ、オイゲンもそれに倣った。


 ユストゥスの神殿。その壮麗さ、広壮は、三千年後とさほど変わっていなかった。新しい大理石の白が美々しく、彫刻の細工がより鮮明ではあったが。

 ラインハルトたちは足早に奥の間に向かい、扉をくぐり始めた。一つ目の扉の傍らには、茶褐色の髪、大柄の魔術師が深い眠りを眠っている。二つ目の扉には、鮮やかな赤い髪の、ほっそりした女性の魔術師が。三つ目の扉には黒髪、すらりとした長身の女性の魔術師が。ふっさりした睫毛を目縁に触れさせ、眠っていた。四つ目の扉を守る栗色の髪の魔術師も、深く眠っているようだ。五つ目の扉、金髪、長身の魔術師も、また。

「………」

 アドルフとメルヒオールが目配せをした。ヨーゼフが吐息をつく。

 始祖の翠玉―――ユストゥスの神像の祀られた神殿の地下に、メルヒオールが足を踏み入れた。神の篝火さながらの緑光が照らし出す忌まわしいものに、その視線は釘付けとなった。

 物言わぬ男の体が、そこに横たわっていた。金糸の刺繍と真珠で飾られた黒いローブ、真珠のブローチで留められた黄色のマントという豪奢な出で立ち、一目で高位の魔術師と知れる男の死体が。乱れた亜麻色の髪を、銀のサークレットが冷ややかに飾っている。

「このローブ、マント、サークレット……。あの日のユストゥスの衣服だ」

「え……でも、死んじゃって……。時が歪んでマラキアが消えちゃ……」

 ぽこは呆然自失のていである。そしてラインハルト、メルヒオールたちも。

その時だ。


 び……しゃあああああああんんん!!


 白いローブ、紫紺のマントの魔術師の体を、青白い雷光が強かに打ち据えた。魔術師の身が異様に強張り、直ぐ様弛緩した。紫紺のマントを広げたなりで、大理石の床に倒れ込む。

 石化したかのような一行の眼前を、緑のマントを靡かせた黒いローブの男、金髪長身の男が駆け抜ける。黄金の柄を持つ短剣を懐から取り出し、微動だにせぬ魔術師の背にそれを突き立てる。

 ざあっという音がし、真紅の飛沫が翠玉を染めた。

「…ふ…」

 金髪の魔術師は冷笑し、ゆっくりと身を起こした。

 通った鼻梁、優美な線を描く美しい唇、少しく乱れた金髪の掛かる形の良い広い額。ほっそりした高雅なその面差しが、神殿のファサードを飾る神の顔容と同じものであることに、ラインハルトは気付いた。異様に鋭く異様に澄明なその碧眼が、ラインハルトを見つめる。―――ラインハルトの恐怖を見透かすかのように。

「メルヒオール、小賢しい愚者が。私が貴様の企てを見逃すとでも思っていたのか。始祖の翠玉は我が神像だ」

 男―――ユストゥスは言い、優美な口元に歪んだ嗤いを浮かべた。


 聖なるエメラルドグリーンの水の中。始祖の翠玉が静かに煌めいた。


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