第15話 翠玉・前編

 金色の陽射しの煌めきが次第次第に遠ざかり、聖なるエメラルドグリーンの水の緑色が濃さをいや増してゆく。ラインハルトたちは翠玉の海に潜り、始祖の翠玉が祀られた神殿を目指している。

 メルヒオールが施してくれたネルトゥスの結界(けっかい)のため、呼吸や動作、視界の不自由さを感じることもなければ、水圧による苦痛を感じることもない。にも関わらず、オイゲンの表情は暗い。ふっくらした唇が、呟きをもらす。

「……何故私は、あのような夢を見た」


『わたしは魔術師です。そしてオイゲン、邪悪な魔術師の中には、傷付いた己の肉体を捨て、その意志と魂で他者の体を乗っ取り、新たな生(せい)を生きる邪術(じゃじゅつ)を心得た者がおります』

『万一わたしがその邪悪の徒に体を奪われ、わたしの心を失おうとする時には、オイゲン、わたしはきっと―――』


 どうかしていると、オイゲンは自分を嗤った。―――私はあまりに幼稚だ。過去の一幕を夢に見、その一幕に捕らわれるなど。

「始祖の翠玉の力を借りるべく、海底の神殿に向かわねばならぬというのに」

 オイゲンの呟きは、翠玉の海の泡沫と共に消えた。だがオイゲンの屈託を察したのだろう。ラインハルトに抱かれていたぽこはオイゲンを振り返り、

「なんだか浮かない顔をしてますね、オイゲンさん。疲れが取れないんですか?」

「…いや…。夢を見ただけだ……」

「魅惑の巨乳騎士の?そんなに刺激的だったんですか、大人の絵本」

「………」

 昨夜ちゃっかり絵本でいそしんでいたため、当たらず言えども遠からずのオイゲンは黙った。それしか出来ない。絵本をオイゲンにネコババされた形のアドルフは不機嫌そうに、

「そりゃ夢にも見るだろうよ。別のを買って寄越せ、ムッツリスケベ」

「巨乳であれば何でも良いのか。それからシュテルンツェルトでは、その手の本はどこで買えるのだ」

 オイゲンは良く言えば律儀である。悪くは言わないことにする。アドルフは心もち声を潜め、

「……何でも良い。市場から浜辺に向かう道、その向かって左に出ている古本屋が、一番安くて種類も豊富だ。あと中身もなかなかすごい」

「……どうすごいのだ」

「……全部見える」

 覚えず吐息をもらしたオイゲンの後頭部を、ヨーゼフが勢い良くはたいた。

「真面目にやりなさい、貴方たち!事の重大さが分かっているんですか?!」


 閑話休題。時を少し巻き戻そう。

 心身共に元気を回復したラインハルトはアドルフと共に居間に下り、ヨーゼフが作った朝食――スクランブルエッグと厚切りベーコン、レタスを挟んだサンドイッチ、グリルソーセージとマッシュポテトから成るたっぷりの――を元気いっぱい食べた。その後、黙していたメルヒオールが口を開いたのだ。

「ライニ、このシュテルンツェルトから空宿る海、青嵐の海を経て、マラキアの聖地である海―――翠玉の海の底に行こう。そこにはユストゥスの造った神殿があり、始祖の翠玉が安置されている。邪神と化したユストゥスの意志を消し去るには、始祖の翠玉の魔力が不可欠のようだ。ライニ、君は昨日、緑色の宝玉が見えると言っただろう」

「うん」

 緊張した面持ちのラインハルトを、サファイアブルーの目が静かに見つめた。

「それは始祖の翠玉だ。ユストゥスが創り出した、彼の魔力の結晶である翠玉が、時や空間を越えて君に呼びかけているのだろう」

 ―――ユストゥスの血を引く、他ならぬ君に。

 メルヒオールの言葉を眼差しから察したのだろう。ラインハルトは頷き、

「うん。じゃあ私はその呼びかけに応えに行く。神殿に行って、始祖の翠玉に会う。そしてマラキアを守る」

「無論俺も行く。俺はライニを守りたい」

 アドルフは持ち前の無造作な口ぶりで言い、隣に座るラインハルトの肩を抱いた。

「テティスにそう誓ったからじゃない。俺にはライニが大事だ。だから俺は、ライニ、貴様を守りたい。マラキアも共にな」

 空色の目が見る間に潤んでゆく。潤んだその目で、だがラインハルトはしっかりとアドルフを見つめ返した。

 ちゃんと言えるじゃないですかと、ヨーゼフは呟き、

「わたしも行きます。邪神だか何だか知りませんがね、ただでさえアナテマやレーベンスブルネンで大わらわにされているっていうのに。これ以上マラキアに介入されては堪ったもんじゃありません。魔術師ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲンは、無粋な邪魔が嫌いなんです」

「私もヨーゼフと共に行く。ヨーゼフを守り、ライニ、アドルフ、ぽこ、メルヒオール殿、貴方たちを守る。貴方たちにもしものことがあったなら、ヨーゼフは悲しい思いをする。そうなったならば、私はヨーゼフの心を守ることが出来ない」

 オイゲンの逞しい腕が、ヨーゼフの肩に回される。雪白の頬を赤くしたヨーゼフは、無意味な咳払いをしている。ラインハルトに抱かれたぽこはテーブルに身を乗り出し、

「ボクも行きますよう!おちびたちに万一のことがあったら、ボク路頭に迷いますし!」

 一言余計だと、ラインハルトはぽこの頭をこつりとやった。大仰に泣き喚くぽこをメルヒオールは微苦笑の目で見やり、それからラインハルトを見つめた。

「決まりだな、ライニ。だが用意はくれぐれも周到にした方が良い。ユストゥスは明晰な頭脳と卓越した決断力の持ち主だ。どのような策を用いてくるか分からない。ライニ、アドルフ、ヨーゼフ、オイゲン、ぽこ。どんなに些細な違和感であっても、それに気付いたなら私に教えて欲しい。違和感は策略の証だ」

 サファイアブルーの目は最早笑っていない。メルヒオールの手が、傍らの紫紺のマントを取り上げる。ラインハルトたちはメルヒオールに頷きを返した。


 聖なる翠玉の海、その海底にあるユストゥスの神殿を目指し、どれほどの時が経っただろう。濃緑色の翠玉の如き海中にある光景を認め、ラインハルトは覚えず目を見張った。

 眼下には急峻な谷が広がり、清らな白玉を思わせる一点の光が――ラインハルトを招くかのように――美しく灯っている。近付くにつれ、それは彫刻で飾られた大理石造りの橋、石畳の敷かれた広場、その奥に泰然と佇む大理石の神殿から放たれる光輝であることが分かった。広場からは参道と思しき道が続き、その両側を規則正しく配された石柱の群れが守っている。参道はやがて壮麗な階段となり、それは開け放たれた神殿の扉へとラインハルトをいざなっているようだった。橋や石柱、神殿のファサードに施された彫刻はいずれも美事で、豊かな田園風景、儀式を執り行なう巫女や神官たちの姿を表していた。しかしラインハルトの目を最も引いたものは、ファサードに施された神の顔容(かんばせ)であった。

 ほっそりした面長の輪郭、すらりと通った鼻梁、優美な線を描く美しい唇、月桂冠で飾られた形の良い広い額。造作の整った高雅なその面差しは、端整な青年のそれにも見え、凛乎とした女性にも見える。だがその目―――全てを見通し全てを裁くかのような鋭いその眼光は、ラインハルトの背筋を寒くさせると共に、奇妙に心を惹きつけるようでもあった。

 メルヒオールはラインハルトの黒いマントの背を軽く叩き、

「ライニ、見えるだろう。あの白光が。あれは神殿を守護する、聖なる燈火(とうか)だ」

 ラインハルトは頷き、神殿が自ずから放つ白光を見つめた。

「…なんだろう、この燈火。こんな離れているのに、神聖な力をすごく感じる。神聖なのに、懐かしいんだ。優しい、温かい気持ちになるんだ……」

「神殿を守護しているのが、テティスの魔力だからだろう」

 アドルフが無造作に言った。

「貴様と共に在る時のテティス、―――彼女の眼差しと同じ優しさ、温かさを俺も感じる」

「…うん。うん!」

 ラインハルトが幾度も頷く。そんなラインハルトの肩に、オイゲンがそっと手のひらを当てた。アドルフはほっと吐息をついたが、傍らのヨーゼフのけろりとした様子が気にかかる。昨夜ヨーゼフに、テティスへの秘めたる恋心を指摘され、それを吐露したことも、何とはなしに照れくさい。アドルフはヨーゼフの肩をぐいと引き寄せ、

「……貴様、ライニに要らんことを言うなよ!」

「失敬ですねえ」

 ヨーゼフが綺麗に整った眉を顰めた。

「わたしは淑女の味方です。ライニがテティス殿を誤解するようなことは言いませんよ」

「…そ、そうか…」

 皮肉屋の魔術師の思いもよらぬ良心的な言葉に、アドルフは安堵した。だが、一難去ってまた一難とは、昔の人はよく言った。オイゲンが男の嫉妬でぎらつく左目をアドルフに向け、左手は鋼の糸を構えている。

「アドルフ、貴方は何故さっきから、わたしのヨーゼフと親しげに話をしている……」

「オイゲンが貴方を誤解しちゃいましたねえ」

「呑気なことを言っていないで、なんとかしろ貴様!神殿に辿り着く前の同士討ちなんぞ、俺は真っ平御免だ!」

「わたしは殿方にはそう、淑女ほど積極的に味方をしないんです」

 ヨーゼフはにべもない。磨かれた爪を見つめている。左手の薬指の爪が少し欠けているのが、気にかかるようだ。美男の魔術師の助力を当てに出来ないと悟ったアドルフはオイゲンに向き直り、

「良いかオイゲン、俺は貴様と違い、ヨーゼフに心惹かれることはない!だからしてこの男と俺の間に、愛だの恋だのはない!」

「貴方はヨーゼフの魅力を解さぬというのか。……それはそれで愉快ではない。毒舌もキレた時の容赦のなさも含め、ヨーゼフはとても魅力的だ!」

「俺にどうしろっていうんだ貴様!」

 二人はなかなか騒々しい。メルヒオールは吐息をつき、

「ライニ、ヨーゼフ、神殿の前庭に降りよう。そこで休憩を取ってから階段を上りたいのだが……。アドルフとオイゲンは私の話を聞いていないようだ」

「聞かせてきましょう」

 ヨーゼフは素っ気なく言い、掴み合いを始めた騎士二人に向き直った。

「二人とも喧嘩は止しなさい。さもないと消し炭にしますよ?」

 効果はてきめん。程なくしてラインハルトたちは神殿の前庭に降り立ち、体力回復の治癒魔法、魔道具で互いの消耗を癒した。


 精緻な彫刻の施された白い階段を上り、ラインハルトは神殿の巨大な扉―――開け放たれた扉に向かっている。神と思しきファサードの浮き彫りが鮮明になるにつれ、ラインハルトは心の奇妙な泡立ちを禁じることが出来なくなっていた。―――どうしてだろう。すごく綺麗なのにすごく怖い。怖いけれどじっと見ていたくって、……懐かしいんだ。

 ラインハルトの眼前では、メルヒオールの紫紺のマントが揺れている。黙していた魔術師が口を開いたのはその時だった。

「始祖の翠玉が安置されているのは、神殿の奥の間、その地下深くだ」

「…うん」

 奇妙な感傷を破られたラインハルトは、少しく当惑気味であった。だがメルヒオールは静かな口ぶりで、

「始祖の翠玉は巨大なものだ。ために吹き抜けとなった神殿の地下一階から地下五階の空間を用い、聖なる水の中に安置される形となっているのだ。翠玉のぐるりには回廊が廻らされ、ユストゥスが結界を施した扉が階ごとに設けられている―――五つの扉、すなわち五重の結界が。この結界を開閉出来るのは、今となっては純血のヒメル人である私だけだ」

「うん…」

 ラインハルトはそれだけを言った。己の父がメルヒオールに施したという不老不死の術法―――呪い、それがメルヒオールにもたらした灰色の孤独を思う。メルヒオールが振り向き、

「…いや、ライニ。ユストゥスの血を引く君ならば、開閉が叶うか知れない」

サファイアブルーの目には柔和の色合いがある。ラインハルトは空色の目をこすりながら、幾度も言った。ぽこのふかふかの手が、ラインハルトの腕にそっと触れる。

「…うん。うん。…うん、きっと…!」

 階段を上り終えた一行は、神殿の扉をくぐった。広々とした内部には窓が多く穿たれており、陰鬱な雰囲気はない。大理石の柱がここにも整然と並び、繊細にして雄大な彫刻が見事だ。一行を奥の間にいざなったメルヒオールは、大理石の巨大な扉――メルヒオールの背丈の優に五倍の高さはある――を見やった。扉には鮮やかな赤光が浮かび、複雑な紋様を形作っている。―――見たことのない紋様だけれど、懐かしい感じがする……。どうしてだろう、やっぱり心がざわざわするんだ……。

訝しさを抑えられずにいるラインハルトに、ヨーゼフは淡々とした様子で、

「五重の結界の一つ目です。ヒメルの文字で書かれています」

「なんて書いてあるんだ?」

「この先関係者以外立ち入り禁止、か?」

 アドルフが呑気に言う。ヨーゼフはため息をつき、

「ヒメルの血にあらざる者、淋漓(りんり)たる鮮血でこの扉を染めよ。唯一にして絶対なるヒメル、マラキアの神ユストゥスの神威(しんい)によりて、です」

「アドルフ、貴方の推測は概ね当たっていた」

 オイゲンはオイゲンで呑気である。ヨーゼフは頭を抱えている。まあそれくらい余裕のあった方が良いとメルヒオールは苦笑し、結界の扉に手を当てた。

「封印の扉よ、我が前に道を開け。我はメルヒオール・イェレミアス・アルジェンタータ・スクード。ヒメルの血を引く者にして、ヒメルの朋輩(ほうばい)、マラキアの朋類(ほうるい)なり。―――赤光の封印よ、我が道を示せ!」

「………!」

 ラインハルトたちは覚えず息を呑んでいた。結界の紋様が光を失うと同時に、扉が音をたてて開いたのだ。メルヒオールは小さく頷き、

「行こう、ライニ」

 メルヒオールに先導され、ラインハルトたちは吹き抜けのぐるり、そこに廻らされた階段を降り始めた。程なくして現れた二つ目の結界の扉もまた、黄色の光を放っていた。メルヒオールは扉に手を当て、呪文を繰り返した。

「黄の封印よ、我が前に道を開け」

 開かれた扉を通り、第三の結界を目指す。

「緑の封印よ、我が道を示せ」

 緑の紋様が光を失った三つ目の結界、開け放たれた扉を通り過ぎる。メルヒオールが第四の結界の扉に手のひらを当てる。

「白光の封印よ、ヒメルの朋輩、マラキアの朋類に道を示せ」

 白光を失った四つ目の結界、開かれた扉がラインハルトの空色の目に映じる。エメラルドグリーンの聖なる水、そして階段の傍ら、吹き抜けに浮かぶ巨大な緑光の結晶を横目に見ながら、ラインハルトたちは神殿の地下最深部に辿り着いた。

「黒き封印よ、メルヒオール・イェレミアス・アルジェンタータ・スクードの前に道を開け!」

 最後の結界の扉を開いたメルヒオールは、始祖の翠玉の許に歩み寄った。冴え冴えとした巨大な翠玉が、神の篝火さながらの緑の光を降り注ぎながら、ラインハルトたちを厳かに見下ろしている。

「うっひょおお!でかっ!高く売れそっ」

「罰当たりなこと言うなっ!ぽんぽこお団子犬っ。これは私の父上の魔力の結晶で、母上の魔力がずっと守護してきたんだぞっ!」

「……てことはおちびが相続人なんですよね?」

「だからせこいこと考えるなっ!お金とかそういうのとかから離れろっ」

 ラインハルトがぽこの頭をこつりとやる。例によって大仰に泣き喚くぽこ、それを律儀なオイゲンが宥めてやっているのを背に、メルヒオールは始祖の翠玉に―――もの皆緑の炎で燃え上がらせんばかりの聖なるその翠玉に、そっと手を触れた。

「覚(さ)め給え、始祖の翠玉よ。我が名はメルヒオール・イェレミアス・アルジェンタータ・スクード。ヒメルの血を引く者にして、ヒメルの朋輩、マラキアの朋類なり。聞かせられ給え、ヒメルの血の言(こと)の葉(は)を」

「メルヒオール・イェレミアス・アルジェンタータ・スクード、其方(そなた)の言の葉しかと聞き届けた」

 エメラルドグリーンの水と緑の光輝の中に、低く静かな声が響く。始祖の翠玉の鋭い煌めきに気付いたラインハルトは、頬を緊張させていた。

「……我が主ユストゥス・フィリップ・ドラード・スパーダが一子、ラインハルト。我が呼び声に応え、ここにやって来たことを嬉しく思う」

「そ、そうかっ」

 ラインハルトは深く息をし、眼前に輝く翠玉を見上げた。

「始祖の翠玉、私たちに力を貸して欲しいんだ。私たちは邪神と化したユストゥスを止め、マラキアを守りたい。メルヒオールにかけられた呪いも解きたいんだ」

「邪神ユストゥスを止めることは最早叶わぬ」

 エメラルドグリーンの水の中、翠玉が悲しげな光を帯びた。

「己が魔力の結晶にして神像たる私に己が血を振り掛け、ユストゥスは神となった。そしてユストゥスは我が主だ。神像に神を止めることは叶わぬ」

「……そんな…」

 体から力が抜けてゆくことを、ラインハルトはまざまざと感じていた。ぽこは丸ぽちゃの頬を膨らませ、

「なんか……思ったより使えない翠玉ですね。やっぱりばらして売り捌きます?」

「だからせこいこと考えるなっ!お馬鹿ぽんぽこっ!」

「あばばばば…もがー!」

 ぽこの口をぐいぐいと引っ張るラインハルト、身をもがくぽこに、ヨーゼフはもう慣れっこのようだ。翠玉の傍らに歩を進め、闇色の双眸が緑の光を見上げる。

「しかし始祖の翠玉、何か術(すべ)はないのですか。わたしはレーベンスブルネンを止め、アナテマの復活を阻止する心算でいます。仮にその試みが成功したとしても、邪神ユストゥスを止めることは叶わないのですか」

「ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲン、其方らの力を以てすれば、アナテマを破壊し、皇帝アルベルト・ベルンハルト――今や邪神ユストゥスの傀儡と化している――の野望を止めることが叶わなくはないだろう」

「そうであるならば……」

 安堵の吐息をつきかけたヨーゼフに、翠玉の声が降り注いだ。

「しかし其方たちがユストゥスを止めたところで、其方たち亡き後、邪神は必ず復活する。怨嗟によりその力をいや増して。そして第二、第三のアルベルト・ベルンハルトが現れ、アナテマはいずれ完成する。そうなったならばメルヒオール、其方一人の力ではユストゥスを止めることは叶うまい」

「ならば私たちはどうすれば良いのだ。邪神に屈する気は、私にはない」

オイゲンが口を開いた。左目に青炎のような怒りが凝っている。

「俺だとて同じだ」

 アドルフが翠玉を鋭く見据えた。ラインハルトも始祖の翠玉を見つめ、

「私の思いも、オイゲン、アドルフとおんなじなんだ。……相手が私の父上であっても、私は邪神を止める。マラキアを守る。守りたいんだ!」

「……それには時の歪みを、本から断つより他はあるまい」

 翠玉の周りの水が微かに揺れた。それは始祖の翠玉の悲しみ―――卑小な人間たちへの悲しみの吐息のようでもあり、小さな安堵の吐息のようでもあった。

「ラインハルト、三千年前のマラキアに行け。ユストゥスが神となることを防ぐのだ。メルヒオール、其方がユストゥスにとどめを刺せ。私にユストゥスの血が注がれることなきよう。そして三千年前の其方と顔を合わせることなきよう。それが時と定めの本来の在りようなのだ」

「承知した」

 ほろ苦い笑いを笑うメルヒオールに、翠玉はなおも言葉を注いだ。

「定めに背いたならば時はいよいよ歪み、我が力を以てしてもマラキアを守ることは出来ぬ。積もりに積もった時の歪みは全てを呑む、―――この星さえも。時の歪みに呑まれ、マラキアは消滅する。否、ヒメルやこの宇宙さえもが」

「えっ!そんなの困るんですけど!!結構本気で困るんですけどお!!」

 周章するぽこを抱き上げ、オイゲンはその背を軽く叩いてやった。

「ぽこ、少し落ち着くんだ。マラキアや宇宙が消滅したならば、困るどころの騒ぎではないだろう」

「違いないな。だが、させてたまるものか」

 口ぶりこそ冗談めいていたものの、アドルフの青い眼差しは鋭さを失っていない。ヨーゼフは少しく考え込む素振りであったが、ややあって顔を上げ、

「貴方―――始祖の翠玉に最初に血を注ぐ者が、ユストゥスであってはならないのですね。他の人間ならば良いと」

「そうだ」

「ライニやメルヒオール殿のようなヒメル人、わたしのようなヒメルの血脈でなくとも?」

「ユストゥスでなければ良い。他の者の血が、私に降り注ぐユストゥスの血を防ぐ」

 始祖の翠玉の静かな煌めきを、ヨーゼフはじっと見つめた。

「分かりました」

「私の魔力で其方たちを三千年前のマラキア、―――この神殿へと送る。急ぐのだ。もう時間がない」

「時間がないって、どうしてなんだ?」

 翠玉の鋭い煌めきが、ラインハルトたちを照らし出した。

「私はユストゥスの神像だ。故にユストゥスは私を媒介とし、其方たちの動きに気付くだろう。三千年前のユストゥスはまだ神と化してはいないものの、その魔力には並々ならぬものがある。私たちの動きに気付くことに、さほど時はかから―――」

翠玉がぎらりと光った。ラインハルトたちの身が緑光(りょっこう)を帯びる。

「急ぐのだ!ユストゥスの魔力だ。気付かれた!」

「え…ちょ!翠玉さん……おい!!」

 礼儀作法も何もあったものではないぽこを、オイゲンが宥めている。メルヒオールはアドルフ、ヨーゼフ、ラインハルトを見据え、

「アドルフ!私は君に―――。代わりに私は―――。ヨーゼフ、皆に防御魔法とアーサソールの結界(けっかい)を。そしてライニ、君は―――。ユストゥスが得意とするのは―――」

「分かったぞ、メルヒオール!……っ!」

 ラインハルトたちの会話はそこで途切れた。虚空に緑の渦が現れ、それがラインハルトたちを――ラインハルトたちを包む緑光を吸い寄せるかのように――巻き込み、光の彼方へと飛ばしたのだ。

 光の彼方、時の影のもとへ。―――三千年前のマラキア、ユストゥスの神殿へと。

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