第14話 想い・後編

 四人の姿が見えなくなり、足音が潮騒に消えてしまってから、ヨーゼフが口を開いた。

「貴方みたいな鹿爪らしい人でも、淑女には心惹かれるものなんですね」

「…何が言いたい、貴様」

 アドルフの声音、形相の迫力はなかなかのものだが、ヨーゼフは落ち着いた様子で、

「好きでいらしたのでしょう、テティス殿を」

「……何故分かった」

「分かりますよ、そりゃあ。これでも色だの恋だのの経験、それに起因する修羅場の経験は豊富ですからね」

「あまり羨ましい経験だとは思わんな」

 アドルフの控え目な皮肉は、ヨーゼフに特段の効果をもたらさなかったようである。ヨーゼフは夜風に闇色の目を細めながら、

「生真面目で口下手の貴方が、テティス殿の話をする時は饒舌になりますよね。口ぶりにも熱が籠もりますし。何より貴方の目は、恋する男の目です。決して手に入らぬ美しい幻を追う男の目ですよ」

「………」

「言い過ぎましたか?」

「いや……」

 アドルフは首を振った。ヨーゼフの面差しは、月影に飾られた月下美人を思わせる。華やかでいながら清らだ。テティスの玲瓏とした顔立ちを思い出すとアドルフは思いかけ、思い直した。―――テティスはもっと儚げだった。何よりテティスは俺に、ぶっ殺すとか言わなかった。

 ヨーゼフが悪魔のような勘を働かせ、

「貴方、今、わたしに失礼なことを考えていたでしょう」

「いや……」

「正直に言ってご覧なさい。今なら四分の一殺しで済ませてあげますから」

 束の間とはいえテティスとヨーゼフを重ねた己をアドルフは責め、そして天国のテティスにそのことを心から詫びた。

「…ともかくだ。テティスと共に過ごした時間は僅かだが、俺は彼女を忘れていない。忘れることはない」

「定めし苦労なさることでしょうねえ、貴方の妻になる御婦人は」

「混ぜっ返すな」

 アドルフは苛立ったように言ったが、直ぐ真顔になると、

「俺は口下手だ。メルヒオールとの出会い、テティスとの出会いを、順を追って話した方が良いだろう。貴様もオイゲンも、俺に己の過去を話してくれたことだしな」

「貴方ってつくづく律儀ですね。オイゲンとどっちが律儀ですかねえ」

「だから混ぜっ返すな。…まあ良い。メルヒオールは俺の恩人で、師で、俺の父親代わりだ。……いや、父以上の存在だ。貴様やオイゲンと同じ目をしていた俺を、メルヒオールは助けてくれた」

「わたしと同じ目?」

 訝しげなヨーゼフに、アドルフは持ち前の無造作な口ぶりで、

「この世界を冷笑する目、―――人生のあまりに早い時期に、凄まじく嫌なものを見た目だ」

「ああ…」

 ヨーゼフは物憂げに言い、暗い沖合いを見つめた。

「俺はここじゃない辺境の村の出だが、父親が飲んだくれのどうしようもない男でな。酔っては罵詈雑言を喚き散らし、俺や母親を殴ったり蹴ったりするんだ。愛想を尽かした母親は、俺が六つの時に家を出て行ったよ。四つになる妹は、それでも連れて行ったな」

「………」

「俺は別に驚かなかった。彼女も妹もずっと以前から、俺を嫌っていたしな。母親は俺に、あの飲んだくれの面影を見ていたのか知らんな」

「貴方の母君のお考えは分かりませんが、貴方が悪くないことは分かりますよ」

「今夜の貴様は妙に優しいな」

 アドルフが半ば怪訝そうに、半ば楽しげに言う。ヨーゼフは澄ましたもので、

「失敬ですねえ。わたしはいつも優しいですよ」

「優しい奴は四分の一殺しとか言わん!」

「優しいでしょう?半殺しじゃないんですよ」

 そういう問題じゃないとアドルフは思ったが、この魔術師に口喧嘩で勝つことは無理だとも思ったようだ。

「…まあ良い。それから父親の殴る蹴るは激しさを増した。村人たちも、父親と関わり合いになりたくなかったんだろう。俺を助けてくれる人間はいなかった。そこにやって来たのが、旅の途上にいたメルヒオールだったんだ」

「そうでしたか…」

 ヨーゼフが吐息をついた。闇色の双眸がアドルフを見つめる。アドルフは小さく笑い、

「メルヒオールは優しかった。生まれて初めて、俺に優しくしてくれたのがメルヒオールだった。俺の手当てをしてくれ、父親に俺を引き取りたいと言ってくれた。父親は――召使いと憂晴らしの玩具がいなくなるというんで――暴れたが、メルヒオールが金を握らせると大人しくなった。その金で酒を買い、小綺麗な女中を雇う算段をしていたんだろう」

「その手合いはそうでしょうね。わたしの父もまあ、似たようなものですから」

「……今夜の貴様は、いやに物分かりが良いな」

「わたしはいつだって物分かりが良いでしょう?」

 話は再び妙な方向に向かいそうである。アドルフは首筋を無意味に叩き、

「俺はメルヒオールと旅を続け、シュテルンツェルトに落ち着いた。ここでの暮らしは悪くなく、……いや、楽しかった。メルヒオールは不老不死の呪いのことを打ち明けてくれたが、俺は気にしないと言った。俺がメルヒオールを置いてゆくまで、一緒にいたいと言った。……メルヒオールを置いてゆくことを、すまなく思うと言った。メルヒオールはユストゥスの話もしてくれたと思うが、その話はそれきりだ」

「貴方らしいですねえ。大らかっていうか、豪快っていうか。律儀は昔っからなんですね」

 ヨーゼフの言葉、口ぶりは、満更皮肉めいてもいない。アドルフも気の置けない様子で、

「だからいちいち混ぜっ返すな。……テティスに出会ったのは、ここの暮らしに慣れて数年後のことだったか。昼間メルヒオールに聞いただろう。空宿る海のほとりで、衰弱して倒れていたテティスは、それでもライニをしっかり抱きしめていた。今でも覚えている」

「真実の淑女でいらしたんですね、テティス殿は」

「そうだな。テティスはライニの幸せを願っていた。俺はそんな彼女を見ているのが好きだった。具合の良い時は俺にヒメルの話を聞かせてくれ、ライニの世話をする俺に礼を言ってくれるテティスが、俺は好きだった。だがテティスが助からないことは、俺にも分かった。メルヒオールは彼女がマラキアに来た経緯、衰弱の理由を話してくれたが、その話を聞かずとも分かった」

「………」

 ヨーゼフは黙していた。だがその沈黙が冷淡さによるものではないということを、アドルフは解していた。闇色の双眸に、悲しみが翳りを落としている。

「最期の日もテティスは苦しみ、半ばうわ言のように、ライニをお願いします、ライニを守ってくださいと、そう言い続けていた。だから俺は、テティスに言った」

 闇色の目が、アドルフの精悍な面差しを見つめている。アドルフは暗い海の彼方にテティスがいるかのような口ぶりで、

「ライニを必ず守る。俺が必ず守る、心配は要らないと。テティスは俺に最期の笑顔を見せ、―――それきりだった。だから俺はずっと、ライニを守って来た。その心算だったが―――」

「なんです?」

「いつの間にか、ライニといることが楽しくなっていた。ああここで俺は幸せなのだと気付いた」

「…馬鹿ですねえ」

「何?」

 吐息をついたヨーゼフを、アドルフが見つめた。ヨーゼフは夜風に乱された前髪をかき上げながら、

「さっきそれをライニに言えば良かったんです。気付きませんでしたか?貴方が自分を守るのは、テティス殿に頼まれたからだと思ったんでしょう。ライニは寂しそうな顔をしていましたよ」

「…貴様、何故さっき俺にそれを言わなかった」

 アドルフは唸ったが、ヨーゼフはけろりとした様子で、

「ライニにも矜持があります。オイゲンやぽこもいるところで、ちょっと前まで敵だったわたしから、そんなことを言われたくはないでしょう」

「……俺はどうすれば良い」

「今からライニに言って来れば良いんじゃないですか。ライニはまだ眠っていないと思います。オイゲンとぽこ、メルヒオール殿が一緒にいますから痛んではいないでしょうが、今夜は貴方も居た方が喜ぶんじゃないですか」

 アドルフが子どものように頷いた。

「分かった。そうする。それから貴様に礼を言う」

「貴方こそいつになく物分かりが良いじゃありませんか」

 ヨーゼフはなかなか楽しげである。忌々しい表情のアドルフは、メルヒオールの家へと踵を返しかけた。だがふと立ち止まり、

「オイゲンは貴様に惚れている。そして――さっき貴様とライニの話を聞いていて思ったんだが――貴様もオイゲンが嫌いじゃないんだろう」

「…ええ」

「その貴様がオイゲンの想いを受け容れようとしないのは何故だ?貴様とは出会って程ないが、オイゲンの想いを避けるふしがあるのは分かる。何故だ?奴は貴様以外何も必要としていない、そう言っても良いくらいだというのに」

「だからですよ」

 アドルフが虚を突かれた表情を浮かべた。ヨーゼフは額にほつれかかる前髪をかき上げ、

「わたしもオイゲンも、互い以外何も必要としてこなかったんです。互い以外要らない、互い以外何もないんです。何もない二人がくっついたところでどうなります」

「………」

 アドルフは黙している。ヨーゼフの想いにかける言葉が見当たらない。ヨーゼフは淡々とした口ぶりで、

「何もないところからはね、何も生まれやしないんです。傷の舐め合いになるだけです。わたしはオイゲンに、もっと色々なものを見て欲しい。色々なものを必要として欲しいんです。無論わたしも、そう在るようになりたいんです。共に色々なもの、人、想いに触れ、共に癒したいんです。そうしたら、わたしはオイゲンに―――」

 アドルフの手のひらが、ヨーゼフの背を叩いた。

「…何すんです。突拍子もない」

「俺も馬鹿だが、貴様も思ったより賢くないな。それをオイゲンに言ってやれば良いだろうに」

 呆れたような、それでいてどこか嬉しそうなアドルフに、ヨーゼフはむっとした表情を見せた。その雪白の頬が赤い。

「…否定はしませんよ。いずれ言います。貴方たちが共に在ってくれたなら、言う時は早まると思いますし」

「今夜の貴様はいやに殊勝だな」

 さっきの返礼ですかとヨーゼフは苦笑し、バスケットを取り上げた。

「風が強くなって来ましたね。戻りましょう」


『オイゲン。もしわたしが………したならば』

『その時はわたしを殺してください。それはわたしがわたしの心を失った時です。お願いします、オイゲン。わたしがこの世に邪悪を撒き散らす前に、―――どうか』


 オイゲンが左目を見開いた。天井の星型模様がその目に映じる。―――ここはシュテルンツェルト、メルヒオール殿の家の居間だ。ロートデーゲンの邸ではない……。

 安堵の思いで、オイゲンは左目を擦った。指先が濡れる。うたた寝をして泣いていたのかと苦笑し、肘掛け椅子から身を起こした。潮風と汗をざっと洗い流し、着替えも済ませたというのに。随分疲れていると、オイゲンは目蓋を揉みほぐした。

台所からはカミツレの甘い香りがする。―――メルヒオール殿に茶をいただけば、疲れも夢の名残りも消えるだろう。

 オイゲンの様子を訝ったのだろう。こちらもソファーでうたた寝をしていたラインハルトが目を覚まし、

「…オイゲン?どうしたんだ?」

「……いや…。夢を見ていただけだ」

 オイゲンは言い、ラインハルトのブランケットを掛け直してやった。その顔色から推すに、熱は大分下がったようだ。

「オイゲンも疲れちゃったのか?」

「そんなところだ。メルヒオール殿がカミツレ茶の支度をしていられる。それを飲んだらライニ、貴方も眠ると良い。私も眠る」

「…うん」

 ラインハルトは頷き、隣で眠るぽこを抱き寄せた。台所からは、茶器の触れ合う音が聞こえる。オイゲンはほっと吐息をついた。だが夢の声はまだ消えない。


『その時はわたしを殺してください、オイゲン。どうか』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る