第13話 想い・前編
「……メルヒオールの話は分かった」
ラインハルトの声はひどく平板だった。
「それにメルヒオールが、私を傷付けないようにしてくれてるのも分かる。でも今は一人になりたいんだ。自分でもひどいことを言っていると思うけど、そうしないとメルヒオールが、それにアドルフのことも、……嫌いになりそうだから」
言い終えるや否や、ラインハルトは部屋を飛び出した。背後のメルヒオールが何かを言っているようだったが、ラインハルトには聞こえなかった。聞きたいと思わなかった。
シュテルンツェルトの空が、茜色から孔雀青、菫色へと変じてゆく。潮風が芳しい夕闇と涼しさを運ぶ。空に浮かぶのは、満月にはまだ間のある月だ。
ラインハルトは村外れの浜辺、椰子の木の下に座っていた。―――父上は、とてもひどいことをしてたんだ。私を傷付けようとしただけじゃなく、母上のことも苦しめて、すごく傷付けたんだ。どんな理由があったからって、しちゃいけないことをしたって思う。自分がどんなにつらいからって、しちゃいけないことはあるんだ。メルヒオールの言うことだって分かる。でも……。
ラインハルトは膝に顔を埋めた。
―――私は父上みたいに偉大な魔術師になりたくって、旅に出たんだ。そんな父上がひどいことをしてた。メルヒオールも父上にひどいことをした。そしてメルヒオールもアドルフも、それを私に黙ってた。私の大好きな二人が、私に。つらい。信じてたものが壊れそうで、つらい。信じてた、大好きな―――。
木陰で一人、ラインハルトは薄い背を震わせていた。涙が後から後から、白い頬をつたう。菫色の夜空には、数知れぬ星が水晶か蒼玉、金剛石さながらに瞬き始めている。青と象牙色の月明かりの下で、ラインハルトは泣き続けていた。
砂を踏む軽い足音がし、すらりとした人影がラインハルトの前に立ったのはその時だった。ヨーゼフだ。
「ここにいたんですか、ラインハルト」
「なんで来た。私なんか放って置けば良いだろ」
「放っといたら暑さと脱水症状で倒れますよ。浜辺は暑いんですから。今だって昼間の熱気が残っています」
「うるさいっ!どっか行け!……う…」
激したラインハルトは立ち上がり、はずみでよろめいた。ヨーゼフはラインハルトの肩を抱きかかえ、
「日と熱気にやられたんですね。目眩と発熱があります。少し休んで―――」
だがラインハルトはヨーゼフの腕を振り解き、
「大きなお世話だっ!私はヨーゼフの気まぐれで生かされてるって、エーデの森で言っただろ!だったら私を放ったらかして死なせたら良い!ヨーゼフの気まぐれで殺したら良いだろ!!」
「………」
言い過ぎた、とラインハルトは思った。今のヨーゼフの様子から推して殺されはしないだろうが、打(ぶ)たれるかも知れない。ともすれば縮めたくなる背を、それでもぐいと伸ばして見せたラインハルトに、
「脱水症状で熱を出してる貴方を殺したって、面白くもなんともありませんよ。貴方が元気になってぶっ殺して欲しい時に、ちゃんとぶっ殺してあげますから。今はこれを飲んでください」
淡々と言い、携えていたバスケットを差し出す。
「貴方の好きな桃のジュースです。アドルフが教えてくれたんです。林檎のジュースも、お水もありますから」
「………」
ラインハルトは呆気にとられたが、次第に自分の苛立ちが稚気なもののように感じられてきた。ヨーゼフの意図に目を向ける余裕も生じる。―――元気づけようと、してくれたのかな……。私を心配してくれてた……?
ラインハルトはバスケットからジュースの小瓶を取り出し、飲み始めた。桃のジュースのすっきりとした甘み、冷たさが心地良い。喉が渇き切っていたことに、ラインハルトは気付いた。
「ゆっくり飲むんですよ。それからこれ、塩のきいたレモンキャンディーです。発汗で失われた塩分の補給です」
「うん…」
ラインハルトはこくりと頷き、ヨーゼフが差し出したキャンディーの小瓶を受け取った。レモンの酸味と塩味が程よく混ざり合い、悪くない味である。
「お水も欲しいな。美味しいけど、ちょっとしょっぱいから…」
「これですよ。座って飲んだらどうです?」
ラインハルトに水の小瓶を渡したヨーゼフは、白い砂地に腰を下ろした。極度の緊張、激情から解放され、疲れを覚えたラインハルトもそれに倣う。ラインハルトが水を飲み、キャンディーを舐め終えた頃、深い青の沖合いを見つめていたヨーゼフが口を開いた。
「楽になりましたか?熱や怠さはまだあると思うんですけれど」
「…ん…。さっきより良い…」
ヨーゼフの口ぶりに常の皮肉や冷淡さはないので、ラインハルトは素直に応じた。ヨーゼフは闇色の目を細め、
「夜風が出て来ましたね。少しここで休みましょう。わたしもジュースをもらいます」
バスケットから林檎のジュースを取り出し、美味そうに飲む。その仕草なり言葉なりはごく自然である。ラインハルトはヨーゼフの横顔をちらと見やり、
「……ずっと私を探してたのか?」
「まあ、わたしは土地勘がないので手間取ってしまいましたけどね」
ラインハルトは膝に顎を乗せ、
「放っといたら良かったのに。……邪神の子どもで、父上にさえ殺されかけた私なんか。メルヒオールにもアドルフにも、ずっと本当のことを教えてもらえなかった私なんか……」
空色の目に涙が滲む。ヨーゼフはジュースを一口飲み、
「放ってなんか置けません。あんな色々なことがあったら、わたしだってびっくりしますよ。びっくりして混乱して、痛くなると思うんです。そんな時に一人放って置かれたら、余計痛くなりますからね。同じ目に遭ったら、わたしだって痛くなります」
「……ヨーゼフでも痛くなるのか?ヨーゼフみたいに強い、なんでも出来る魔術師でも?」
泣き濡れた空色の目が、ヨーゼフを見つめる。魔術師の横顔は、月影を浴びた白銀の百合のようだ。
「わたしだって痛くなりますし、今も痛い時があるんですよ。……さっきも少し話しましたけど、わたしは父と、それから母とも折り合いが悪かったんです。子どもの頃は、痛いことを言われるか、殴られるか、放って置かれるか、そのどれかでした。オイゲンだけがわたしの家族だったんですけど、オイゲンも痛いことをされてきましたからね」
「…うん」
「二人とも痛い時があるんです。今でもね」
ヨーゼフは淡々と言い、ジュースを飲もうとし、―――苦笑いをした。空の小瓶に口を付けていたことに気付いたのだ。ラインハルトはヨーゼフを見つめながら、
「オイゲンの昔はさっき聞いて分かったし、ヨーゼフのことも大体分かったけど……。なんでオイゲンはヨーゼフの家族になったんだ?」
「わたしが父に頼んだんです」
ヨーゼフがバスケットから小瓶を取り出した。水の小瓶をかざし、硝子が月影に煌めく様子を見ている。
「わたしが子どもの頃の話ですけどね。レーベンスブルネンの地下に忍び込んで、そこの独房でオイゲンに会ったんですよ。オイゲンの銀色の目がとても綺麗で、そう、彼の心みたいに綺麗だと思ったんです。だから父に、オイゲンと友達になりたいと言ったんです。父はわたしのその願いは叶えてくれました。というより、オイゲンにわたしの面倒を見させようと思ったのか……。あるいはただ働きの使用人が一人増えると思ったのか知れません。ともあれオイゲンは邸に住み込むことになり、わたしの護衛騎士として訓練を受けました。その傍ら、わたしの話し相手や遊び相手をしてくれ、邸の雑用もこなしていましたから。……彼には随分と、無理をさせたと思います」
「………」
ヨーゼフはゆっくりと水を飲み、
「でもオイゲンのおかげで、わたしは一日十時間の魔術の勉強、礼儀作法の勉強、乗馬や剣術の稽古にも耐えられたんです。父に打たれても蹴られても泣かなくなりました。オイゲンといると楽しくて、心が楽になったんです」
「オイゲンも楽しくて、心が楽だと思う。ヨーゼフといると。見てて分かる」
「………」
闇色の目がラインハルトを見つめた。ややあってヨーゼフはその目を細め、
「貴方といるアドルフ、メルヒオール殿も、楽しくて心が楽だと思いますよ」
「………」
「貴方を探していられたメルヒオール殿、アドルフの必死な様子を見て、貴方といる時の二人の様子を見て……。分かりますよ」
ヨーゼフの口ぶりは穏やかだった。ラインハルトは空色の目を丸くし、
「……メルヒオールが私を探してたのか…。アドルフも……」
「必死で、一生懸命でした。貴方を大切な、かけがえない家族だと思っていることが分かって、……少し羨ましくなったくらいです」
ヨーゼフが小さく笑ったようだったが、ラインハルトの声はまだ硬い。空色の目が暗い青の沖合いを見つめている。
「……大切だと思ってくれてる。それは分かってた。私も二人が大切だと思ってた。……でも、分からなくなった」
「…ええ」
「メルヒオールが私の父上を殺して、父上は心を病んで惨たらしいことをして、邪神になって、……マラキアを滅ぼそうとして。アドルフはメルヒオールの過去を知ってて、でも私には教えてくれなくて。……私の大切なメルヒオールが、アドルフが。……私が憧れていた偉大な魔術師の父上が……。信じてたことが分からなくなっ……」
堪え切れなくなって、ラインハルトは膝に顔を埋めた。ヨーゼフは落ち着いた口ぶりのまま、
「貴方が迷って痛むのは、それは当然のことだと思います。信じていたものをこのまま信じて良いのか―――分からなくなることはつらいことです。……どうしたら良いのか、分からなくなってしまいます」
「………」
ラインハルトは黙したままでいた。父親の罪を知り、皇帝の変貌を目の当たりにしたヨーゼフも迷い、痛んだのだろうかと、疲れた頭で思った。ヨーゼフはほうっと吐息をつき、
「……メルヒオール殿も、どうしたら良いのか分からないのだと思います。気付いていませんでしたか?」
「…何が?」
「メルヒオール殿にかけられた呪いですよ。決して死ぬことの叶わぬ呪いです。しかも、とても強い」
「え…」
「あの強さから推すに、術者は貴方の父君だと思います。わたしが初めてメルヒオール殿にお目にかかった時、柄にもなく緊張していたのはそのためです。もっともメルヒオール殿は、努めて隠そうとしていられますけどね。貴方に余計な心配をかけたくないんでしょう」
「……!」
ラインハルトの脳裏に蘇る言葉がある。レーベンスブルネンのマンドラゴラを見、アドルフが口にした言葉だ。―――死を拒まれることは、呪いだ。
ラインハルトが立ち上がる素振りを見せた。ヨーゼフは驚いた様子で、
「どうしたんです、ラインハルト。急に動いたりしてはいけません」
「ヨーゼフの言ったことは正しいと思う。……家に戻らなきゃ。戻ってメルヒオールとアドルフに話をするんだ。父上を止めて、マラキアとメルヒオールを助ける方法を―――」
ヨーゼフはラインハルトの肩を抱き、
「その体で無理をしちゃいけません。今晩一晩、ゆっくり休んでください。貴方はまだ本調子じゃないんです」
「でも、メルヒオールとアドルフに―――」
「アドルフとメルヒオール殿ならそこにいます。貴方が慌てる必要はありません」
「…え…」
ヨーゼフのほっそりした顎が、傍らの椰子の木立ちを示す。木陰から現れた人影を見、ラインハルトは瞬時に、それが誰であるかを悟った。ぽこを抱いたオイゲン、アドルフ、そして白いローブ姿の魔術師―――メルヒオールだ。
アドルフは些か気まずそうであるし、律儀なオイゲンもその気まずさをお裾分けしてもらったのだろう。視線は白い砂地にゆきがちで、容易にラインハルトを見ない。メルヒオールも幾分緊張しているようで、その顔色が青ざめているのは、青と象牙色の月影のためだけではない。ぽこだけがけろりとしていて、オイゲンの腕から身軽く飛び降り、ラインハルトに歩み寄る。
「すいません、おちび。立ち聞きする気はなかったんですけども。大事な話をしているみたいだったから、つい出そびれちゃって。あ、でもちょっと立ち聞きしただけです。ほんのちょっと」
「……どこから聞いてたんだ?」
「えっと。おちびがお水を飲んでから、メルヒオールさんとアドルフさんに話をするって言ったとこまでです」
「ほぼほぼ全部立ち聞きしてたんじゃないかっ!馬鹿ぽこっ」
お世辞にも機嫌が良いと言えないラインハルトは怒ったが、ぽこにはラインハルトを怒らせる天賦の才があるらしく、
「おちび、そんなに怒ったら体にこたえるでしょ。熱があって怠いんでしょ」
「お前が怒らせてるんだっ。頭きたっ」
「あばばばばばば」
頭きたラインハルトはぽこの口を掴み、ぐいぐいと引っ張っている。止めに入ったのはオイゲンである。
「止さないか、ラインハルト。ぽこ、貴方もそうだ」
「ん…」
ラインハルトがぽこから手を放した。ぽこはというと、
「ぶはー、ぶはー、ぶはー!あー、死ぬかと思った!」
大人しくしていなさいと、ヨーゼフがぽこを抱き上げる。オイゲンはバスケットから小瓶を取り出し、ラインハルトに勧めている。騒動が収まりかけた頃に、アドルフが口を開いた。
「……ライニ……」
「……ライニ。私は君を―――」
「話は明日する。ちゃんと体を治して、父上を止める方法を考えたいから。でもメルヒオールとアドルフのことは嫌いにならない。家族だって思う。だから―――」
ラインハルトがゆっくりと立ち上がった。空色の目は真っ直ぐに、アドルフとメルヒオールを見つめている。
「嫌いになるなんて言ってごめんなさい、メルヒオール、アドルフ。それから、私を探してくれて、迎えに来てくれてありがとう」
ぺこりと頭を下げた。夜目にもしるき明るい金髪が、揺れる。
メルヒオールが顔を背けた。その目縁(まぶち)に光るものがある。アドルフはラインハルトを見つめ返し、
「ライニ、俺は貴様を守る。何があっても必ずだ。俺はテティスに、―――貴様の母にそう誓った」
「…ん…。うん…」
ラインハルトの声には屈託が滲んでいる。アドルフとオイゲンは訝しげに、
「……ライニ?」
「どうかしたのか、ラインハルト」
「ん…。ちょっと疲れたんだと思う。それからオイゲンもヨーゼフも、私のことはラインハルトっていちいち言わなくて良い。ライニで良いから。……メルヒオールもアドルフも、私をそう呼ぶから」
「分かった」
律儀なオイゲンは頷き、アドルフを見やった。
「アドルフ、ライニは私が休ませる。貴方は必死で、シュテルンツェルト、ヴィアベル峠を探し回っていた。ここで少し休んでいると良い」
「ああ、そうさせてもらう。オイゲン、ライニを頼む。俺はなるべく早く戻るようにする」
「ライニ、行こう。私の背に負ぶさると良い」
オイゲンは長身を屈め、その広い背をラインハルトに向けた。
「…ん」
ラインハルトの華奢な手が、隻眼の騎士の逞しい肩にかかる。ラインハルトを背負ったオイゲンは、月影に照らされた浜辺をゆっくりと歩き始めた。
「ボクも一緒に行きますよう」
ぽこがヨーゼフの腕から飛び降り、オイゲンに駆け寄った。メルヒオールはそんなぽこを抱き止め、ラインハルトの背を軽く叩きながら、
「ライニ、私も君と行く。家に戻ったらカミツレのお茶を淹れよう。よく眠れるようになる」
「うん…」
ラインハルトはぼんやりした声で、それでもメルヒオールに応じた。発熱の怠さのみならず、安堵で疲労が兆したのだろう。そんなラインハルトを支える手に、オイゲンは力を込めた。
寄り添い合うようにして歩み去るラインハルトたちを、アドルフとヨーゼフ、そして月影が見つめていた。
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