第20話 月と海・中編

 ユストゥスの傍らに歩み寄ったラインハルトは、その場に屈み込んだ。時の流れを歪める存在に治癒魔法を使ってはならないこと、今となっては治癒魔法が何の験(げん)ももたらさないことを悟っていたラインハルトは、ユストゥスの右手をのろのろと握った。己の手の温もりで、血の氷を僅かでも融かそうとしているかのようだと、アドルフはぼんやり思った。

 ややあって、ラインハルトが呟いた。

「……なんで、避けなかった……。それより、私の体を器にすることだって出来た筈だろ……。それくらいの魔力は残ってる筈だ……」

「余計な知恵付けんといてくださいよう、おちびぃ!」

「ユストゥス殿はそんなことをしやしません」

 周章したぽこを、ヨーゼフがそっと抱き上げた。

「…え…。なんでですか…?」

「ユストゥス殿に体を乗っ取られかけたのは不本意でしたが、おかげでその心を垣間見ることが出来たんです。ユストゥス殿がわたしの意志を感じ取っていたようにね」

 闇色の双眸が、ユストゥスを静かに見つめる。ユストゥスは黙していたが、その白く高雅な横顔はヨーゼフの言葉を拒んでいなかった。ヨーゼフは小さく息をつき、

「ユストゥス殿、貴方にはライニへの愛情があったんですね。だからライニを器とすることが出来ず、わたしを選んだ。おかしいとは思っていたんです。貴方やライニのような純血のヒメル人でなく、魔力の素質もお二人に劣るわたしを器にしたのは何故なのかと。―――貴方はライニを、己の邪心のための傀儡にしたくなかったんです」

「……ラインハルトは……」

 ユストゥスが口を開いた。その声音に、先刻までの狂気と焦燥はない。

「私と、……私の最愛の妻テティスの子だ…。テティスの面影、優しさ、強さを備えた子だ……。大切でないわけがない……」

「馬鹿あああ!!」

 ラインハルトが叫んだ。空色の目から涙を溢れる。凍て付いたユストゥスの体を両手で抱き、温めようとする。

「なんでっ、なんでそれを言わないっ!言わなかったあああ!馬鹿ああっ、父上の馬鹿あああっ!!ああああっ!!」

「……私は」

 血に染まったユストゥスの唇が、微かに歪んだ。それはラインハルトを嘲弄する冷たい嗤いではなく、己の不器用さに向けられた苦笑のようだった。ラインハルトを安堵させようとする笑みも、そこにあったか知れない。だがその試みは上手くいったと思われなかった。ユストゥスは吐息をつき、泣き続けるラインハルトの明るい金髪にそっと手をやった。

「大切なものを傷付けてしまう。……テティスも、ラインハルトも、メルヒオールも、このマラキアも……。傷付けてばかりだった……」

「大切に思うあまり、守りたいと思うあまり、相手にも心があるということを、貴様は忘れていたのではないか」

 メルヒオールがユストゥスを見つめる。その眼差し、その口ぶりは静かで、いつになく穏やかだ。ユストゥスの澄明な碧眼が、メルヒオールを見上げた。

「……そうであるかも知れない。……そうなのだろう……、メルヒオール…」

 サファイアブルーの目が、ドーム型の天井を見やった。引き結ばれた唇が震えているのを、アドルフは認めた。ややあってメルヒオールは、ユストゥスの傍らに膝を付いた。しゃくりあげるラインハルトの背に、メルヒオールは手のひらを当てた。

「ユストゥス、覚えているか?私たちがこの星に降り立った時のことを。海の青さと陽光の煌めきがあまりに美しく、生きものたちの息吹があまりに尊かった。空宿る海、青嵐の海、翠玉の海が、息吹が。だから貴様は、この星をマラキアと名付けようと言った。我々ヒメルの言葉で『穏やかな海』を意味するマラキアと」

「………」

 ユストゥスの目―――湖水よりも澄んだ目は、メルヒオールの言葉に無心で聞き入っているようだ。メルヒオールの声が、微かに震えた。

「そのマラキアを貴様は、……破壊し、破滅にいざなおうとした。だが貴様はマラキアを愛し、同胞を愛し、テティスとライニを愛し、守ることを望んでいた。いつしか相手の心が見えなくなっていることさえ気付かぬほど、一途に望んでいた。そうなのだろう?」

「……貴様は、いつもそう、私が見えないものを見通す……」

 ユストゥスは息をつき、ラインハルトの金髪に手を当てている。あやすように髪を叩いてくれていた動きが止まったことに、ラインハルトは気付いた。終わりと別れが近いことにも、無論。

「……馬鹿、……ふぐっ……う……。父上は、……頭良いくせに、……馬鹿なんっ……う…」

「……頭良いくせに馬鹿、そうであるか知れない。ラインハルト、……ライニ……」

「……なんっ…。う……」

 ラインハルトが泣き濡れた顔を上げた。ユストゥスの澄明な碧眼に、優しさと、祈りに似た思いが宿っている。

「幸せに、……幸せになれ。……メルヒオール、マラキアと、仲間たちと……共に…」

「…も」

 ラインハルトの顔がくしゃくしゃに歪んだ。背後に佇むオイゲン、アドルフ、ヨーゼフの顔も、また。ぽこはヨーゼフの胸元に、丸ぽちゃの顔を押し付けている。ラインハルトは切れ切れに、

「……もう幸せなん……。メルヒオールも、アドルフもいるしっ、ヨーゼフもオイゲンもぽこもっ……!母上も、……父上も、私が大切だって分かった……だから」

 ラインハルトの言葉が叫びに変わった。ユストゥスの半身に、手のひらと頬を押し付けるようにする。氷雪の冷酷が奪う残された時間を、己の温もりで少しでも引き延ばそうとして。

「もう幸せなんだあっ!心配とかするなあ!……父上がいなくなるのが嫌になるから、……嫌だあああ!!一緒にいる!一緒がいいい!!」

「……ライニ」

 ユストゥスの声が僅かに震えたようだった。ぽこがヨーゼフの胸元から、泣き濡れたぐしゃぐしゃの顔を上げ、

「そんなの当たり前ですよう!おちびだってお父さんと一緒にいるのが良いんですよう!」

「ぽこ、少し落ち着くんです」

 ヨーゼフの声は震えている。ラインハルトは声をあげ、ユストゥスの胸元に顔を押し付けた。

「あああああ!!ああああ!!」

「ライニ、……私はここにいてはならない。邪心で時を歪め、星を消滅させようとした私は、……消えなくてはならない。時の歪みを正し、始祖の翠玉にこの星を守る力を返すために。…だがライニ」

「…う、んっ…。ん……っ」

 澄明な碧眼に見つめられ、ラインハルトはようよう応じた。白い顎を涙がしたたり落ちる。ユストゥスは小さく息をつき、

「私とテティスはいつも、お前たちを見守っている。……メルヒオール、ライニを頼む……」

「分かっている!分かっている、ユストゥス!」

 常は沈着なメルヒオールの叫びに、ユストゥスは微かに笑った。横たわるその身を、白い光が包む。輪郭を曖昧にしてゆく。

「…ライニ……」

「…うん、分かってる。大丈夫、大丈夫だからっ……。父上…、母上のとこにいって、一緒に……っ」

 ラインハルトが唇を噛み締めた。空色の目から溢れる涙を、ユストゥスの指先がすっと拭った。―――拭った気配が、した。

 それ切りだった。清らな白光に包まれ、ヒメルの魔術師は消えた。

 白いタイル張りの床に、ラインハルトは両手を付いた。唇から嗚咽がもれる。歩み寄ろうとしたアドルフを、メルヒオールが静かに制した。こうした時、早まった慰めの言葉は禁物であることを、聡明なヒメルの魔術師は解していた。ややあって、

「ライニ、そうしていては冷えてしまう」

 オイゲンは言い、ラインハルトの背をマントで包んだ。ぽこのふかふかの手が、ラインハルトの頬に触れる。

「ほんとだ。顔冷たいですよう、おちび」

「…ん…」

 ラインハルトは小さく言い、ぽこを抱きしめた。

「……ありがとう、ぽこ、オイゲン。ちょっと暖かくなった…」

「シュテルンツェルトに帰るか?ライニ。メルヒオールに茶をもらうと良い」

 アドルフの無骨な手が、ラインハルトの明るい金髪を軽く叩く。ヨーゼフは屈み込み、ラインハルトの目を穏やかに見つめた。

「カミツレのお茶も良いですけど、お菓子もどうです?ライニはチョコチップクッキー、食べたことありますか?」

「……あるけど、チョコチップクッキーはあんまり欲しくない…」

 ラインハルトがヨーゼフの背に腕を回した。相手の声に甘えの色合いが滲んでいるのを察し、ヨーゼフはラインハルトの腕を軽く叩いてやった。

「どうしてです?ライニはチョコレートが好きじゃないんですか?」

「……前に食べたやつ、すごい焦げてた。……アドルフが作ってくれたやつ……」

 事情を察したヨーゼフはなんとも言えない表情で、苦虫を一ダースほど噛み潰した表情のアドルフを見つめている。オイゲンは咄嗟に顔を背けたがその肩は明らかに震えているし、メルヒオールは無意味な咳払いをしている。

「…わたしが作るのは、その、……すごく焦げてませんから。蜂蜜のクッキーも作ります。ジャムを載せても美味しいんですけどね」

「蜂蜜のクッキー?ジャムを載せるとどんな味になるんだ?」

 ラインハルトはヨーゼフのクッキーに興味を惹かれたらしい。同じく興味を惹かれたぽこ共々、ヨーゼフにあれこれを聞いているその時―――。

「……陛下!」

「陛下、ルドルフ・マンフレート殿下……。わたしは……!」

 オイゲン、ヨーゼフが鋭い叫びをあげた。白い壁の一隅が音もなく開き、鋼の胸甲姿の近衛兵、黒いローブの宮廷魔術師たちを従えた、二人の貴人がやって来たのだ。

一人は金糸の刺繍の施された白いローブ、精緻な細工の留め金付きの紫のマントで身をゆったりと包んだ、長身痩躯の男だった。近衛兵ともう一人の貴人にその身を支えられているものの、足取りにはまだ力が残っている。整えられた髪は既に白く、病み窶れたその顔には両の頬から唇の端に傷のような皺が刻まれている。だが空色の瞳には叡智の煌めきと威厳があり、男がアルトアイゼン帝国皇帝アルベルト・ベルンハルトであることを疑う者はこの場にいなかった。

 今一人は、アルベルト・ベルンハルトの息子にして皇太子であるルドルフ・マンフレートだ。病身の父帝を労るその仕草からは、穏やかさと逞しさが見る者に伝わる。癖のある栗色の髪を些か持て余し気味のルドルフ・マンフレートは、くっきりした眉、すらりと通った鼻梁、引き結ばれた薄い唇からなる整った顔立ちの青年で、僅かに灰色がかったブルーの瞳が美しい。銀の飾りの付いた鋼の籠手、胸甲を一分の隙もなく身に着け、孔雀青のマントを羽織っている。ヨーゼフほど瀟洒ではないが、清潔感のある美丈夫だ。

 秀麗な面差しを強張らせたなりのヨーゼフに歩み寄ったルドルフ・マンフレートは、大きな手のひらを真紅のマントの背に当てがった。

「心配しなくて良い、ヨーゼフ。僕たちは君とオイゲンを捕らえに来たんじゃない。話は父上からうかがったよ。君は身を挺してアルトアイゼン帝国を、いや、マラキアを守ってくれた英雄なんだ」

「皇太子殿下……」

 闇色の双眸が、長身の逞しいルドルフ・マンフレートを見上げる。皇太子はヨーゼフに、穏やかな微笑を返した。軍隊で叩き込まれる機械的な無表情を端正な顔に貼り付けているものの、オイゲンは何とはなしに面白くなさそうである。事情を察したラインハルト、アドルフ、ぽこが顔を見合わせたその時、アルベルト・ベルンハルトが口を開いた。

「ヨーゼフ、オイゲン。言わずとも良い。時の影―――ヒメルの魔術師が消えたのだろう。私に流れ込んでいた思念、魔力が途切れた故、大方のことは察しておる。そしてヨーゼフ、オイゲン、その仲間である魔術師、騎士たち。影の邪念に操られていたとはいえ、私が犯した罪―――レーベンスブルネン、アナテマを、其方たちは命を賭け、止めてくれた。この通りだ、礼を言う」

 アルベルト・ベルンハルトが深々と頭を下げた。と思いきや、咳の発作がその痩躯を襲った。血を吐くような鋭い咳だ。

「陛下、…陛下!」

 ヨーゼフとオイゲンがアルベルト・ベルンハルトに駆け寄った。ヨーゼフは波打つ背に手のひらを当て、胸元をさすっている。オイゲンは近衛兵に手を貸し、アルベルト・ベルンハルトの身を支えている。

 アドルフとメルヒオールが沈痛な表情を浮かべた。皇帝に残された体力、時間が僅かであることを悟ったのだ。ややあって、話が出来る程度の落ち着きを取り戻したアルベルト・ベルンハルトは、

「時の影が消えたとはいえ、その傀儡となっていた私の消耗は激しいようだ。……私の心に潜む野心、我欲に、あの影は取り憑いたのやも知れん。いずれにせよ、私に残された時はもう長くない……」

 アルベルト・ベルンハルトは咳き込み、胸元に手のひらを当てた。空色の目がヨーゼフとオイゲンを見据える。

「帝国魔術師にして参謀ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲン、帝国将軍オイゲン・ゲオルク・ヴァイスファルケ」

「は」

「はっ」

 その場に跪いた二人に、アルベルト・ベルンハルトは最後の言葉をかけた。

「アルトアイゼン帝国の民、マラキアの民、我が子ルドルフ・マンフレートを頼む。其方たちの同胞と共に、民の安寧を守り続けて欲しい……」

「承知致しました。オイゲン・ゲオルク・ヴァイスファルケは、陛下の御命令に背くことを致しますまい」

「承知致しましてございます、陛下。アルトアイゼン帝国の民、マラキアの民、そして皇太子ルドルフ・マンフレート殿下を必ずや……」

 オイゲン、ヨーゼフが恭しい辞儀をした。その恭しさが単なる宮廷儀礼に由来するものではなく、皇帝への心底からの敬意の表明であることに、ラインハルトは気付いていた。ラインハルトはヨーゼフたちに駆け寄り、

「私も力を貸すぞっ!マラキアを守るんだ。父上と母上が愛して、守ろうとしたマラキアを!」

「俺もライニと同じだ」

「ボクも、ボクも同じですよう!」

「奇遇だなアドルフ、ぽこ、私もだ」

 サファイアブルーの柔和な瞳が、ラインハルトとアドルフ、ぽこを見つめた。凛乎とした浅黒い面貌を、メルヒオールはアルベルト・ベルンハルトに向け、

「アルトアイゼン帝国皇帝アルベルト・ベルンハルト、私はマラキアを守ろう。我らが星ヒメル―――マラキアの月が愛した、青き海の星を」

「其方たちに感謝する……誇り高きヒメルの魔術師、同胞(はらから)の騎士よ」

 微かな笑みを浮かべかけたアルベルト・ベルンハルトを、激しい咳の発作が再び襲った。手早く体力回復の治癒魔法を詠唱したヨーゼフは、皇帝とルドルフ・マンフレートを交互に見やり、

「陛下!ご無理をなさってはいけません。アルトアイゼン城からここまで、回廊や階段が多くございましたでしょう。ルドルフ殿下、陛下を城に、お部屋に―――。後でわたしとオイゲンも、ご様子をうかがいに参ります故」

「分かった、ヨーゼフ。君たち、父上をどうか―――」

 ルドルフ・マンフレートは頷き、近衛兵たちにてきぱきと指示をしている。それが一段落すると、アルベルト・ベルンハルトを支え、アナテマの司令室を出る。灰色がかったブルーの目で、闇色の双眸の魔術師をひたと見つめてから。

「陛下のご病状が……。皇太子殿下も、お疲れが過ぎないと良いのですが……」

ヨーゼフが呟いた。その心痛はもっともだろうが、オイゲンはどうにも面白くなさそうである。皇太子殿下、の一語が面白くないらしい。ラインハルトは怪訝そうに、

「オイゲンは、ルドルフ・マンフレートが嫌いなのか?」

「……次代のアルトアイゼン帝国皇帝たる御方であらせられる故、また仁物(じんぶつ)であらせられる故、尊敬申し上げている。皇太子殿下は文武両道に優れておいでで、帝国軍人として数多の武功を立てておられる。見ての通り美丈夫でいらして、英邁さと優しさを兼ね備え、臣下のみならず民からの人望も―――」

「答えになっていないな」

 アドルフは素っ気なく言い、オイゲンの肩をぽんと叩いた。その青い目には何とやらん、いたずらっ子めいた朗らかさがなくもない。

「オイゲン、貴様はルドルフ殿下が嫌いなのか?」

「……臣下としては尊崇の念を抱いている。だが一人の男として言うならば、好きではない。ヨーゼフに尊敬と優しさ、並々ならぬ好意を示されることが気に入らない」

「………」

 ラインハルトとアドルフは顔を見合わせた。男の嫉妬、とぽこが呟く。メルヒオールは苦笑いをしている。それしか出来ない。

 そんな微妙な雰囲気の中、オイゲンの傍らに歩み寄ったのはヨーゼフだ。闇色の双眸が半ば冷ややかに、半ば楽しげに、オイゲンを見上げている。

「それでオイゲン、何が気に入らないってんです?」

 オイゲンは言葉に詰まったようだったが、直ぐそっぽを向き、

「……気に入らなくなどない。だから貴方も、私のことなど放って置けば良いだろう」

「意外と面倒くさい男なんだな、あいつは」

 アドルフが鹿爪らしく言う。ラインハルトとぽこは、二人をじっと見つめている。将来の参考にしたいのだろう。

「オイゲン、あのねえ」

 ヨーゼフは吐息をつき、乱れた前髪をかき上げた。

「あんまり焼きもちを焼き過ぎるんなら、伴侶にしてあげませんよ」

 オイゲンが左目を見張った。驚愕と喜びが碧眼に溢れる。ヨーゼフは相変わらず淡々とした様子で、

「わたしは嫉妬深い殿方は好きじゃないんです。ですがまあ、全く焼きもちを焼かない殿方が好きっていうわけじゃありませんけどね。拍子抜けしちゃいますから」

「貴様も意外と面倒くさい男だな……」

 アドルフの言うことは大体正しい。ラインハルトとぽこはうんうんと頷き、メルヒオールは咳払いをしている。

「…だがヨーゼフ」

 ややあって、オイゲンが口を開いた。当初の驚愕と喜びが冷めたせいだろう、端正な面差しに訝しさが浮かんでいる。

「貴方は私を避けていた。私の想いを拒んでいたのではないのか」

「貴方の言う通りです。想いを避けてきました。だってオイゲン」

 オイゲンの左目に、ヨーゼフの面差しが映じた。大輪の月下美人を思わせるその顔が、美しい深淵のような闇色の瞳が、隻眼の騎士を静かに見つめている。

「わたしも貴方も、互い以外何も要らなかった。わたしには貴方以外、貴方にはわたし以外、何もなかったんですからね。不毛な大地に二人だけがいるようなものです。そんなところから、良いものは何も生まれません。わたしは貴方に、色々なものを必要として欲しいと思っていました。色々なもの、人、想いを見て、触れて、望んで、―――不毛な地を色鮮やかな世界にして欲しいと。癒して欲しいと」

「ヨーゼフ。ならば何故、私を避けることを止めた」

「貴方の隣にいるのは誰です」

「ライニだ」

「貴方にとって、ライニは大切な、かけがえのない存在でしょう」

 オイゲンの端正な顔に、両耳を打たれたような表情が浮かんだ。

「…ああ。そうだ、ライニだけではない。アドルフも、ぽこも、メルヒオール殿も、シュテルンツェルトも。そうだ、ヨーゼフ」

「ええ」

「不毛な地ではない。鮮やかな美しい世界だ。私と貴方のいる世界は」

 オイゲンの声は、微かに震えている。ヨーゼフは頷き、

「今の二人ならば、美しいものを生み出せると思ったんです。だからわたしは、貴方と向き合いたいと―――」

 ヨーゼフの言葉はそこで途切れた。隻眼の騎士の逞しい両腕が、闇色の双眸の魔術師を抱きしめていたのだ。

「オイゲン」

「私は愚かだ。貴方の心も知らずに。貴方に向かって、独りよがりの想いをぶつけてばかりいた。貴方を困らせていた。ヨーゼフ」

 恋人を抱きしめるその腕に、オイゲンは力を込めた。切れ長の左目が、ヨーゼフを静かに見つめている。

「貴方が耳飾りを外すまいとしてくれた時、私は貴方を愛しいと、貴方が誇らしいと、守りたいと、そう思った。愛している、ヨーゼフ。私の伴侶になって欲しい」

「貴方の気持ちは嬉しいのです、オイゲン。とても……」

 ヨーゼフの声に躊躇いが滲んだ。闇色の瞳がラインハルトを見ようとしている。父を失ったばかりの少年魔術師の心を思い、オイゲンの愛を受け容れる時が今であって良いのかと考えているのだろう。そんなヨーゼフの胸中を見透かしたかのように、

「思い立ったが吉日で、良いんじゃないのか」

 アドルフは無造作に言い、ラインハルトとぽこを示した。

「ふうん……。愛しているって言ってから、結婚してくださいって言うのか……」

「その前に抱擁ですよ、おちび。それにアドルフさんの大人の絵本によると、このあとちゅってやって、然る後に子作りですね」

「ちゅってやって子作りなのか……」

 ぽこの言葉――ヨーゼフにしてみれば火に油以外の何物でもない――に、ラインハルトは感心したように頷いている。オイゲンの愛を受け容れる時が今であっても問題はなさそうだが、ヨーゼフは頭を抱えている。

「……こういうことは人それぞれなんです。百人百様です。わたしとオイゲンを基準に考えないでください」

「ヨーゼフ、ライニたちがああ言ってくれているのだ。ちゅってやって、然る後に子作りをしよう。私は貴方の子ならば、いつでも身ごもる用意は出来ている」

 オイゲンはオイゲンでかなりずれている。アドルフはアドルフで愉快そうに笑っているし、メルヒオールもなかなか楽しげである。元より長くはないヨーゼフの堪忍袋の緒は、ここで切れた。

「皆、少し落ち着きなさい。アナテマを出、アルトアイゼン城に行くことを考えてください。さもないと消し炭ごとこの世から消し去りますよ?」

「……」

 かくて落ち着きを取り戻した一行は司令室を出、城に続く通路の階段を黙々と降り始めた。

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