第6話 絆・後編

 帝都の郊外。天井の高い、広々した食堂にヨーゼフは一人いた。趣味の良い卓布で覆われた一枚板のテーブルに座を占め、壮麗な陶磁器、華麗なグラスに囲まれながら、上等のベーレンアウスレーゼを堪能している。つまみはブルーチーズ、干し無花果(いちじく)とラズベリーだ。

 しかしながらヨーゼフがいるのは、重厚さと陰鬱さをたたえるロートデーゲン邸(てい)の食堂ではない。暗い色調で描かれた累代の当主たちの肖像画が己を尊大に見下ろす邸(やしき)を、ヨーゼフは好まなかった。ザイデ湖畔にある、古典的品格と壮麗さを兼ね備えたオイゲンの邸――アルトアイゼンが王国であった時分の宰相ヴァルトブルグ伯爵邸を改築した――の食堂にいるのである。魔物討伐の折の武功としてオイゲンに与えられたこの邸、ロートデーゲン邸よりもヴァイスファルケ邸よりも広壮な、オイゲンと二人で改築の設計を考え、家具調度を選んだこの邸が、ヨーゼフは好きだった。そのオイゲンを今、ヨーゼフは待っているのだ。

 ……エーデの森から移動魔法を使い、帝都に帰還した二人にはだが、皇帝アルベルト・ベルンハルトに対面する機会は与えられなかった。宮廷医師団によれば、陛下は「発作」の只中にあらせられるため、誰もお目通りは叶いませぬという。

「陛下のご様子は日を追うごとに……。意識の明瞭である時が、短くなっておられる……」

 ヨーゼフは呟き、広い窓の外を眺めた。空は既に暗い。邸のぐるりの木立ちや植え込みの黒い輪郭、銀の星影を散りばめた黒檀の板さながらのザイデの湖水を、見るともなく見つめる。

 二人はそのままアルトアイゼン城に留まり、ヨーゼフは帝国(ていこく)魔法(まほう)研究所(けんきゅうじょ)へ、オイゲンは軍略会議の会議室に向かった……。

 食堂の扉の開く音が、ヨーゼフの物憂い回顧を打ち破った。戸口に佇むのはオイゲンで、その右目は予備の眼帯で覆われている。アルベルト・ベルンハルトがオイゲンの右目を忌むようになり、宮廷人たちもそれに倣ったため、オイゲンは眼帯の着用を――暗黙のうちに――義務付けられているのである。ヨーゼフは闇色の双眸を隻眼の騎士に向け、ベーレンアウスレーゼに口を付けた。その表情には何とやらん、いたずらっ子めいた朗らかさが仄見える。

「お邪魔していますよ、オイゲン」

「貴方はここに常時出入り許可だ、ヨーゼフ。それに私は、貴方を邪魔だと思ったことなどない」

 生真面目に応じるオイゲンに、ヨーゼフは向かいの椅子を勧めた。

「貴方はつくづく律儀ですねえ。軍略会議が長引いたんですか?」

「将校たちも他の将軍たちも皆、弱腰だ。陛下の言いつけ通り、アルトアイゼン辺境侵攻計画を練ることしか頭にない。だが陛下の機嫌を損ねまいとして立てる計画故、はかばかしい成果の上がるものではない」

 憤った口ぶりのオイゲンは、ややあってヨーゼフを見つめ、

「貴方はどうなのだ、ヨーゼフ。帝国魔法研究所とレーベンスブルネンは」

「相変わらずです。ヒメルの血脈を作り出すことと、太古の機械アナテマの復活に血道を上げていますよ。陛下のご機嫌を損ねまいとしてね」

 ヨーゼフの口ぶりに滲む苦々しさを感じたのだろう。オイゲンは黙した。長くはあるが無骨な指を、無意味にねじり合わせている。ヨーゼフはワインを一口やり、

「それよりオイゲン。傷の具合、それから目の具合はどうですか?」

「貴方の治癒魔法のおかげで、傷は大丈夫だ。右目は、久々に陽射しを浴びたせいだろう。少し眩んだが、今はどうということもない。だがあの黒騎士は許せない。次こそ殺す」

 オイゲンの左目がぎらりと光る。ラズベリーをつまんだヨーゼフは、

「いつになくご機嫌ななめなんですねえ。何か召し上がったらどうです?空腹は苛立ちを募らせるものです」

「貴方と一緒に食べるのでなければ、私の機嫌は治らない」

「そう言うだろうと思っていましたよ。実はわたしもまだなんです。食事にしませんか?」

「それは嬉しいがヨーゼフ、そのベーレンアウスレーゼは……」

 邸(やしき)で一番高い酒であり、オイゲン愛飲の酒でもある。だがヨーゼフはけろりとしていて、

「これは栄養補助飲料です。疲れていましたし、喉も渇いていましたからね。チーズと果物は、胃粘膜保護のためです」

「………」

 しゃあしゃあと言ったヨーゼフに、オイゲンは黙している。それしか出来ない。それでもヨーゼフは――少なくともオイゲンに対しては――存外細やかな気遣いをするらしく、

「チキンサラダを取り分けますよ。オイゲン、肉は多目が良いんでしょう」

「マスタードとトマトソース、どちらにします?パンのおかわりは良いんですか?」

 夕食の給仕をしてやっている。それ故本人の言葉通り、食事を終えたオイゲンの機嫌はあらかた治っていた。


 そんなこんなで夕食を済ませ、オイゲンは自室に、ヨーゼフは客用の寝室――オイゲンの邸で最も上等の――最早ヨーゼフ専用の――最早ヨーゼフの私室と化している――に、それぞれ引き取った。

 風呂を済ませ、寝間着にローブガウン――黒の地に、金糸、銀糸の大輪の花が刺繍されている。オイゲン曰く「人の趣味をとやこう言うのは無粋な所業と分かっているが……。だがヨーゼフ、目が眩みはしないのか?」――を羽織ったヨーゼフは、ソファーに寝そべり小説を手にしている。手ずれのした小説本にヨーゼフがなかなか没入出来ずにいると、ドアを叩く音がした。二回叩いて間を空け、三回叩く―――そのノック音は、ヨーゼフが馴染んだものである。

「入ってください、オイゲン」

 立て膝で寝そべるという姿勢を改め、ソファーに座り直しながら、ヨーゼフは応じた。入って来たのは、果たせるかなオイゲンだった。眼帯を外し、こちらも寝間着にローブガウン姿――これはありふれた、落ち着いたグレーだ――のオイゲンは、梨と葡萄、林檎の入ったボウルを手にしている。この男なりの気遣いなのだろう。ヨーゼフは物憂げに、

「座ったら良いでしょう。葡萄、いただいて良いですね?」

 どちらが邸の主(あるじ)だか、最早分からない。だがオイゲンは腹を立てる様子もなく、ヨーゼフの隣に腰を下ろした。ヨーゼフが房から葡萄を一粒一粒もぎ取り、もぐもぐ食べている様をじっと見つめている。その青と銀の目はいつになく柔和だ。ヨーゼフにほの字だというアドルフの推測は、なるほど当たっていたようだ。そんなオイゲンの目が、テーブルに放り出されている小説本を見つめた。「魔性の人妻エルネスティーネの夜」という露骨な題に、オイゲンは端正な顔をしかめた。

「貴方はこんな本を読むのか、ヨーゼフ」

「そりゃまあ、男ですからねえ。しかし飽きがきたんですね。初めて読んだ時の興奮はなかなか蘇りません。良かったらあげますよ」

 相変わらずしゃあしゃあと言う。オイゲンはむっとした表情のまま、

「私は要らない」

「どうしてです?魔性の美女もの、貴方好きでしょう?わたしがここに置いていった官能小説の中で、それだけ置き場所が変わっているんですよね。無くなっていたこともありましたけど、貴方が部屋に持って行ったんでしょう」

「………」

 逞しい首筋を真っ赤にしたオイゲンを見るに、皮肉屋の魔術師の言うことは図星だったようだ。ヨーゼフは葡萄をむしりながら、

「貴方も若いんですから、恥ずかしがることはないですよ。手ずれのした官能小説で一人いそしむより、娼館に行ったらどうです?貴方さえ良ければ、わたしの馴染みの店と魅力的な女性を紹介しますよ」

「私は行かない。紹介も必要ない。妻帯する気もない」

 唇をへの字にしたオイゲンを、ヨーゼフはどこか面白そうに見やり、

「どうしてです?貴方はとても魅力的ですよ、オイゲン」

「私には貴方がいる。だから他のものは要らない」

 今度はヨーゼフが黙する番だった。葡萄をさして美味くもなさそうに飲み込んだヨーゼフを、青と銀の目がじっと見つめている。ヨーゼフは果物のボウルを物憂げに見つめながら、

「今夜は面白いことを言うんですねえ、オイゲン。エーデの森で、面白いおちびさんに出会ったからですか?」

「ヨーゼフ、私は―――」

「あのおちびさんは、ただのヒメルの血脈ではなさそうです。より血の連鎖が濃厚で、魔力も桁違いです。貴方も気付いているでしょう?」

 話を逸らされ、だがオイゲンは不承不承頷いた。ヨーゼフの秀麗な横顔に浮かぶ、苦渋の色を認めたからである。

「ですからわたしは迷っているんです。陛下におちびさんのことを申し上げるか、否か。ここ最近の陛下のご様子では、あの少年魔術師を草の根をかき分けても探させ、レーベンスブルネンの実験体にさせるのでしょう。帝国の脅威となり得(う)る存在を捨て置くことは――わたしの立場上――出来ません。しかしわたしだとて、年端も行かぬ少年を実験体にするなど……。それも、ヒメルの血脈への執着のために」

 オイゲンの白い眉間に、傷のような皺が寄った。

「陛下は何故こうまでして、ヒメルの血脈に執着なさるのか。……私には陛下の執着の度合いが、異様なものと感じられる。昔は穏やかで、賢帝として名高かった陛下が……」

「まるで人が変わったかのように、ヒメルの血脈に、そしてヒメルの再現とも言うべき魔法大国をここマラキアに築くことに執着していらっしゃいます。錯乱の発作も、日増しにひどくなっておられます。陛下のご様子、消耗の度合いは、只事と思われません」

 ヨーゼフが白い拳を握り締めた。闇色の双眸が虚空を睨み据える。

「只事と思われないのは、レーベンスブルネンの創設も然りです。あれは人が触れてはならぬ領域を侵犯する施設です。そしてアナテマは―――」

ヨーゼフの声が激しかける。それを遮ったのは他ならぬオイゲンだった。

「私は」

 静かに言い、ヨーゼフの手をそっと握る。

「私はヒメルの血脈のヴァイスファルケ家に生まれながら、一族の中で唯一人、魔力を発揮することが出来なかった。それ故父ブルーノも母エリザベートも、姉のケイテも弟のエドヴァルドも、私を疎んじた。そして父は私を、レーベンスブルネンに―――当時レーベンスブルネンの運営責任者を務めていた貴方の父君(ちちぎみ)フリードリヒ・コンラート・フォン・ロートデーゲンに、ラットとして供した。自らの出世、利益のために。貴方の父君はロートデーゲン家当主であり、宮廷魔術師筆頭(きゅうていまじゅつしひっとう)でもあったのだから」

「………」

 ヨーゼフが小さく頷いた。闇色の双眸はオイゲンの手を見つめている。

「私はヒメルの血脈の魔力を注入する実験に使われたものの、施設が期する結果を出すことは出来なかった。実験の後遺症が右目に残った私は、地下の独房に閉じ込められ、廃棄処分を待つ身となった。そこにやって来てくれたのが、ヨーゼフ、―――貴方だった」

「今夜はいつになく饒舌ですねえ、オイゲン」

 ヨーゼフの皮肉めいた言葉に、だがオイゲンは動じる様子もなく、

「貴方は魔力注入実験の後遺症、私にとっては失敗作の証(あかし)でもある右目を、『ヒメルの目』『マラキアの月の目』と言ってくれた」

「……わたしは綺麗なものが好きなんですよ。貴方の目はそう、わたしたちマラキア人が月と呼ぶヒメルに、ヒメルの銀色に見えたんです。夜空に浮かぶマラキアの月に」

「ばかりではない。貴方は私と友達になりたいと、そう望んでくれた。あの時の貴方の言葉を、私は今でも覚えている。―――父上。わたしはもう、おもちゃや誕生日プレゼントを欲しがったりしません。お邸の外へ遊びに行きたいとも言いません。父上に打たれてももう絶対泣いたりしませんし、一日十時間の魔術の勉強も、剣術や馬術の練習も、嫌だって言いません」

 ヨーゼフの手を握る指に、オイゲンは力を込めた。

「だからこの子と友達になることを許して欲しいんです。ヒメルの目、マラキアの月の目をしたこの子と。この子は心がとってもきれいな子だから、目がマラキアの月になったんです」

「……よく覚えていますねえ」

 ヨーゼフは横顔だけを見せて笑った。その横顔―――昏(こん)夜(や)に咲く白銀の百合の如き横顔を、オイゲンはじっと見つめている。

「忘れることなどない。そして私は貴方の護衛騎士として育てられ、ここまで来ることが出来た。あの日から貴方は私の全てだ、ヨーゼフ。私には貴方以外、必要なものなどない。その貴方が命を落とすなど―――」

 ヨーゼフが唐突な仕草で首を振った。

「わたしはヒメルの血脈の一族、帝国高位貴族のロートデーゲン家に生まれました。しかし野心家の父フリードリヒ、享楽的な母カテリーナは、わたしに関心を持ちませんでした。父が求めていたのは、ロートデーゲン家を存続させ、その名をあげさせるための継嗣でしたから」

 ヨーゼフの言葉は事実だった。それを知り、それに起因するヨーゼフの痛みを知るオイゲンは黙した。ヨーゼフは自嘲の笑いを笑い、

「わたしはそう、貴方が思うほど強くないんです。わたしは淋しかったんです。何とかして父の関心を惹こうと、彼が責任者を務めるレーベンスブルネンの地下に忍び込んだんです。そこで貴方と出会って……。友達になりたいと思ったんですよ。貴方の綺麗な銀色の目は、貴方の綺麗な心の色だと、そう思ったんです。―――だからですよ」

 闇色の双眸がオイゲンを見つめた。銀の美しさの声音に、鋼の凛然が加わる。

「だからわたしは、貴方に生きて欲しいんです」

「ヨーゼフ!貴方はアナテマを―――一人で―――」

「唯一人の大切な家族に死ねと言うほど、わたしは愚か者じゃありません」

 ヨーゼフが吐息をついた。闇色の目に、ふっさりした睫毛が青い翳りを落としている。

「アナテマが『九百九十九(きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう)の理(ことわり)』を有していることを、陛下に申し上げます。早いうちに、―――叶うならば明日にも。無駄に終わったならば、わたしがアナテマを止めます。出来ぬまでも、わたしが。……わたしの父はマラキアの破滅に加担した罪人です。だからといってわたしは、その罪を継ぎたくはない。父の過ちを止めたいのです」

「ならば私も、ヨーゼフ、叶わぬまでもアナテマを止める。愛する人を見殺しにして生き延びる気はない。貴方のいないこの世になど、私は何の意味も見出さない」

 青と銀の目がヨーゼフを食い入るように見つめている。ヨーゼフは目を逸らしたが、オイゲンはヨーゼフの手を離そうとしない。

「貴方はお利口さんじゃありませんね。……お馬鹿さんです」

「馬鹿で構わない。だがヨーゼフ、貴方と私は共に育ち、共に在(あ)った。共に生を終えるのも一興ではないのか。それに私は貴方を愛している。貴方以外を、私は愛さない」

「……貴方にしては、気の利いた冗談だと思います。しかし、まあ、どうにも根負けがしました。共に生を終える気はありませんが、一人より二人の方がアナテマを止められる可能性は――僅かであっても――高いでしょう」

「ヨーゼフ」

 吐露した愛情を無視され、だがアナテマを止めるという意志は容認されたようでもあり―――オイゲンは憤ったような複雑な表情をしている。ヨーゼフは丁重ではあるが素っ気ない口調で、

「ありがとうございます、オイゲン。明日、陛下に奏上を」

「……分かった。ヨーゼフ」

 頷いたオイゲンを、闇色の双眸がちらと見つめた。―――それでもわたしは、貴方に生きて欲しいんです。


「何か言ったのか?ヨーゼフ」

「いいえ。何も」

 ヨーゼフの口ぶりは素っ気ない。だがオイゲンの手を、ヨーゼフは離そうとしなかった。

 ―――二人が眠りにつくまでの間、いつまでも………。


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