第7話 レーベンスブルネン・前編

 ―――アルトアイゼン帝国参謀兼宮廷魔術師筆頭ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲン。

 ―――アルトアイゼン帝国将軍オイゲン・ゲオルク・ヴァイスファルケ。

この二人の存在は、社会的に抹殺されつつあった。他ならぬ帝国皇帝アルベルト・ベルンハルトの命によって。


 二人は全ての役職を解任され、その邸と財産は帝国に没収された。ヨーゼフの著した書物や論文は禁書とされ、オイゲンの武功や彼の名を冠した作戦はなかったものとされた。

 しかし二人の処分はそこまでだった。皇帝の「発作」のため、命令が停滞したのだ。最近の皇帝の消耗、その原因となる錯乱を知らぬ者は、宮廷にいない。

いつ何どき皇帝が意識を回復し、命令を撤回するか知れない。あるいは二人の処遇のことなど忘れ、腹心の部下を社会的に抹殺した臣下を断頭台に送るやも知れない。今日の「反逆者」である二人が、明日は権力の中枢に返り咲くやも知れぬ。そしてヨーゼフの容赦のなさと恐ろしく切れる頭脳、オイゲンの冷酷を、保身に敏(さと)い宮廷官吏や貴族たちは知悉している……。それを思うと、二人を手荒に扱うことは良策とは言えない。

 結果としてヨーゼフとオイゲンはレーベンスブルネンの一室に軟禁され、皇帝の沙汰を待つ身となった。それ故オイゲンの邸ほどではないものの、まずまず豪華な家具調度に囲まれ、宮廷官吏からの「差し入れ」――ベーレンアウスレーゼや煙草、トランプにチェス、小説本――をお供にしたヨーゼフは、なかなか悪くない時間を満喫しているように見える。

 しかしヨーゼフほど強靭な神経に恵まれていないオイゲンは、逃亡防止に柵の取り付けられた窓、右手首に嵌められた手枷と鎖、鎖の端が括り付けられた壁の鉄輪を睨み据えている。


 ―――帝都、アルトアイゼン城は、混乱と不穏の只中にあった。


 帝都を二分するのは、中心部を流れるファータ・モルガーナ運河である。

 裕福な町人や貴族所有のゴンドラが行き来する運河の東岸は、広壮なアルトアイゼン城やその別邸、最新の建築様式で建てられた市庁舎に大学、スキエンティア博物館にエウテルペ図書館といった、整然たる石造りの建物が並ぶ新市街だ。運河と対岸を一望出来るヴァールハイト広場は、帝都の見所の一つである。広場の中心に聳え立つ三体の女神像はそれぞれ、「知恵」「美しさ」「勝利」を司るという。

 西岸は旧市街地で、天使のステンドグラスが美しい聖ドライシュヴェルダー大聖堂が聳え、きらきら光る水路が至る所に流れ、若葉や針葉樹の茂み、花々と庭土が豊かに香る住宅街、昔ながらの商店街が並ぶ。……住宅街の外れは水路も濁り緑も枯れ、倒壊しかかった建物の間を悪臭が漂う貧民街だ。

「ここが帝都か……」

 ラインハルトは呟き、ヴァールハイト広場のぐるりを見渡した。空色のリボン付き三角帽子からのぞく髪、そして眉は、帽子と同じ黒色をしている。

「広場も女神像も立派だけれど、人の流れがせわしいぞ。表情も暗いように見えるし……。建物やなんかの様子も、暗くて冷たい感じがする」

「参謀と将軍が揃って解任され、軟禁されたんだ。皆、帝国の行く先と明日の我が身を案じているんだろう。隻眼の鷹は、将軍としてなかなか有能だったようだな。性格はともかくとして」

 かく言うアドルフは、茶褐色の髪と眉を金色に染め、右目を黒い眼帯で覆っている。眼帯には灰色の紋様が見えるので、視界に不自由はないようだ。にも関わらず、アドルフはいつになく不機嫌のようである。ご機嫌ななめの原因が、敵(かたき)と目するオイゲンと同じ髪色、隻眼の変装をさせられているからだということに疑いの余地はない。案の定アドルフは苛立った口ぶりで――だが彼らしい律儀さを発揮して小声で――、

「ライニ。目的を果たしたなら、この忌々しい髪色をもとに戻してくれるんだろうな。長年慣れ親しんだ茶褐色を金色に染めたせいだ、頭が軽くなった気がして落ち着かん。それからこの眼帯もだ」

「勿論、私だってこの髪を金色に戻すぞ。ただヨーゼフとオイゲンがレーベンスブルネンに捕らえられているっていうから、こうしたんだ」

「その辺がボク、よく分からないんですけども。どうしてなんです?」

 ラインハルトのマントの懐から、ぽこが丸ぽちゃの顔を覗かせた。じっとしてろとラインハルトは小声で言い、

「……あのヨーゼフ、オイゲンのことだ。大人しく捕まっているわけがない。必ず脱出の機会を狙ってる。二人の脱出と私たちの潜入が重なった時、レーベンスブルネンには黒髪の魔術師、金髪隻眼の騎士が、それぞれ二人ずついることになるだろ」

「…あっ、そうか!」

 ぽこが小さな叫びをあげた。ラインハルトは頷き、

「施設内を逃亡中の黒髪の魔術師、金髪隻眼の騎士を捕まえろっていうことになった時、追っ手たちは混乱する。敵側の隙は、なるべく多く作っておいた方が良い」

「おちびにしては考えてるじゃないですか。知恵熱を出して倒れないでくださいね」

 ラインハルトの拳がぽこの頭頂部をごつんとやった。ぽこは大仰に泣き喚こうとしたが、アドルフの不機嫌を察しているからだろう。ラインハルトの頬にパンチを打ち込むだけにした。

「………!」

「………!」

 無言で叩き合いを続ける二人に、アドルフの控えめな怒声が飛んだ。

「やめろ貴様ら!!」

 この時の一行は知る由もなかったのだが、ラインハルトの策は功を奏することとなる。


 目元に黒い隈をこしらえ、額に汗を滲ませた官吏が数人、城の廊下広間を歩いている。背後に従う帝国兵ともども、疲れ切った様子である。

 そんな一団に歩み寄った、一人の男がいる。深緑のマントに黒いローブという出で立ちから宮廷魔術師と知れるが、怒り肩と猪首、ずんぐりした体躯が雄牛を連想させる。灰色の鋭い目に通った鼻筋の持ち主だが、苦み走った良い男と言うには、頬にも顎にも脂肪が付きすぎている。ダークブラウンの髪は、生え際が大分後退している。魔術師は横柄な口ぶりで、

「随分とお疲れのようだな。あの若造の舌鋒にさらされてきたのでは、まあ、無理からぬことではあるのか」

 官吏たちは曖昧に笑い、その場をすり抜けたそうな素振りを見せている。下には威張り散らし、上には媚びを売り、傍輩の陰口を叩き……そのくせ根が粗暴なこの魔術師を、官吏や兵士たちは好いていない。だが男に釣った魚をそう安々と逃がす気はないようで、官吏の一人の腕を掴んだ。そのまま相手を広間の片隅、タペストリーの影に引きずってゆき、

「あの参謀の若造は何と言って駄々をこねているんだ?言えよ。俺はアルトアイゼン宮廷魔術師にして参謀副官、マルティン・シュターデン。あの若造が断頭台に送られた後は参謀の座に付く、マルティン・シュターデン様だぞ。俺に恩を売って損をすることはない」

「……ロートデーゲン参謀は、…その……」

「何だと言うんだよ」

 シュターデンの口ぶりに、粗暴と苛立ちが滲む。別の官吏が腕を掴まれた同僚を庇うように、

「…陛下のご命令ならば従いましょう、ただし貴方がたがそれを証せるものを持って来たならばと。さもなくば軟禁を解けと、こう仰(おっ)有(しゃ)られるのでございます……」

 シュターデンが鼻を鳴らした。

「陛下のご署名がなされ、承認印付き指輪(シグネットリング)による印が捺(お)され、アルトアイゼン王家の紋章入りの紙に記された公式文書にしか従わんと言うのか。猪口才な」

「それに……あの……。シュターデン様はご存知でいらっしゃいましょう」

シュターデンの苛立ちを見て取ったのだろう。官吏がおずおずと言い足した。

「参謀以外に帝国魔法研究所の運営が叶い、レーベンスブルネンの機密にも通暁していらっしゃる御方は、他におられません。ロートデーゲン参謀の知謀、ヴァイスファルケ将軍閣下の力なくして、軍略を立てることは容易ではなく……」

「何をくだらん。痛めつけて聞き出せば良いだろう」

「何を仰有られます?!」

 シュターデンのせせら笑い、官吏たちの悲鳴に似た声が、広間に響いた。

「あのいけ好かん片目の将軍が『取り調べ』の途中で死んでも、病死と取り繕えば良い。……ヨーゼフの方は、そうだ、俺に使い道がある……」

シュターデンは言い、下卑た笑いを口元に浮かべた。


 帝都の郊外である。ラインハルトたちの眼前には、巨大な灰色の塀があった。

陰気で無愛想なその塀には、小さな覗き窓が付いている。灰色の怪物が自分たちを見下ろしているようだと、ラインハルトは思った。怪物の丈はラインハルトの背丈の優に五倍はあり、鉄製の忍び返しで武装している。ために内側の様子をうかがい知ることは出来ないが、そこにレーベンスブルネンの研究設備や実験棟があることは疑いの余地がない。絶え間なく立ち上る黒い煙が、それを証している。―――実験体を廃棄処分する煙。

 恐怖と緊張で顔を強張らせたぽこの背を、アドルフは軽く叩いてやった。ラインハルトもぽこの頭を撫で、

「大丈夫だから、ぽこ。魔道具の支度はしたし、危なくなったら直ぐ脱出する。今からアネモイの風術を使って、レーベンスブルネンの地図も作るから」

「……アネモイの風術ってどうするんですよう」

「簡単に言っちゃうと、風に聞くんだ。塀の内側に吹き、ここに戻って来た風たちに」

 ラインハルトは落ち着いた口ぶりで言い、魔杖ゴルデンレーヴェを掲げた。

「風よ、生きとし生けるものに憩いと力を与え、清らに静謐なるアネモイの風たちよ。その力をして九百九十九の同胞を集(つど)わしめよ。清らに静謐なるアネモイの風たちよ、九百九十九の同胞を集わしめよ!」

 途端、風たちが向きを変えた。ラインハルトの周りに集い、吹き、渦を巻く。ラインハルトは羊皮紙を取り出し、渦の只中にそれを置いた。羊皮紙には瞬く間に、精緻な地図が描かれてゆく。

「見事なもんだな」

 アドルフの素っ気ない感嘆に、ラインハルトはにっこり笑った。

「ん、メルヒオールに教えてもらったんだ」

「じゃあそのメルヒオールさんに感謝ですね」

「……なんかじわじわ腹立つな」

 なんかじわじわ腹立ったラインハルトだが、直ぐに地図を手に取り、

「…えっと、この塀を西に回って……。ここには兵士たちの出入り口があるんだ。帝都の混乱のせいか、人影はあまりない……。メルクリウスの鍵を使って、ここから入ろう。アドルフとぽこは、魔法水晶を忘れずに持ってて欲しいんだ。メルクリウスの鍵、天馬の羽、魔封じのロープ、ネペレの霧の入った水晶。薬草や護符(タリスマン)、体力回復薬(たいりょくかいふくやく)なんかも入っているから」

「分かった。これだな」

 アドルフは頷き、金鎖を通した小さな水晶柱を、胸元から掲げて見せた。ぽこも赤いスカーフにくるんであった水晶柱を示す。ラインハルトも二人に頷きを返し、

「二階に大きな部屋がある……。強い魔力を感じる。ここで実験が行われているようだけど、地下も気になるんだ。……廃棄処分される予定の実験体が、ここに閉じ込められている……」

「………」

 ぽこの丸々した顔が翳りを帯びる。ラインハルトはぽこの頬を軽く叩き、

「ともかく二階の大部屋に行こう。設備に損傷を与えたなら、実験は滞る。大部屋の奥に部屋があるんだけど、ここにレーベンスブルネンの機密書類が揃っていると思う。帝国の紋章を描いた結界が施されているから」

「分かりましたよう。……でもヨーゼフとオイゲンはどこにいるんです?うっかり出くわしちゃったら嫌なんですけどボク」

 ぽこの言葉に、ラインハルトは愛くるしい顔をしかめた。

「私だってやだぞ!……だけど二人の場所は分からない。風たちも分からなかったみたいだから、どこかに閉じ込められてることは間違いない。それも厳重に。きっとヨーゼフは魔封(まふう)じの枷(かせ)か何かを着けられて、魔力を封印されているんだ。だから魔力を感じることが出来なくて、居場所も分からないんだ……」

「あいつのことだ。魔封じの枷とやらがいつまで保つかな」

「縁起でもないこと言わないでくださいよお〜、アドルフさん〜」

今にもべそをかきそうなぽこを、アドルフは胸元で抱きかかえてやった。

「分かってるぞ、アドルフ。ぽこも大丈夫だから。ヨーゼフの魔力の動向には気を付けておく」

 ラインハルトは頷き、アドルフとぽこを塀の西側に先導した。その手にはアネモイの地図がしっかりと握り締められている。アドルフの温もりと、ラインハルトの落ち着きに安心したのだろう。ぽこはアドルフの腕から身を乗り出し、

「おちびー」

「なんだ?」

「さっきおちび、九百九十九の同胞って言ってましたよね。千とか万とかじゃなくって。どうしてですか?」

「ん…。魔術師は術法を施す際、『九百九十九』や『九百九十九の理を超えて』って言葉を、無限や永久といった意味合いで使うんだ。それを九百九十九の理って呼ぶ。九百九十九って数は物理的な多さを示すだけじゃなく、呪術的にも強い意味合いがあるんだ。例えば器物が生命を宿して魔物になるには、九百九十九年の年月が必要って言われてる。九百九十九っていうのは、大事な意味を持つ数で言葉なんだ」

 ぽこは感心したように丸ぽちゃの手のひらを叩き、

「なるほど〜。おちびの言い間違いじゃなかったんですね。ちょっと安心しました〜」

「置いてこうかな……」

 そうこうするうち、ラインハルトたちは兵士たちの通用門に辿り着いた。辺りに人影がないことを確かめたラインハルトは、翼の彫刻が施された金の鍵を錠前に挿し込んだ。かちり、と小さな音がし、錠前が開く。灰色の石造りのドアをアドルフが押すと、それはゆっくりと開いた。

「人が来ないうちに入ろう。この通路を直進して突き当りを右に曲がる。そして大部屋二つを突っ切ったら、非常用の外階段に出るドアが右手にある。中央階段を上るより人目に付きにくい」

 ラインハルトの言葉に従い、一同は施設内に入った。青いタイル張りの床、白い壁が静かに続いている。ぽこはぐるりを見渡し、

「そうおどろおどろしい感じもしないですね。思ったより小綺麗な……ん?なんか匂いがしますよ。お薬とお酒と……植物?」

「ぽこの言う通りだ」

 ラインハルトの白い指が、大部屋の出入り口を示した。通気性を良くするためだろう。扉が開け放たれているため、廊下から中の様子が一瞥出来る。ここにも人気はなく、部屋のそこかしこに張り巡らされた水路の水音が聞こえるようだ。水路から立ち上る水の気配、青々と茂る植物、紫の花の香気が相まって、そう不快な部屋ではない。……水?いや、数多くある水路を流れる液体はそれだけではない。ラインハルトは水路の一つを指差し、

「水路には薬酒(やくしゅ)も流れてる。マンドラゴラを栽培しているんだ。それにしてもすごい……。こんな沢山のマンドラゴラが栽培されているなんて」

「マンドラゴラって毒薬でしょ。なんか怖いです……」

 ぽこがアドルフの腕に顔を埋める素振りを見せた。ラインハルトはぽこの頬をあやすように叩き、

「そう。強力な毒だけれど、調合の仕様によっては万病の薬にもなるんだ。魔法薬(まほうやく)を作る貴重な素材でもあるから、マンドラゴラを用いた魔力回復薬(まりょくかいふくやく)は極上品なんだ。太古の昔、ヒメル人たちはマンドラゴラを用いて不老不死の薬を作り出したという伝承もあるくらいだ」

 ぽこが丸ぽちゃの顔を上げた。黒い目がいきいきと輝いている。

「ちょっともらって行きません?黙っとけば分からないでしょ。そこの大きいの三株くらい……」

「泥棒に入ったんじゃないんだぞ!それにマンドラゴラを扱うには、破毒(はどく)の護符(タリスマン)が必要不可欠なんだっ。下手に扱うと、毒で大火傷を負うんだぞっ!」

 ラインハルトの怒りに、欲望に取り憑かれたぽこはだが一向に頓着せず、

「だって不老不死でしょ!すごくない?ねえすごくない?!」

「不老不死は喜ばしいものじゃない。―――死を拒まれることは呪いだ」

 アドルフの声は硬い。引き締まった横顔が、いつになく青ざめて見える。ぽこの訝しげな眼差しが、アドルフを見上げた。

「アドルフさん……?」

「しっ!ぽこ!」

 ラインハルトは鋭く言い、ぽこの口元を押さえた。

「もがー!」

「ヨーゼフの魔力を感じる……!三階の東の塔にいる……」

「ということは、ライニ……」

 アドルフの素早い一瞥にラインハルトは頷き、

「ヨーゼフが魔力の封印を解き放ったんだ……!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る