第2話 始まりの海・後編
ラインハルトが眠っていたのは二十分かそこいらであったろう。二人を乗せたヴィントはフェアンヴェー丘陵を超え、エーデの森に差し掛かっていた。陽射しがオークやブナの枝葉越しに、淡い緑色の光を投げかける。時折全速力で駈けてゆく野ウサギに、ラインハルトは初めのうちこそ驚いたもののじきに慣れ、森が思っていたほど剣呑なところではないと考えるようになった。―――凶暴な害獣はいない。魔物の気配もしない……。
「アドルフ、ちょっと休憩しよう。ヴィントのことも休ませたいし、私たちもビスケットと干し葡萄を食べよう」
「俺もそう思っていた。日はまだ高いからな。腹ごしらえには良い頃合いだ。この分だと、暗くなる前にグリツィーニエに入れるだろう」
アドルフは言い、道の端(は)にヴィントを止めた。ヴィントに水を飲ませ、塩を舐めさせ……。ラインハルトはというと、旅荷からビスケットと干し葡萄、水の入った革袋を取り出している。
うららかな陽光の下で、二人は簡素な食事を済ませた。
「さっき寝ちゃったからかな。喉が渇いていて、お水が美味しかった。戸外で食べるビスケットも美味しいけど」
「これから暑くなる。グリツィーニエの宿で、水を多目にもらって置いた方が良いな」
そんな話をしながら、ラインハルトが食事の片付けをし、アドルフがヴィントの様子を見てやっていると―――。
やにわに木立ちがざわめき、黒く小さな影が飛び出した。小さな影は勢い良くラインハルトの背にぶつかり、勢い良く草むらに落下した。
「いっ……!」
ラインハルトがその場に膝を付いた。両の手のひらが黒いマント越し、背を押さえている。アドルフはラインハルトに駆け寄り、
「大丈夫か、ライニ?!何か小さなものが飛び出してきたが……」
「いっつ……!こいつだ、アドルフ。このまん丸いのが私の背中に体当たりしてきたんだっ!……い、痛い…」
痛みと怒りで顔を真っ赤にしたラインハルトが指差すのは、一匹のビーグル犬のぬいぐるみである。白地に赤茶、黒の模様のあるぽっちゃりした小犬で、大きめの鼻が鎮座まします丸ぽちゃの顔は、愛嬌たっぷりでなかなかよろしい。首に巻いた赤いスカーフがトレードマークであり、ご自慢のようだ。草むらに腰を下ろしたぬいぐるみは、けろりとした様子で、
「あ、勢いあまってぶつかっちゃいました?まあボクに悪気はなかったんですし、ボクに背を向けていられたそちらも不注意と言えば言えなくもないわけですから。おあいこってことで。じゃボクは急ぐんでこれで」
「待てこいつっ!」
ラインハルトは腕を伸ばし、ビーグル犬の襟首をむんずと掴まえた。宙吊りにされた小犬は手足をばたつかせ、
「なんですー。ボクはおちびみたいに暇な身じゃないんですよおー」
「誰がおちびだっ!そもそもいきなり人にぶつかっておいて、ごめんなさいの一言もないなんてっ!失礼な丸々お団子犬だっ」
いよいよ顔を真っ赤にしたラインハルトに、小犬も負けじと、
「しょうがないでしょ!ボクは追われる身なんですからっ。怖い人たちがボクを追っかけてるんです。怖い施設の怖い人たちがっ!」
「怖い人?怖い、……施設?」
ラインハルトが考える顔つきになった。少年魔術師の力が緩んだその隙に、小犬は素早く飛び降り、アドルフの傍らに駆けて行った。小犬にしがみつかれたアドルフは真剣な表情で、
「ライニ、俺が聞いた噂は本当だったようだ。この辺りには最近、帝国がレーベンスブルネンの実験棟を新設したという。実験棟と言っても小規模なものだが、非生命体を生命体に改造する実験のための……」
「それです!ボクが逃げ出してきたとこ。レーベンスブルネン、エーデ実験棟第一号!」
顔中を口にした小犬にラインハルトは、
「じゃあ怖い人っていうのは、施設の魔術師たちか?」
「それもあるんですけど、今回は運悪くやべえのが来てたんです。帝都からの視察とかで」
「やべえの?」
「やべえのです。だからおちびと騎士さん、もうボクに関わらない方が良いです。やべえのに消されちゃ―――」
小犬の言葉はそこで途切れた。木立ちが不穏にざわめく。森の奥から現れたのは、仮面の如き無表情の魔術師と兵士の、騎馬の一団だった。
彼らの先頭にいる者は、黒髪の小柄の魔術師、金髪で長身の騎士である。一団を先導しているのは小柄の魔術師だろうと、アドルフは見当を付けた。何故長身で逞しい体躯の騎士が首領ではないのか、訝しむ必要はなかった。沈着と深謀と意志力、そして冷酷を、魔術師の双眸(そうぼう)は孕んでいたのだ。
魔術師は、黒絹を思わせる毛並みの駿馬に跨っていた。ふっさりと長い睫毛に飾られた闇色(やみいろ)の目、焼けつくような赤い唇の、秀麗な美貌の持ち主である。口元に皮肉めいた鷹揚な笑みを浮かべているものの、己の目的を妨げる相手には断じて容赦をすまいといった美しい深淵の物凄さをその面差しに宿している。赤と黒の衣装―――即ち、赤いクラヴァット、赤い蔓薔薇の刺繍がされた黒いウエストコート、ダークレッドのコート、黒いズボン、ブーツを着けたその青年は、ラインハルトを冷ややかに見据えていた。冷ややかに、―――鋭く。真紅のマントが風に靡き、ルビーの耳飾りが不穏に揺れている。
「………」
知らず、ラインハルトは背筋を緊張させていた。顔色が変わったことが自分でも分かる。―――この魔術師……相当の使い手だ。ヒメルの血脈でも、かなり上位の……!
首領の傍らにいる金髪の騎士は、青鹿毛の馬を操っていた。白銀の胸甲、籠手、細身の黒いズボンと長靴(ちょうか)、ソードベルトの剣という出で立ち、鍛え上げられた長身の体躯、切れ長の青い左目の眼光―――氷柱(ひょうちゅう)さながらの眼光から、手練れの武人と察せられる。左目、と言った。右目は黒い革製の眼帯で覆われていたからである。ために見事な鷲鼻とふっくらした唇が特徴の端正な面長の顔は、一種の凄味を帯びていた。年は魔術師とさほど変わらない―――二十半ばになるやならずやといったところか。青いマントを靡かせるこの青年は、黒髪の魔術師を見やり、
「ヨーゼフ、貴方の言った通りだ。まだ遠くには行っていなかった。実験体R-Ob1213888と思しきものを発見した」
「ビーグル犬を模した玩具、赤いスカーフ、高さ四十センチ、左耳の付け根の縫合の歪み、……実験の結果二足歩行をし、人語を話す……書類にあった通りです。実験体 R-Ob1213888に相違ありません」
ヨーゼフと呼ばれた魔術師は淡々と言い、ほっそりした顎でラインハルトを示した。
「ついでに興味深いものも発見したようですね。帝都に連れ帰り、新たな実験体にしたいほどです」
「丸々お団子犬、やべえのってこいつらか?感じの悪い奴らだっ」
怒りは恐怖を束の間だが霧散させる。ヨーゼフの皮肉めいた冷淡さに憤るラインハルトに、小犬――いつの間にやらアドルフの脛から手を放していた――は鹿爪らしく、
「こいつらなんて失礼でしょ、おちび。こちらの金髪の紳士は、アルトアイゼン帝国将軍オイゲン・ゲオルク・ヴァイスファルケ。黒髪の紳士が帝国参謀にして魔術師のヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲン」
「態度をころころ変えるなっ!丸々お団子ぽんぽこ犬(いぬ)っ」
ラインハルトは声を荒げたが、アドルフはうっすらと笑い、
「確かにやべえな。緋炎(ひえん)のヨーゼフ、アルトアイゼンの隻眼(せきがん)の鷹(たか)の揃い踏みときている」
青い目が帝国将軍オイゲンを見据えた。一層凄味の増した左目で、オイゲンはアドルフを見つめ返した。魔術師ヨーゼフは、丁重ではあるが冷ややかな物腰で、
「その口ぶりですとおおよその状況は把握していられるようですね、小さな魔術師さん、護衛騎士さん。既にお察しのことと思いますが、それはわたしたちレーベンスブルネンの実験体なのです。こちらにお渡しいただけますね?」
「渡したらどうする気なんだ?丸々ぽんぽこ犬は、消されちゃうって言ってたぞ」
ラインハルトはヨーゼフを睨み据えた。だが魔術師の秀麗な面差しは、冷ややかに物憂げな表情を崩さない。
「誠に遺憾ですが、その通りなのですよ。廃棄処分です」
闇色の目に一瞥され、小犬の身が明らかに強張った。ヨーゼフは物憂げな吐息をつき、
「その実験体は、成功例でもあり失敗作でもあるんです。非生命体にヒメルの血脈の魔力を注入することで生命体へと変化させ、運動能力の賦与、言語と魔術の行使を可能ならしめた。その点においては成功例なのですが―――」
「ヨーゼフ!貴方は話し過ぎる。このような蛮族と、卑小なものたちに」
オイゲンが声を荒げた。ヨーゼフは相変わらず淡々とした様子で、
「良いんですよ、オイゲン。こうなった以上、一仕事(ひとしごと)しなきゃならないんですから」
「………」
一仕事、の言葉に黙したオイゲンをそのままにし、ラインハルトを見やった。
「失敬、小さな魔術師さん。しかしその実験体は自我が強過ぎるんです。わたしたちが欲しているのは、我々の意図通りに魔術を駆使する、いわば従順な兵器です。そこに自我は必要ありません。ですからその実験体は失敗作なのです。お分かりいただけましたか?」
ラインハルトは黙している。黙したまま、ヨーゼフを睨み据えている。闇色の双眸を、残忍な嗤いがちらとよぎった。
「でしたらその実験体をお渡しください。実験棟に持ち帰り、失敗の要因を解析しなくては。然る後に廃棄処分です」
「いやだ!渡さないっ」
ラインハルトの叫びが、緑の香気と陽射しを引き裂いた。ヨーゼフは驚愕の表情を浮かべてみせたが、闇色の目の奥には嘲りと狡猾、冷酷が確かにある。
「どうしてです?わたしたちレーベンスブルネンを敵に回す価値が、その実験体にあるとでも?」
「……必要ないとか、失敗作とか、そんなひどい、痛いことを平気で言って。それも、自分たちの意図通りの兵器じゃないっていう、勝手な理由で。挙げ句に丸々ぽんぽこ犬を廃棄処分するなんて言う―――そんな相手に渡せるもんかっ」
「……まあ、貴様ならそう言うだろうと思っていたがな」
アドルフは大儀そうに言い、だがその逞しい左腕は小犬を庇ってやっている。オイゲンの白い眉間に、傷のような皺が寄った。切れ長の左目が、アドルフを鋭く見やる。
怒りに燃えた空色の目で、ラインハルトはなおもヨーゼフを見据え、
「それに丸々ぽんぽこは、もう自分に関わらない方が良いって言った。私たちを助けようとしたっ!だから私も、ぽんぽこを助けるっ」
「へあー、なんでも言ってみるもんですなあ」
居合わせた者の中で唯一呑気な心持ちでいるらしい小犬を、アドルフは呆れたように見やった。
「貴様…ちょっと黙ってろ。これから一仕事しなくちゃならんのだから」
「…アドルフ…」
レーベンスブルネン、ひいては帝国の軍勢相手の戦いにアドルフを引きずり込んだことを思い、ラインハルトの声が気弱になった。だがアドルフは、
「ライニ、貴様ならそう言うと思っていた。そして俺も、貴様と同じことを思っていた!」
屈託なく言い、剣――アドルフ愛用の剣ヴォルフスファングだ――の柄に右手をかけた。
「交渉、決裂ですねえ」
ヨーゼフの口ぶりは物憂げだが、闇色の双眸には冷酷な嗤いが凝っている。
「ヨーゼフ、貴方の言う通りだ。一仕事しなくてはならないようだ」
オイゲンは冷ややかに言い、氷漬けの左目がアドルフを見据えた。蜘蛛を思わせる長い指が、剣の柄に触れる。
「だが直ぐに終わるだろう。ヨーゼフ、貴方は配下の魔術師たちを指揮し、あの少年を仕留めて欲しい。蛮族の武人は私の部下たちが仕留める」
「ライニ、魔術で兵士たちを一掃しろ!俺は魔術師どもを片付ける!」
氷のようなオイゲンの声音を、アドルフの力強い声が打ち据えた。ラインハルトは大きな頷きを返し、
「分かったぞ!その前にアドルフと私とぽんぽこ犬に、防御魔法(ぼうぎょまほう)と身体能力強化魔法(しんたいのうりょくきょうかまほう)をかけるっ!ぽんぽこは、私とアドルフに治癒魔法(ちゆまほう)をかけるんだ!」
「面白い仕事になってきたようですねえ。……まさかあのヒメルの……」
黒髪の魔術師は呟き、焼けつくような唇が美しい深淵の笑みを描いた。
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