マラキアの月は海を夢見た。

うさぎは誇り高き戦闘民族

第1話 始まりの海・前編

 ……ユストゥス、覚えているか?私たちがこの星に降り立った時のことを。海の青さと陽光の煌めきがあまりに美しく、生きものたちの息吹があまりに尊かった。空宿(そらやど)る海、青嵐(せいらん)の海、翠玉(すいぎょく)の海が、息吹が。

だから貴様は、この星をマラキアと名付けようと言った。我々ヒメルの言葉で『穏やかなる海』を意味するマラキアと。


「そのマラキアを貴様は―――」


 昔むかし、大昔のことです。

 この広く果てしない宇宙の片隅に、ヒメルという星がありました。ヒメルの人々は魔法を原動力とする高度な文明社会を形成していたのですが、星の核の凝固による磁場の消滅のため、生きものたちの生存が困難となったのです。生き残ったヒメル人たちはやむなく故郷の星を捨て、彼らが青き星と呼んでいた惑星に移住しました。この惑星こそが、お話の舞台となるマラキア、主人公のおちびさんの魔術師ラインハルトの住むマラキアなのです。

 ヒメル人たちはマラキアに文明と魔法をもたらすと共に、この星に住まう人々と交わり、子孫をもうけました。それ故マラキア人は、ヒメル人と古代マラキア人両方の血を引いているのです。中でも傑出した魔力を有する者は――この星に魔法をもたらした人々への敬意を込めて――ヒメルの血脈と呼ばれます。このヒメルの血脈に目を付けたのが、マラキアの大半を支配する軍事帝国アルトアイゼンです。嘗てのヒメルのような魔法大国の再現を目論む帝国は、ヒメルの血脈を増やそうとしました。ヒメルの血脈の者同士の婚姻を奨励し、産まれた子どもがヒメルの血脈であった場合は高度な魔法教育を授け、長じて後は政府の要職に就け―――帝国は彼らを厚遇し、重用したのです。しかしヒメルの血脈でない者は冷遇され、帝都の貧民窟で暮らすか辺境に住むかを余儀なくされてゆきました。それでも満足することのなかった時の皇帝アルベルト・ベルンハルトは、生命の井戸(レーベンスブルネン)という研究施設を造らせました。帝都の郊外に建てられた巨大な灰色のこの施設には、様々な秘密の匂いが漂っていました。そして人々もまた、種々の噂を声をひそめて語り合ったのです。

 ―――レーベンスブルネンでは、人工的にヒメルの血脈を創り出すべく、恐ろしい実験が行われている……。実験体は鼠(ラット)と呼ばれる……。

 ―――ヒメルの血脈でない者にヒメルの血脈の魔力を注入する実験が行われ、失敗したラットは処分されるそうだ……。

 ―――非生命体を生命体に改造する実験も行われている……。そこでもやはり、失敗に終わったラットは処分される……。

 ―――いや、処分されるばかりではない。帝国将軍オイゲン・ゲオルク・ヴァイスファルケは嘗て、ラットであったと聞く……。

 ―――しっ、滅多なことを言うものではない。ヴァイスファルケ将軍の冷酷には、皇帝陛下ですら怖れを抱いているというぞ。ばかりではない。将軍の唯一の友人で帝国最強をうたわれる魔術師、ヨーゼフ・ヘルムート・フォン・ロートデーゲンにも、陛下は。

 ―――滅多なことを言うものではない。

 ―――然り。もう言うまい。

 ………………。

 この暗く不穏な帝国の遥か彼方、空宿る海のほとりのシュテルンツェルト村に、おちびさんの魔術師ラインハルトは暮らしていました。

 赤ん坊の頃にお母さんを亡くしたラインハルトは、お母さんの顔も、そのずっと前に亡くなったという魔術師のお父さんの顔も知りません。ですが育ての親で魔術師のメルヒオール、騎士のアドルフがいつもそばにいてくれ、二人を慕う村人たちもラインハルトに何くれとなく親切にしてくれます。ですから寂しさは無にならないまでも、随分と和らいだのでした。金色の陽射しのもとで、キラキラと輝く白い砂浜。泡を繊細なレースさながらに飾り付け、スカイブルーの綴れ織りを拡げる空宿る海。潮風と共にゆったりと飛び交う鴎。淡い黄色や白の石造りの家々から漂う、お魚のスープの匂い。お店の軒先に並べられた、瑞々しい色とりどりの果物や野菜、陽光に煌めく新鮮なお魚。飾らない言葉で話し、屈託のない笑顔を見せる村人たち―――この美しく優しいシュテルンツェルトが、ラインハルトは大好きでした。

 けれどもラインハルトは、マラキアを旅して見聞を広め、お父さんがそうであったような偉大な魔術師になることを、小さな頃からずっとずっと夢見ていたのです。


 ベランダからは白と薄紫の藤の花房が柔らかに溢れ、庭には紫や赤、ピンクの可憐なプリムラ、優しい黄色のミモザが咲き、アーモンドの枝がピンクの花々を誇る、白い石造りの家。その前庭に佇む三人を、磨き抜かれた鏡のような青空が興味深げに見下ろしている。口火を切ったのは、黒髪、立ち衿の白いローブ姿の魔術師だ。秀でた額を飾るサークレットの水晶が、春の陽射しに煌めいている。吸い込まれるようなサファイアブルーの目が独特の魅力を有する、浅黒く凜乎とした面差しの男である。

「君たちならば間違いはないと思うが、気を付けて行き給(たま)え。ラインハルト、マラキアのあれこれを自分の目で確かめてくると良い」

「うん!気を付けて行ってくるぞ、メルヒオール。それでメルヒオールみたいな偉大な魔術師になるんだ!アドルフも一緒だから、きっと大丈夫なんだっ!」

 白いローブの魔術師―――メルヒオールの言葉に、ラインハルトと呼ばれた少年は元気いっぱい頷いた。明るい金髪とぱっちりした空色の目の美しい、聡明そうな整った顔立ちをしている。ふっくらした頬の辺りに幼さが残っていることから察するに、十二歳かそこいらだろう。未だ華奢なその体躯に、白シャツとレモンイエローのウエストコート、カーキ色の膝丈ズボン、爪先の尖ったブーツを一着に及んでいる。襟元を飾る緑のリボン、表が黒で裏地が青のマントがご自慢のラインハルトは、空色のリボンが付いた黒い三角帽子――こちらもご自慢の品である――の縁をしっかと握っている。色白のその頬が、旅立ちへの期待と興奮で美しく紅潮している。

少年魔術師の明るい金髪が軽く叩かれた。ラインハルトが嬉しそうに相手を見上げる。茶褐色の髪、射るような青い目、精悍な面差しの長身の青年を。鍛え上げられた体躯、黒い胸甲(きょうこう)、スパイク付きの黒い籠手(ガントレット)、黒い衣服。表が黒で裏が緋色のマント、ソードベルトに帯びた剣といった出で立ちから、一目で騎士と知れる。年の頃は二十半ばを幾つか過ぎているだろう。傍らには愛馬と思しき栗毛の馬が、動なり止(し)なりいつでも承り候といった様子で控えている。青年は些か照れくさそうにメルヒオールを見つめ、

「ライニにあらかた言いたいことを言われたが……。大丈夫だ、メルヒオール。ライニには俺がついている。貴様こそ俺たちの留守中、達者にしていろよ」

 メルヒオールが目を細めた。凜乎とした面差しに、柔和の色合いが滲む。

「ありがとう、アドルフ。君たちがここに帰って来る日を楽しみに待っている。……と」

 メルヒオールは小さく笑い、背後を見やった。村人たちが数人、門の前に佇んでいる。日に焼けた顔がちらちらと、ラインハルトたちの様子を見ているようだ。

「私と同じ思いの人々がやって来てくれている。君たちを見送るために。ライニ、アドルフ」

 メルヒオールの言葉が合図であったかのように、村人たちが前庭に入って来た。陽射しと潮風の跡を顔に刻み、飾らないけれども温かな言葉を話す人々が、ラインハルトは大好きだった。

「見送りに来てくれたのか。ありがとう、ヘル・アマン、ヘル・クランツ。ヘル・シュミートも、フラウ・シュミートも!」

「おいね。気い付けて行かっしゃいや。ちっこい魔術師さん」

「アドルフさんも気い付けて行かれ。ちっこい魔術師さんのこと、よろしゅう頼んます」

「ライニのことなら心配は要らん。俺が請け負う。メルヒオールをよろしく頼む、ヘル・クランツ」

「分かったちゃあ。メルヒオール様のこた、儂らが見とるけに」

「早う帰って来(こ)られま。ちっこい魔術師さんなおらんよなると、なんや寂しゅうて」

「こら、嬶(かか)。だらなこと言うな。ちっこい魔術師さんな、立派な魔術師様になる旅に行くがやぞ。立派な魔術師様になったらちゃんと帰って来(こ)られるけに」

 居合わせた人々が笑った。だがその笑いには、幾ばくかの涙も混じっていた。ラインハルトは泣かなかった。しかしアドルフが背を抱いていてくれなければ、声をあげ泣いていたに相違なかった。笑いが収まり、沈黙の気配が忍び入りかけた。その頃合いを見計らい、ラインハルトは、

「じゃあ、皆、元気でっ!」

 やや唐突だが元気いっぱいに言い、アドルフを見上げた。

「アドルフ、そろそろ行こう!ヴィントが待ちくたびれちゃったらいけないから」

「そうだな」

 ラインハルトの目縁がうっすらと濡れていることに、アドルフは気付いていた。優しい村の人々とメルヒオールに涙を見せたくないという、少年魔術師の矜持にも。ラインハルトを栗毛の愛馬ヴィントに乗せてやったアドルフは、その長身を軽々と操り、自らも馬上の人となった。黒い三角帽子を被ったラインハルトは小さく、だが力強く頷き、

「じゃあ皆、行って来るぞ!私は元気でいるから、皆も元気でいるんだっ」

 村人たちに手を振った。その目縁に新たな涙は見えない。ヴィントを打たせてゆくアドルフの口元には、微かではあるが柔和な笑みが浮かんでいた。


「……潮風が匂わなくなった。こんな遠くに来るのは初めてかも知れない。空宿る海の青は、まだ見えるけれど」

 村から街道を行き、ヴィアベル峠の中腹に差し掛かる辺りで、ラインハルトが口を開いた。空色の眼差しは、彼方の海に煌めく金色の陽射しを追っている。

「緊張しているのか、ライニ」

「……少し。でもそれ以上にわくわくするんだっ」

 ぱっちりした空色の目がアドルフを見上げた。アドルフは――無愛想ではなく――口角を上げ、

「そうか」

「このまま街道を進んで、フェアンヴェーの丘陵を超えるんだ。きっと今頃は、ハルジオンやシロツメクサ、キュウリグサやミヤコグサがいっぱい咲いてる。それからグリツィーニエ村で宿を取るんだ」

 アドルフの微笑が嬉しかったのだろう。ラインハルトはいよいよ張り切った様子である。だがやおら真顔になると、

「…でも、エーデの森は暗くなる前に行き過ぎたい。人喰い獣や追い剥ぎ、悪くすると魔物がいるかも知れないから」

「魔物はともかく、早く行き過ぎた方が良いというのは俺も同感だ。気味の良くない話を耳に挟んだからな」

 アドルフは持ち前の無造作な口ぶりで応じたが、青い目はもう笑っていない。ラインハルトも金色の眉を顰め、

「気味の良くない話って?」

「帝国があの辺りに手を伸ばした」

 ラインハルトは覚えず黙していた。

 魔力の素質を持たぬが故に帝国を逐われてきた人々の集落であってみれば、シュテルンツェルトにヒメルの血脈はいない。それ故村の魔術師は、長い放浪の果てにシュテルンツェルトに住処を見出したというメルヒオール。旅の途上にあった母が、メルヒオールとアドルフにその身を託した――母は程なくして病没したらしい――というラインハルト。この二人きりであり、二人は村の土着の民ではない。ラインハルトの育ての親にして魔術の師メルヒオール――その魔力は凡百のヒメルの血脈を遥かに凌ぐと言う――も、帝国と関わりを持つことをしない。どころか、己を慕うシュテルンツェルトの人々やアドルフを「蛮族」として蔑む帝国を嫌っていることには、ラインハルトも漠然ながら気付いていた。

 それ故マラキア統一の名のもとに平和の地を侵略する帝国、何より己の愛する人々を軽んじる帝国に、ラインハルトは良い感情を抱いてはいない。皇帝アルベルト・ベルンハルトの並々ならぬ野心、レーベンスブルネンにまつろう黒い噂は、ラインハルトも耳にしている。

 しばらくの間、二人は黙していた。アドルフはヴィントの手綱を操り、ラインハルトは街道の彼方をじっと見つめていた。ヴィアベルの峠を越えたぞと、アドルフが言いかけたその時、

「アドルフ」

「どうした、ライニ。喉が渇いたのか?」

ラインハルトは首を振り、背後で手綱を取るアドルフを見上げた。

「私の父上と母上って、どんな人だったんだ?」

「……メルヒオールが何度も話してくれただろう。それに俺は口下手だ。メルヒオールのようには上手く話せん」

「それでも良いんだっ。アドルフの言葉で、アドルフから聞きたいんだっ。それに私はアドルフの話し方が下手だなんて、思ったことないぞ」

 ひたむきな空色の眼差しに見つめられ、なんだかんだでラインハルトに甘く、根が生真面目なこの騎士は、

「……貴様の父親については、よく知らん。俺が知っているのは、貴様の父がメルヒオールの親友で偉大な魔術師だったこと。聡明さと決断力を兼ね備え、人々を率い、慕われていたことくらいだ」

「……偉大な魔術師……」

 ラインハルトは低く呟いた。空色の目が、束の間蒼天の彼方を見やる。

「じゃあ私の母上のことは?アドルフ」

「貴様の母親のことは、少しだが見知っている。淡い金色の滝のような髪、空色の目、白い肌の、美しいひとだった。目元の辺りが貴様とよく似ていた。貴様の父親ほどではないが、魔術の素質にも恵まれていた。貴様と貴様の父、マラキアの自然と人々を愛する、心優しい女性だった。優しく、気高い……」

 アドルフの言葉が途切れた。美しい、だが二度と目にすることの能(あた)わぬ幻を追う者の哀愁が、精悍な面差しに翳りを落としている。しかし父母の面影を紡ぎ出すことに懸命なラインハルトは、アドルフの屈託に気付かず、

「優しく、気高い……。聡明さと決断力……。偉大な……」

ラインハルトはアドルフの言葉を――それが貴重な宝であるかのように――呟き、

「話してくれてありがとう、アドルフ!やっぱり私はメルヒオールや私の父上みたいな、偉大な魔術師になるんだっ!そして私の母上が愛したマラキアを守るんだっ」

「………」

 武人の屈託がいや増した。脳裏に響く、か細いが必死の声がある。


―――ラインハルトを守ってください、メルヒオール、アドルフ。夫……、いえ、ユストゥスから。邪神(じゃしん)からライニを……。マラキアを、……ライニを……!


「アドルフ?疲れちゃったのか?どこかで休むか?」

 黙したなりのアドルフを訝しく思ったのだろう。ラインハルトの声に、アドルフは我に返り、

「いや、俺は大丈夫だ。そんなことよりライニ、フェアンヴェーの丘は直ぐそこだ。貴様が楽しみにしている、春の花々を見ていたら良いだろう」

「ん、ありがとう。アドルフ。でも陽射しがぽかぽかしているし、空気も気持ち良いから、なんだか眠くなっちゃった……」

「仕方のない奴だ」

 アドルフは苦笑し、

「先は長い。少し寝ていろ。花ならこれから先の道筋に、いくらもあるだろう」

「うん…」

 武人の逞しい胸に身をもたせかけ、ラインハルトは目を閉じた。目裏に春の陽射し、緑野の煌めきを感じながら。

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