終章_07

 プラアテスの部屋に女が訪れてから数日後の舞踏会の夜。踊り疲れた皇帝フラテスは自席にドカリと座り、近臣が捧げ持つ盃を受け取るとグッと飲み干した。

 心地よい疲労感に浸りながら酔眼をダンスホールとなっている広間に向けて、華やかな貴族たちのダンスに見入る。皇帝フラテスの至福の時間であった。


 そんな父親の様子を緊張した面持ちで見つめるプラアテスに不意に声がかかった。


「どうしたプラアテス。 怖い顔をしているが?」


「あ、兄上」


 声を掛けたのは兄ディオドトスであった。顔色が少し悪く、疲れの表情が見える。


「少し…… その、思うところがありまして……」


「思うところ? 何をだ?」


「それは…… ちょっと行ってきます、兄上」


「おい! なんだ、どうした?! プラアテス」


 兄が軽く制するのを、決意の籠った眼でまっすぐ父親のほうを見続けるプラアテスは無視するように歩き始める。

 ダンスが行われている中央の広間を突っ切るように真っすぐ皇帝のほうへと歩いていくプラアテスに気が付いて、多くのものがダンスを止めて彼の動きを驚きの目で追う。いつしか音楽も鳴りやんでいた。


「なんだ、プラアテス」


 至福の時間を邪魔されて不機嫌となったフラテスは、酔った眼に怒りを満たして進み出てきた息子を睨んだ。


「ち、父上。 ど、どうか、こ、これ以上の臣民を裏切るような行いはお止めください」


「なんだとっ!」


 今まで父親に逆らったことのない、大人しい次男の強い言葉での非難にフラテスは顔色を変えて立ちあがった。「ひぃっ……」と小さな悲鳴をあげ、恐怖で一歩後ずさったプラアテスだったが、ここまで来てはもう引き返せなかった。勇気を振り絞って言葉を続ける。


「し、臣民は、い、偉大な先帝陛下のほ、崩御を悲しみ、静かに先帝陛下を偲びたいので――」

「プラアテス!貴様っ!!」


 激高したフラテスは震える指でプラアテスを差し「と、捕らえよ!」と護衛として控えていた衛兵に指示を出した。プラアテスは渡された台本のうち、まだまだ冒頭の途中ということもあって急展開に思わず「え?」っと間抜けな声を出してしまった。


 数人の衛兵がプラアテスに迫るのとは別の方角から、もう一つの影がプラアテスに駆け寄ろうとする。兄のディオドトスであった。


 ディオドトスは嬉しかった。何事にもやる気を見せなかった弟が国のためを思って父親を諫めたと思ったのだ。少々怠惰なところはあるが、決して馬鹿ではないと思っていた弟がやる気を見せたことで、自分と弟が力を合わせていけばこれからの帝国は安泰だと感じた。


 ただ、父を諫めるにしても多くの貴族達の前ではマズい。ここは一旦、父と弟を離して下がらせて後で三人で語り合うべきだと、若く理想主義者でもあるディオドトスは弟と衛兵の間に割って入った。


「お待ちください陛下! プラアテスも一度下がれ!」


 立場上、強い口調で弟を叱責したディオドトスだったが、弟の変化に希望で胸を膨らませていた。その彼の胸に衛兵の剣が深々と突き刺さった。


 傍から見れば、急に飛び出してきた男に向かって衛兵が慌てて剣を抜いたように見えた。しかし刺されたのは皇太子である。刺した衛兵本人も驚き過ぎたためなのか刺した後も大きな反応は無い。別の衛兵がディオドトスと刺した衛兵を引きはがし、刺した衛兵を突き飛ばすと剣を抜いてその首を跳ね飛ばした。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 あっという間の出来事に呆然となっていた広間の貴族たちは一人の婦人の悲鳴を合図にしたように騒然となった。血の海となった広間から婦人達は我先にと逃げ出し、ディオドトスやプラアテスに近しい者達は倒れる兄を支えようとする弟に「ディオドトス様!」「プラアテス様!」とそれぞれの主の名を呼びながら駆け寄る。他の貴族達は遠巻きにしてこの悲劇を見守った。

 そのような混乱の中では、ディオドトスを刺した衛兵の離れた胴と首からは血がほとんど流れ出ていないことなど誰一人として気が付いた者はいなかった。


 呆然となったのは貴族達だけではなかった。フラテスもまた頭が真っ白になった一人だった。言葉もなく倒れるように椅子に腰を下ろす。


 プラアテスは自分に向かって倒れ込んできた兄を支え、重さに耐えきれずに兄を支えたまま膝をつく。その膝上に横になる形となったディオドトスは弟の泣き顔を見上げながら微かに口元を動かす。


「父上と仲良く…… 帝国を……」


 そう言っているように見えたディオドトスの顔にボトボトとプラアテスの涙が落ちる。

 皇帝になれる、そうヴィプサーラに言われたときには紙屑のように軽いと思ってしまった兄の命だが、いざ失われていこうとするこの時になってプラアテスはその大切さを実感したのだった。


 ディオドトスの眼から光が失われ、ダラリと手が下がって体から全ての力が失われると抱えるプラアテスの腕にズシリと重さが伝わる。それが兄の命の重さと知ったとき、プラアテスは叫び声をあげた。


 ディオドトスは人望のある皇太子であった。皇帝が即位後まったく仕事をしない中で代わりに執務を行っていたのは皇太子であった。

 少々理想主義的なところは欠点ではあったが、それも若さゆえと好意的に見られており、賢く、身分の上下に関係なく優しく、蛮族相手の小さな戦での経験しかなかったが軍の指揮もマズくはなかった。多くの臣民は皇帝にではなく、この皇太子に帝国の明るい未来を見ていたのだった。


 それがこの悲劇である。「兄上! 兄上!」と慟哭することしか出来ないプラアテスの背後で、一人の貴族がテーブルの料理の横に置かれていたナイフを手に取って、他の貴族たちの顔を見渡す。ナイフを持った貴族と目のあった者達は一様に頷いて辺りにある武器になりそうなものを手に取った。

 あるものは花瓶を手に、あるものは椅子やテーブルを床に叩きつけて壊した脚を持ち、一斉に皇帝に向かって襲い掛かろうと駆け出した。


 騒動に気が付いて部屋の外にいた衛兵達も中に入って来ていてフラテスの近くを固めていた。そこへ、間に合わせの武器を手にした貴族たちがぶつかっていく。


 始め、数は少なくとも武装している衛兵は多数の貴族を相手に有利に戦っていたのだが、その一角を椅子をそのまま振り回して暴れるマスバデスによって崩される。恐怖したフラテスは近くにいた二人の衛兵を従えて扉のほうへと走り出した。


 左右を守られて走るフラテスは酔いの影響もあって上手く走ることが出来ない。覚束ない足取りで体を傾けてしまったフラテスの体を衛兵の一人が支える。だがその衛兵は持っていた抜身の剣をフラテスの腹部に突き刺した。

 驚いたのはもう一人の衛兵である。驚き慌てて、フラテスを刺した衛兵を突き飛ばすと、不自然なほど簡単に突き飛ばされたその衛兵は地面に転がるとそのままピクリとも動かなくなった。


 フラテスは脂汗にまみれながら腹部を抑えて苦しむ。その背後に追いついて来て椅子を振りかぶったマスバデスが襲い掛かった。


 バキィンッと凄まじい音を立ててフラテスの後頭部を割った椅子はバラバラになって虚空を舞い、頭から血を吹き出させながらうつぶせに倒れたフラテスの横に落ちて転がった。


 マスバデスが手に残っていた折れた椅子の脚をフラテスの死体に向かって放り投げると、未だ兄の遺体を抱えて泣くプラアテスの許までズンズンと歩いていく。プラアテスの襟首を掴んで無理やり立たせると、今度は腕を掴んで引きずり出した。


 マスバデスによって部屋から引きずり出されたプラアテスは、何が起こっているのか思考が追いつかぬまま玉座の間まで連れていかれ、マスバデスに投げつけられるように荒々しく玉座に座らされた。


「皇帝陛下!万歳!」


 戦場で鍛え上げられたマスバデスの力強い声に、後をついて来て玉座の間を埋める群臣の唱和が続いて巻き起こる。


「「皇帝陛下万歳!!」」

「「プラアテス帝の御代に祝福を!!」」

「「大帝国エイラムよ永遠なれ!!」」


 万雷のような祝辞を、玉座に無理やり座らされたプラアテスは呆けたように聞いた。


 ゆっくりと視線を落としたプラアテスの衣服は兄の血で染まり、真っ赤に血塗られた両の手が震えていた。

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