終章_06

 プラアテスは腰を抜かしてベッドに倒れるように尻を落とした。


「何を驚かれているのですか、殿下? この程度のこと、見習いの魔道士が最初に習うこと。珍しいことでもないでしょうに」


 不思議そうにテーブルの燭台を持ち上げ、その蝋燭の灯を見ながら女は小首を傾げて笑う。


「ガーユス! ディナン! く、曲者だ!は、早く――」


 コトリと燭台をテーブルに戻した女はゆっくりとプラアテスのほうへと歩いてくる。プラアテスの倒れているベッドに腰を掛けると蒼白となっているプラアテスを覗き込みながら言う。


「落ち着いてくださいませ、殿下。彼らには少し眠って頂いております。 なかなか通して下さらなかったもので仕方なく。 恥じらう乙女がこのように殿方の部屋をおとなうというのに野暮な方々でございますね」


 ニコリと笑いながら女はベッドとプラアテスの背の間に手を差し入れ、優しくゆっくりとプラアテスの上体を起こす。


「殿下。 殿方は女を迎え入れるならば堂々と。女は殿方のお部屋というだけでドキドキしてしまうのですから。安心させてあげませんと」


「迎え……? お、お前を、よ、呼んだ覚えは……」


 焦り慌てるプラアテスのまっとう過ぎる返答を聞き、女は少々意地悪気に「ふふっ」と笑う。


「殿下に、とても良いお話を持って参りましたわ」


 ふわりとプラアテスの鼻に女の甘い香りが流れる。蠱惑的な香りと危機的な状況とが相まって彼の体は興奮の極みにあった。プラアテスの心臓がうるさく鼓動する。


 女はプラアテスに体を寄せ、腰に腕をまわして彼の太腿を優しく撫でながら言う。


「ねぇ、プラアテス。 皇帝にならない?」


 耳元をくすぐる甘い声にプラアテスの鼓動が更に早くなる。


「な、なにを……?」


「あなたのお父様、随分とマズいことをしたわね。 わたしもね、あそこまでアイツが馬鹿だとは思わなかったの。 アルダシルとオロデスを殺しちゃって…… これはもうどうしようもないわ。失格よ」


「し、失格? ち、父上が……? 皇帝失格と……?」


「合格に見える?」


 と、女は嘲るように笑って言う。プラアテスは怯えながらも女に問い返す。


「ち、父上が皇帝に向いてないとしても、あ、兄上が……」


「お兄様、お優しくて頭も良くて、とても優秀ね。 でも、それだけでこの帝国の統治者が勤まるわけじゃないわ」


「……それで私? 私は兄上には遠く及ばな――」


「あなたにも良いところがあるのよ。 わたしはそれを買ってるの。本当よ。 足りないところはわたしが支えてあげる。大丈夫、あなたには適正があるのよ。自信をもって、ね」


 産まれてこのかた、優秀な兄と比べられて育ってきたプラアテスは始めて兄に勝るものがあると褒められて舞い上がってしまった。まだ醒め切っていない酔いの影響もあったが、自分が玉座に座る姿を夢想して悦に入ってしまった。


 ゴクリとプラアテスは喉を鳴らす。そして隣に座る蠱惑的な女の姿を見る。女は黒いローブの首元を少し広げ、胸元から一枚の羊皮紙を取り出してプラアテスの膝上に「台本よ」と言って置いた。


 女が首元のローブを広げたとき、プラアテスは興味津々で横目ながら覗き込んだ。金の首飾りが薄っすらと差す灯の光に輝いていた。決して豊満な胸ではなかったが、それがかえって女の一連の動きにあざとさを感じさせず、自然な色気としてプラアテスを魅了した。


「しっかり読んでおいてね。その通りにやれば、あなたは皇帝陛下よ」


「兄上は? 兄上はどうなる?」


 フッと笑った女は事も無げに「死んでもらうわ」と言った。それを聞いてもプラアテスの心は動かなかった。

 仲が悪いどころか良好な兄弟関係を築き、兄に可愛がってもらっているプラアテスではあったが、皇帝という地位と兄の命を天秤にかければ兄の命など紙屑のように軽いものと感じていたのだった。「そうか」と一言だけ答えて夢を膨らませるプラアテスは笑った。


「ミフラン家のマスバデスはあなたの味方よ。 あとは、お兄様の側近達もきっとあなたに同情して協力してくれるでしょう。 大丈夫よ、安心して」


 ニコリと微笑んで女はプラアテスを優しく励ます。


「それと、これは今だけのチャンス。国民が先帝陛下の死を悲しみ、その想いを無視するかのような連日連夜の宴に眉を潜ませている今だけ。 時が経ち、先帝陛下が残した官僚達が国政をまわし始めてからじゃ庶民はひとまず納得のいく政治を味わうことになる。そうなってから皇帝に非難の声をあげたところで、ただの親子喧嘩で終わるのよ」


 台本まで用意され、下準備もしてある様子。そして”今だけ”という言葉がプラアテスの背を決定的に押した。


「わ、分かった。 私は、いや…… 余は皇帝になろう!」


 プラアテスは既に皇帝になった気分で答えた。そしてそれを見て女はニコリと妖しく笑い、「よく、ご決断くださいました。陛下」と彼女も既に成ったものとして彼の耳元で甘く囁いた。


「な、なぁ…… ヴィプサーラ?」


「はい、何でございましょうか陛下」


「よ、余の、あ、愛人にならぬか?」


 調子に乗ったプラアテスの言葉に女は目を丸くして驚き、「愛人、でございますか?」とやや声の調子を外して問い返す。


「う、うむ。 先ほど、支えてくれると言ったではないか。 そ、その、よ、夜のほうも」


 と、最近女の体を覚えたばかりのプラアテスは、慣れていない若者らしくドギマギとしながらチラチラと横に座る女を見る。


 プラアテスは、先帝ティグラネスが事あるごとにヴィプサーラの部屋を訪ねていたのを知っていた。プラアテスだけではない、群臣は皆知っていたことで、”皇帝陛下の愛人詣で”などと名君の唯一の欠点と苦笑いを誘っていた。


 しかしプラアテスから見ればそれは憧れの一つであった。公的には群臣国民から敬慕を捧げられ、私的には若く美しい女を常に近くに侍らす。実際に皇帝が部屋の中でヴィプサーラとどう過ごしていたのかは知る由もないが、それが余計にプラアテスの想像を掻き立てる。

 そして何より、あらゆる人々から尊敬された偉大な人物が愛した女を自分のものとする快感をプラアテスは味わってみたかった。


 女はクスっと笑って、プラアテスの太腿の上にあった手を内側に持っていき内腿を優しく撫でながら徐々にその手を中央に這わせ、先のほうを指先でくすぐり弄びながら言う。


「おませさんね。 わたし、八十に近いお婆ちゃんなんだけど?」


「か、かまわない! お前のような女、二度と手に入れられるとは思わない。美しい…先帝陛下が愛されたのも無理はない…… よいだろう? なぁ?!」


 しな垂れかかっていた女の体を、既に皇帝になった気分のプラアテスは力任せに押し倒そうとする。しかし女はスルリとプラアテスの力を躱してベッドから立ち上がる。

 見上げるプラアテスに向かって見下ろしながら妖しく笑った女は彼に顔を近づけ、その額に軽く口づけして言った。


「今はこれだけ…… 残りはご褒美」


「ほ、本当か?! 約束だぞ」


「えぇ、勿論。 あなたに、その勇気があるのならね」


 プラアテスはキョトンとしながら「勇気……?」と女の言葉を反芻する。女は「それでは陛下、失礼しますわ」とプラアテスに背を見せて扉へ向かって歩き始めた。そしてすぐに思い出したように振り返って言う。


「あぁ、そうそう。 あなたのお友達ミトリダテスは無事よ、安心して。 あなたが帝位に就いたらお友達のお家を再興してあげてね」


 ミトリダテスのことなど頭の片隅にも無かったプラアテスは不意を突かれて「あ、あぁ、勿論だ」と返事をし、振り返って再び部屋を出ていこうとする女を「ま、待て!ヴィプサーラ」と呼び止める。


「ガーユスとディナンを起こしていってくれ。早速だが、いろいろと相談しなくては」


 振り返った女は「そうですわね、陛下」と微笑んで再び扉へ顔を向けて外の二人に向かって言った。


「ガーユス、ディナン。陛下がお呼びよ。 起きなさい」


 ガチャガチャと鎧の擦れる音が聞こえ、どこかぎこちない動きで二人が部屋に入ってくる。蝋燭の灯りに照らされた二人の顔を見たプラアテスは息をのみ、恐怖で顔色を変えて仰け反って呟く。


「ゾ、ゾンビ……」


 プラアテスは実際に自分の目で見るのは初めてであったが、小さな呻き声をあげながら蒼白の顔に虚ろな目をしたかつての部下の変わり果てた姿は、伝え聞くアンデットの姿そのものであった。


「ふふっ、護衛としては最適よ。文字通り肉の壁になってくれるわ。 ただ、ちょっと時間が経つとにおってきちゃうけど」


 揶揄からかうような表情をする女を見、プラアテスはパクパクと口を動かし声にならない声を漏らしながら盛大に股を濡らした。


「どうかなさいました? 要らないようでしたら引き取りますけれど?」


 プラアテスは女に向かって、どうぞと手を出すのが精一杯であった。


「そう、可哀そうな子たち。 でもちょっとは理解できるわ。わたしだって臭いのは嫌だもの」


 女はそう言いながら二体のゾンビの顔を撫でる。


「後でちゃんと綺麗なスケルトンにしてあげるからね」


 優しい声で二体に語りかけた女は、先ほどまでプラアテスを弄んでいた指先を見つめると「わたしもまだまだね……」と自嘲気味に笑い、扉に向かって歩き始める。


「それでは陛下、おやすみなさい」


 二体のゾンビとともに、女は廊下の暗闇に消えていった。

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