第2話 すべてを奪われた俺

 半年前、俺は大観衆の中、関東ドームのマウンドに立っていた。

 九回裏、ツーアウト一塁。バッターボックスに立つのは対戦相手である大阪フェニックスの天才強打者・小林こばやしたける。尊は高校時代から俺の最大のライバルだ。俺と尊の勝負は、プロ野球ファンであれば注目の大一番。チームとか関係なく真剣勝負を繰り広げ、そしてお互いを称え合う間柄であることをファンも熟知している。

 正直、今夜は調子があまり良くない。すでに出塁を許してしまい、ここで打順が尊。一発喰らえば逆転サヨナラだ。何としてでも抑えなければならない。小細工抜きの真剣勝負。力で押し切ってやる。

 俺は大きく振りかぶり、渾身のストレートを尊が苦手なイン気味に投げ込んでやった。いい具合にバッティングのタイミングが合わない。バットに当てたところでおそらくゴロだ。


 『勝った』


 俺は勝利を確信して気を緩めてしまっていた。

 尊は、ジャストミートとは言えない半端なバッティングでボールを弾き返した。尊も意地だったのだろう。

 しかし、その半端な打球は強烈なピッチャー返しとなってしまう。ヤバいと思った時にはもう遅かった。打球は俺の顔面に直撃。一塁へ向かわずに、慌てて俺の方へ駆け寄ってくる尊の姿を視界に入れながらマウンド上で倒れ、気を失った。


 これが俺の地獄の始まりだった。


 俺は救急搬送されたものの骨折などはなく、脳にも異常が見つからなかったので、命に別状はないと診断された。

 しかし、俺は左目の視力のほとんどを失ってしまっていた。様々な検査や治療を試みたものの症状は改善されず、光の明暗や色の判別はできるものの「目が見える」と言えるような状態にはなかった。


 あの試合から二ヶ月後、視力の改善しない俺は、球団から戦力外通告を受けてしまう。俺はまだ投げられることを必死でアピールし、チームメイトたちも復帰要請の声を上げてくれたが、球団の判断が覆ることはなかった。

 令和の怪物と言われた伊藤いとう達夫たつおは、プロ野球界から姿を消すことになり、幼い頃から送ってきた野球人生で、初めての大き過ぎる挫折を味わった。


 それでも愛する妻・恵子けいこと五歳の息子・雄作ゆうさくのために、現役復帰を目指して練習に明け暮れた。片目での投球は微妙な違和感を感じさせたが、とにかく慣れようと投げ込みを続けた。妻もそんな俺を必死に支えようと頑張ってくれていた。


 しかし、それは幻想だと知った。

 ある日の週刊誌――


『元東京バーバリアンズ・伊藤達夫が大阪フェニックス・小林尊に奪われたのは野球だけではなかった! 伊藤達夫の妻との秘密のナイターで大ホームラン! 夜のNTR寝取りバッティングも絶好調!』


 ――妻の恵子は、俺に影で三下り半を突きつけていた。それはそうだ。現役に復帰できるかも分からない隻眼で無職の俺と、球界で屈指の強打者で高年俸の尊とでは比べるまでもない。仕方ないことだ。分かっている。仕方ないことだと分かっていても、割り切れない思いに涙が止まらなかった。恵子とは高校時代からの付き合いだ。楽しかったことも、辛かったことも、全部共有して同じ思い出の中に生きている。俺は本当に恵子を愛していた。でも、それは独りよがりの一方通行の愛だったのだ。尊に野球と妻という俺の人生そのものをすべて奪われ、心が張り裂けそうだった。


 初めて心が折れるということを知った俺は、署名済みの離婚届と、財産をすべて妻へ贈与する旨の書き置き、そして自分のスマートフォンも置いて、多少の現金が入った財布だけを持って自宅から出ていった。


 人生そのものに挫折した俺。

 そんな俺にできることは、現実から逃げることだけだった。



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