020 ミレイ③

「あれがライルか」


 フリックスが呟くと、アイリスが「ダメですよ!」と即座に注意した。


「ちゃんと“様”をつけないと! 伯爵家の方なんですから!」


「そうだな」


「ちなみに! お隣に立っているのはミレイ様です!」


「もちろん知っている。君よりもな」


「そりゃそうですよね。フリックスさんはロバディナの人なんですから!」


 二人を乗せた自動車が馬車の手前で止まる。


「どうして只の農家が自動車なんか持っているんだ……?」


 何も知らないライルは、目の前の光景が信じられなかった。


「さぁ? どうしてでしょう?」


 しれっとした顔で言うミレイ。

 彼女からすれば、自動車が出てきて当然だった。


「顔は隠しても財力は隠しておられないようですな」


 二人の後ろに控えるアルベルトが小さく笑う。


「ライル様!」


 車からアイリスが降りてくる。


「アイリス! 待っていたぞ!」


 ライルはパッと顔を明るくした。


「えええ! 私を待っていたのですか!?」


 アイリスは目をぎょっとさせた。


「ミレイ様から君がここで働いていると聞いてな! 元気にしているか様子を見に来たんだ」


「なんと!」


「ミレイ様に伺ったが、ブルーム公国ではずいぶんと苦労をしいてしまったようだな。そこまで考えが至らず、申し訳なく思っていたんだ」


「いえいえ! お気になさらず! それで……」


 アイリスの目がミレイやアルベルトを捉える。


「どうしてミレイ様までこちらに?」


「もちろん貴方に直接謝るためよ」


「え? 謝る?」


「私がライル様との婚約を希望したばかりに、貴方には大変な思いをさせてしまったわ。ごめんね」


 アイリスは「いえ!」と慌てて顔の前で両手を振る。


「あ、謝ることなんかありませんよ! 今ではすごく楽しんでいますから!」


 その言葉を聞いて、ミレイの言葉が一瞬だけ険しくなった。

 本当に一瞬のことだったので、アイリスやライルは気づかなかった。

 刹那に垣間見えた憎悪の感情を察知した者は、この場に二人しかいない。


 一人は護衛のアルベルトだ。

 後ろに控えているためミレイの顔を見ることはできないが、漂う気配から表情を察知できた。

 そして、もう一人は――。


「これはこれはミレイ様! ライル様! このようなド田舎にある平々凡々で何の取り柄もない農園にようこそおいでくださりました!」


 フリックスだ。

 妙に芝居がかった口調で登場する。


「あなたがこの農園の主か?」


 ライルが尋ねると、フリックスは「はい!」と大きく頷いた。


「フリックスと申します、ライル伯爵殿下!」


 ミレイとアルベルトは無表情でやり取りを見守る。


「伯爵殿下は私の父だよ」


 フリックスは笑いながら否定した。


「これは失礼いたしました!」


「いえいえ、お気になさらず。時にフリックス殿」


「はい」


「アイリスを雇ってくれてありがとう!」


 ライルは心からの感謝を述べた。

 先ほどアイリスが「今はすごく楽しんでいる」と言ったからだ。

 マスクをしていたり自動車を持っていたり、謎だらけで怪しげな男ではあるが、アイリスが愉快そうなので気にしなかった。


「お礼を言われることでもありませんよ。アイリスは本当に働き者で、怠け者の私に代わってこの農園を経営していますから。こちらこそ雇わせていただいて感謝しているくらいです!」


「そんなご謙遜を」


「ライル様、謙遜ではなく事実ですから! フリックスさんはぜーんぜん働いていないので! 私がこの農園を守っています!」


 アイリスが楽しそうに口を挟む。


「本当かい!? 農園の経営経験などなかっただろう?」


「そうなんですが――」


「あの、よろしいでしょうか」


 ミレイが割り込んだ。

 話が終わらないので我慢できなくなったのだ。


「失礼しました、ミレイ様!」


 ライルが慌てて頭を下げる。

 アイリスも「ごめんなさい!」とペコリ。

 ミレイは「いえ」と言い、それから笑みを浮かべた。


「私はただ、ご提案しようと思っただけですわ」


「「ご提案?」」


 ライルとアイリスが首を傾げる。


「せっかくの再会なのですから、家の中でゆっくりとお話されてはいかがですか? 二人きりで」


「よろしいのですか!?」


 驚くライル。


「もちろんですわ。その間、私はこちらのフリックスさんにお話を伺うなどしてお待ちしておりますから。フリックスさんもそれでよろしいでしょうか?」


 フリックスが「いやぁ」と笑いながら後頭部を掻く。


「自分はお風呂に入りたいのですが」


「ちょっとフリックスさん! 何を言っているんですか! せっかくミレイ様が配慮してくださっているのに! こういう時くらい我慢してください!」


 フリックスは「仕方ないなぁ」と渋々ながら承諾。


「いきなり現れた上に迷惑をかけて申し訳ない、フリックス殿」


 ライルが頭を下げると、フリックスは「いえ」と笑みを浮かべた。


「お気になさらず。アイリス、今にお通しして上等なお茶をお出しするのだぞ」


「ウチに上等なお茶なんかありませんよ!」


「ウチ?」と眉間に皺を寄せたのはミレイだ。

 ただ、その言葉はアルベルトとフリックスにしか届いていなかった。


「とにかく! ライル様、こちらへ! 狭い家で恐縮ですが……あ、そうそう、この家にはパソコンがあるのですよ!」


「なんだって!? さすがはロバディナ王国。一般家庭にまでパソコンが普及しているとは……!」


 アイリスとライルが話しながら家の中へ。


「それでは自分は車の中で一眠りしていますので……」


 何食わぬ顔でフリックスが離脱を試みる。

 もちろんミレイは認めなかった。


「お待ちください、フリックスさん」


「どうされましたかな? ミレイ……様」


 ミレイは言葉を発する前にアルベルトを一瞥した。

 それでアルベルトが事情を察する。


「お前ら、一緒に酒を飲みに行くぞ」


「アルベルト様、しかし今は任務の最中――」


「堅いことは気にするな。責任はワシがとる!」


「そういうことなら……」


 アルベルトは護衛の騎士を連れて町の中心部へ消える。

 これで残るはミレイとフリックスだけになった。


「他に誰もいなくなりましたので、もう別人を装う必要はございませんわ――さぁ、マスクの下のお顔をお見せ下さいませ」


 フリックスは呆れ笑いを浮かべ、右手でマスクを外した。


「相変わらず強引だな、ミレイ」


 アイリスが一度も見たことのないフリックスの素顔が露わになる。

 その顔は、ライルでさえも霞むほどの端麗さだった。


「やはり貴方だったのですね……フリック様」


 フリックスではなく、フリック。

 それが彼の本当の名前だった。


 そして、フリックにはファミリーネームがある。

 貴族にだけ持つことが許されるセカンドネーム。

 それを含めたフルネームは、フリック・バーンスタイン。


 バーンスタイン家は、ロバディナ王国の礎を気づいた王家の名。

 フリックス、いや、フリックは王国の第五王子だった。


 そして、ミレイが最高の相手と認めた存在だ。

 最善の相手ではなく最高の相手、と――。

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