人魚と内緒話

清瀬 六朗

第1話 代理領事の話

 コリンス船長は、ジョゼフ・ハーディング代理領事の大きな机の前に立ち、まっすぐに前を見た。

 「お呼びですか?」

 まっすぐに前を見ている、ということは、座っているハーディング代理領事の頭の上を見ていることになる。

 「ああ、呼んだ」

 ハーディング代理領事は、東洋風の扇子で盛大に自分の顔に風を送りながら言った。

 「きみの船で女の子に人魚を見せてやることはできるかね?」

 「不可能です」

 間髪を入れずにコリンス船長が答える。

 代理領事が扇子を動かす速さが倍になる。

 「だから、きみの船で女の子に人魚を見せてやることはできるかね?」

 「不可能です」

 コリンス船長が同じ答えを繰り返す。

 代理領事が今度は扇子をパタッと止めた。

 唇をゆがめて船長を見上げる。

 このまま椅子の肘掛けをつかんで体を伸ばし、船長に殴りかかりそうな形相ぎょうそうだ。

 だが、残念なことに、机が大きすぎて、体をせいいっぱい前に倒しても拳は船長に届かない。

 コリンス船長は、表情一つ変えず、これまでと同じ調子で続ける。

 「つまり、このあたりに人魚がいるという話はありませんので、女の子にも老爺ろうやにも人魚を見せてやることはできかねるのですが」

 そこでことばを切る。

 「このお話、何か委細いさいがありそうですな」

 こういうのを猫なで声というのか、たんに声のトーンを落としただけなのか。

 代理領事は

「うんっ!」

とうなずいて、咳払いをした。

 机の上にあったマッチを取って靴底の横面で擦り、火のついたマッチをパイプの煙草のなかに潜り込ませて火をつける。

 それで大きく咳払いした。

 コリンス船長は、代理領事の咳が治まるまで待つ。

 代理領事は咳が治まってすぐに煙草を深々と吸い込む。今度は咳はしなかった。

 「その」

と、ハーディング代理領事は斜めにコリンス船長を見上げた。

 「昨日、シンガポールからエンプレス・オブ・ジュンガリア号がここの港に着いたのは知ってるな」

 「ああ、はい」

 コリンス船長はうなずいて見せた。

 「三本マストの機帆きはんせんとは大したものですなぁ」

 「ああ、いや」

 代理領事はちらっとコリンス船長の顔に目をやった。

 「ならば、その船で、フォールセット伯爵の一家がお着きになったのは?」

 「いいえ」

 コリンス船長はあっさりとそう答える。

 ハーディング代理領事は咳払いした。

 今度は、煙草でむせたのではなく、空咳からぜきだったらしい。

 「おまえは船には興味はあっても人間には興味のないやつだな」

 皮肉なのか、事実を述べただけなのか。

 「インドのアワドで農園を経営して成功して、イングランド本国で爵位を賜った一族なんだそうだ。いまスエズより東でいちばん勢いに乗っている大富豪だとも」

 「はあ」

 コリンス船長は視線を下げて、代理領事の顔を見る。

 代理領事はうるさそうに左手にパイプを持って口にくわえ、右手でばたばたと扇子を動かす。

 扇がれて煙草の煙があちこちに飛び散る。

 「で、それと人魚にどういう関係が?」

 「その伯爵に一人娘のお嬢さんがいて、両親といっしょにアメリカに行く途中なんだそうだが……そのお嬢さんが見たんだそうな」

 代理領事がまた唇をゆがめる。

 続ける。

 「セントローレンスに入港する前、沿岸で泳ぐ人魚を」

 「ああ」

 コリンス船長は表情を変えない。

 「それは人魚というより、人間ですなあ」

 つけ加える。

 「しかも、人魚マーメイドが海の少女だとすれば、ちょっとばかり、年齢が高い」

 「そんなことはどうでもいいんだ!」

 代理領事が顔を上げる。

 「見まちがいでもなんでもいい。その、伯爵令嬢が失望せぬように、人魚を見せてやってほしい」

 「はあ」

 コリンス船長は眉間に皺を寄せた。

 代理領事が不愉快そうにその顔を見上げる。

 「何か不満か?」

 「そのう」

と、コリンス船長は言いにくそうに口ごもってから

「私どもの船は小型縦帆じゅうはんせんでして、その、大型機帆船とはだいぶ様相が違っていまして。その伯爵のお嬢様に喜んでもらえる船とはとうてい思えず、たとえ沿岸に船を出すだけでもなかなかに」

と続ける。

 「それなら心配ない」

とハーディング代理領事は言った。

 「お嬢様は無類の冒険好きでな。シク教徒に象に乗せてもらってカシミールまで行ったそうだし、インド洋で嵐が来ても、ずっと甲板に出て嵐の雨を浴びていたんだそうな」

 「いや」

とコリンス船長が弱々しく反論する。

 「大型船の嵐より、小型船の凪のほうが乗ってるのはきつかったりしますが」

 代理領事は色をなした。

 「じゃあ、やらないつもりか?」

 「いいえ」

 船長のほうは平気だ。

 「やらせていただきますが、小型船は大型船よりも船酔いしやすい、ということはお伝え願えますか? 大型船で嵐を乗り切ったお方でも、油断召さるな、と」

 「それならば伝えておく」

 代理領事はうるさそうに言った。言って、船長から目をそむけて、パイプを咥えて息を大きく吸い込む。

 盛大にむせた。

 代理領事の咳がとぎれたところで、コリンス船長は

「じゃあ、今日の午後には出帆できるようにしておきますので、伯爵ご一家にはよろしくお伝えください」

と告げた。


 *機帆船 … 推進力として帆と蒸気機関を併用するタイプの船。

 *縦帆船 … ヨットのように、船首‐船尾方向に帆を張って進む帆船。

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