夜伽の花瓶に、私の影を摘んで生けようよ。
蒼汰朗
*
水溜りに反照する星に
だが、土が爪の中に入るのではないかと不安に想った
途端に、屈んで取ることさえも恐くて阻まれた
拾い、此れが夜の縫い始めだったら
其れだけは、如何しても避けたかった
生きる意味すらも成さぬ
伸ばされた手を掴み取れる立場でもない筈
髄液もが沸く感覚が
過去を宥めるかの如く凛と
其処には
刹那の
只、清い夜に誰も居ない
*|*|*
私は、私の、嘗ての脈動に似ていていると思った。
目を閉ざしてからと言うもの、久しく、血が滾る――此の感覚を味わっていなかった。
今は、所詮、死に際。
凄惨な力を
また、花火が咲く。鳴る。やがて、
止む。私は、あの人との恋を偲ぶ。あの人が私にもたらした言葉を懸命に探す。今も尚、同じ光に照らされているだろうか。
夜、私達を照らす光は一つしかない。
然してまた、
それを、此の夜は知っているだろうか。月は知っているだろうか。知らなくても、如何でもいい。
光が前に在れば、自分の影を直視しなくて済む。光から遠い者が、私の影を視る。それで好い。私は今も、光の一番近くに居て
否、私は、此の夜、花火
私を慕い背中を追い続けた者は、
私も同じように――か。
自嘲に似た嗤いが込み上げて来る。すると、頬が
不意に、足音がする。
私は、家族と言う、切っても切り離せない影のような言葉を想い出す。
畳に擦れる。左の
眼前に在るは、一人、女。黒く汚れた半纏を纏った、女だった。
私は夢を観ているのかもしれない。離人感が私を苛む。途方もない程に心地好い。永遠の如きに開かれた距離。一向に縮まることはなく、未だ花火は咲き続けている――から、花火が上がったのを確認し――音が最後。
闇に、問う。
「久方、ぶりか?」
青く、照った。
肩口に切り揃えられた黒髪が、如何にも幼さを醸し出していて。視たことが――
風鈴が鳴る。
「あなたみたいな人を、
女は拳を握り締め、今にも殴り掛かってきそうな形相で言う。が、私の死に際に姿を現すあたり、私を恐れていたんだろうと惟うと、如何せん歯痒い気もした。
私は、あの女に見覚えがあった。
花火が咲き乱れる夜、轟音は
しかし、本音を言えば、私は静謐な夜に、独り、逝って終いたかったのだ。遍く凡てに悲観され、皮膚と同化したような布団の下が、白骨と成れ果てる迄、
にも
「名は?」
私は女に問った。問っていた。私も遂に、老い
返答はなく、此れだから人の時を
私は一刻も早く、あの人の言葉を想い出して終いたかった。何十年も前に喪った家族を想い出したかった。
未練から解放された身になって、懐かしさの中で生きていたかった。
「汝の、名は、何と言う?」
独りは淋しい。何も成し得なかった人生の最期に、また、人間の笑っている顔が視たいと想ってしまう。最後に生きていて好かったと思えるような表情が欲しかった。だから会話を続ける。
「私は、如何して、此処にいるのだろうな。そして、
私は、私として、あくまで
「あなたは、もう、何日も意識を取り戻さなかった。それなのに、また裏切るの?」
やけに感情が乗った声だった。私の胸に沈滞する何かがきゅうと
「すまんな。揶揄った、だけなんだ。」
「あなたは何時もそう言う。だから、私を一人にしたんでしょう。」
女は何を言っているのだろう。私には到底解らない。何故なら私は死に際、花火に起こされ、まぶたを開けただけなのだから。
嗚咽を上げる女を前に、
星の天幕に、幾千の如き花火が弾ける。花火に空が彩られる間隔が、短くなったのか。そう、
取り留めのない、時間を感じる。
否、私は究極的な懐かしさに囚われる。自分以外の人間と会話している時だけに与えられた、すくいのような時間。独りでは味わうことの出来ない不可思議な
忘れていた。
私は女に
「ねえ、あなたは……、ずっとずっと此処で眠っていたの。」
やはり、何を言っているのだろうと思った。
それからと言うもの、女は水を得た魚のように捲し立てた。まぶたには一滴の涙が浮かんだ儘、落ちることはなかった。私はそれを物憂げに見詰めていた。
女の言葉には聴き取れるものと、聴き取れないものが交互に有った。聴き取れるものには決まって私の過去が話されていた。聴こえないものは女の感情的な言葉が漏れてしまっているのだろう。言葉になる前に壊れてしまった。
話を聴いていく内に、どうやら私は数日の間、眠り続けていたらしいと解った。その間に、私は記憶を少なからず失っていた、とも。
そして、女は、私の娘なのだと言う。
私は、そんなことさえも忘れてしまったのか。目覚め、
しかし、私は割り切って問う。
「はて、ならば、御前の母は何処に居る?」
ならばあの人とは妻のことではないか。死の際、彼女へ問えば凡て解るのではないか。淡い期待が、ほろほろと、形を成す。
だが、
女は、我が娘は、一層に哀しい顔をして、
「あの人は、あなたを、おとうさんを、殺そうとしたんだよ。」
娘は言った。
実に、私が意識を失ったのも、妻の所為なのだと言う。
「想い出せないの?」
娘は私を責めているようだった。
「でも大丈夫。あの人は、もう何処にもいないから。」
娘は心の底から安心しているようだった。淋しいのか、花火の音が恐いのか、私に抱き付く。あたかも、私が
私はあやふやな過去の記憶に暫し生きた。此れが本当の自分なのか。
親子二人水入らずで、私達は花火を見続けた。
――幸福だと思った。
花火が咲いてくれてよかったと思った。
死ぬには
「ああ、未だ動いちゃ駄目だよ。……おとうさんは、あの人に刺されたんだから。」
前に据えられた瞳。
嗚呼。
花火が打ち上がる。
大きな。大きな。大きな。花火が――
――光る。鳴る。鳴る。鳴る。瞬く間に照らされる。
爆音に紛れ、
「なあ、今迄、すまなかったな。」
私は謝罪の言葉を紡ぐ。
「辛かっただろう。」
私は頭を撫でようとする。
だが、叶わず、振り払われる。
布団の上に、小さな、愛らしい簪が堕ちる。
「あなたに、此の痛みは解らない。」
娘は簪を握り締める。私は再度娘の手を握ろうとする。その手を視る。赤く、赫く、染まっている。
何故だ。青い、青い花火なのに。
「罪は償うより、償わせることの方が、何倍も苦しいの。」
娘、否、女に影はなかった。
私は、私に、初めて影が出来たと思った。
夜伽の花瓶に、私の影を摘んで生けようよ。 蒼汰朗 @str1014
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