夜伽の花瓶に、私の影を摘んで生けようよ。

蒼汰朗

 あかい夜道に、一つ、小さなかんざしちてゐた

 水溜りに反照する星に

 見蕩みとれていた私は、其れを拾おうとする

 だが、土が爪の中に入るのではないかと不安に想った

 途端に、屈んで取ることさえも恐くて阻まれた

 拾い、此れが夜の縫い始めだったら如何どうしよう

 黎明れいめいが、訪れて仕舞う

 あまつさえ、あの人が私を嫌悪して仕舞う

 其れだけは、如何しても避けたかった

 らば

 眼前がんぜんに広がるは、追懐ついかいの人影

 畢竟ひっきょう

 生きる意味すらも成さぬはず

 伸ばされた手を掴み取れる立場でもない筈

 しか

 髄液もが沸く感覚が

 過去を宥めるかの如く凛とぜる

 其処には

 偽愛ぎあいでも哀憫あいびんでも恋慕れんぼでも差異さい残る

 刹那の空無くうむ漂ひ



 只、清い夜に誰も居ない






*|*|*






 今際いまわきわに、花火が打ち上がった。



 私は、私の、嘗ての脈動に似ていていると思った。

 目を閉ざしてからと言うもの、久しく、血が滾る――此の感覚を味わっていなかった。

 ひとえに、息も出来ぬ程、懐かしい。繰り広げられた喧噪けんそう。惰眠を貪る背中。皺に支配された顔面が綻び、だが、せ返る程に、もどかしい。


 今は、所詮、死に際。


 凄惨な力をもって、重いまぶたを開ける。畳が青く、青く、染まる。変哲のない風景が、視える。風に靡いて、私と同じようにあの光に照らされている人がいる。そうおもう。遙かに、羨望の化身を送る。が、気付いて欲しい、希求が先行する。私は此処にいる。呟く。声は出ない。口が渇く。生唾を飲む。ぬるい鉄の味がする。


 また、花火が咲く。鳴る。やがて、


 止む。私は、あの人との恋を偲ぶ。あの人が私にもたらした言葉を懸命に探す。今も尚、同じ光に照らされているだろうか。


 夜、私達を照らす光は一つしかない。って夜、私達は集う。求められた闇さえも、無下に。

 然してまた、かまびすしい音が耳を裂く。嗚呼、麦風に廻り――血ではなく、茫漠とした火薬の匂いが鼻腔に充満する。意識を朦朧とさせる。息を吐く。臭い。血の濁った、腐った臭いがする。人は腐る。だから面倒臭い。しかし、言葉は何処にもない。私の虚構の如き畢生ひっせいを生かし続けた、凄惨な言葉が。見当たらない。見当たらないのだ。何故だ。誰が隠した。私が見失う筈はない。私はだ息をしている。


 それを、此の夜は知っているだろうか。月は知っているだろうか。知らなくても、如何でもいい。

 光が前に在れば、自分の影を直視しなくて済む。光から遠い者が、私の影を視る。それで好い。私は今も、光の一番近くに居てれている筈だった。祈りに暮れる時間は、誰よりも永い筈だった。



 さて、幾許の時が経っただろう。



 否、私は、此の夜、花火諸共もろとも散ってしまうのだろうか。

 れた言葉を、触れた肌を、巡った視線を忘れ、塵芥の如きにわるのだろうか。非道ひどいものだ。

 私を慕い背中を追い続けた者は、ことごとく消えた。私の追う背中は、此岸に惑い彷徨い、肉体の朽ちと共に荼毘だびされた。夢幻むげんの如く潰えたのだ。


 私も同じように――か。

 

 自嘲に似た嗤いが込み上げて来る。すると、頬がる。痛い。動かない。私は死ぬまで嗤うのか。それが定めか。目に涙らしき液体が溜まる。私の体内には涙などと言う純粋なものは残っていないように思える。ならば此れは何か。血だ。黒く濁った血だ。



 不意に、足音がする。



 私は、と言う、切っても切り離せない影のような言葉を想い出す。


 畳に擦れる。左のかびた襖が、埃を立て開かれる。無造作な跫音あのと。誰だろう。独りでは、聴こえることのない心臓が、開かれる筈のなかった弁膜が開かれるのようにして、私の血液を運ぶ。


 眼前に在るは、一人、女。黒く汚れた半纏を纏った、女だった。


 私は夢を観ているのかもしれない。離人感が私を苛む。途方もない程に心地好い。永遠の如きに開かれた距離。一向に縮まることはなく、未だ花火は咲き続けている――から、花火が上がったのを確認し――音が最後。


 闇に、問う。


「久方、ぶりか?」

 

 しわがれた声に、咲く。青い、

 青く、照った。

 肩口に切り揃えられた黒髪が、如何にも幼さを醸し出していて。視たことが――

 風鈴が鳴る。


「あなたみたいな人を、人鬼ひとおにって言うんだよ。」


 女は拳を握り締め、今にも殴り掛かってきそうな形相で言う。が、私の死に際に姿を現すあたり、私を恐れていたんだろうと惟うと、如何せん歯痒い気もした。


 私は、あの女に見覚えがあった。

 いな、正確には、疎覚うろおぼえ、が正しいのだろうけれど、こじつけでも、女を私の追懐の人に仕立て上げたかった。

 花火が咲き乱れる夜、轟音はもっぱら私の無残な過去を、鮮やかな未来をくるてて終うから。素晴らしい人生だったと、冥土での語り種にしてやりたいから。


 しかし、本音を言えば、私は静謐な夜に、独り、逝って終いたかったのだ。遍く凡てに悲観され、皮膚と同化したような布団の下が、白骨と成れ果てる迄、徹宵てっしょう、涙に溺れ、あの人が私に呉れた言葉を想い出しながら、嚙み締めながら、悶え沼田ぬた打ち廻りながら。

 にもかかわららず、


「名は?」


 私は女に問った。問っていた。私も遂に、老いれとして後世に死を伝える時が訪れたのか、と胸がつかえる。

 返答はなく、此れだから人の時を徒消としょうする人間が厭だった。私を制限する人間を嫌悪していた。

 私は一刻も早く、あの人の言葉を想い出して終いたかった。何十年も前に喪った家族を想い出したかった。

 未練から解放された身になって、懐かしさの中で生きていたかった。


「汝の、名は、何と言う?」


 独りは淋しい。何も成し得なかった人生の最期に、また、人間の笑っている顔が視たいと想ってしまう。最後に生きていて好かったと思えるような表情が欲しかった。だから会話を続ける。


「私は、如何して、此処にいるのだろうな。そして、御前おまえは、誰だ?」


 私は、私として、あくまでとぼけた心算つもりだった。女の呆れを買いたかった。が、揶揄からかいに交えて本音を入れたのもまた事実。


「あなたは、もう、何日も意識を取り戻さなかった。それなのに、また裏切るの?」


 やけに感情が乗った声だった。私の胸に沈滞する何かがきゅうと収斂しゅうれんし、やがて滑稽な傷と成る。死の間際、の人間さえも一丁前に傷付くことが赦されるのか、と思った。


「すまんな。揶揄った、だけなんだ。」


「あなたは何時もそう言う。だから、私を一人にしたんでしょう。」

 

 女は何を言っているのだろう。私には到底解らない。何故なら私は死に際、花火に起こされ、まぶたを開けただけなのだから。


 嗚咽を上げる女を前に、なくて、心疚こころやましくて。私は外に目を遣る。

 星の天幕に、幾千の如き花火が弾ける。花火に空が彩られる間隔が、短くなったのか。そう、思惟しいする。


 取り留めのない、時間を感じる。


 否、私は究極的な懐かしさに囚われる。自分以外の人間と会話している時だけに与えられた、のような時間。独りでは味わうことの出来ない不可思議な情動じょうどう名状めいじょうがたい心地が、ぼんやりと心と言う名の大海原で渦を巻いているような――まさしくそれだった。


 忘れていた。


 私は女にすわるよう促した。奪うようにして白い手を握った。冷たかった。じんわりと生を認識させた。


「ねえ、あなたは……、ずっとずっと此処で眠っていたの。」


 やはり、何を言っているのだろうと思った。

 それからと言うもの、女は水を得た魚のように捲し立てた。まぶたには一滴の涙が浮かんだ儘、落ちることはなかった。私はそれを物憂げに見詰めていた。


 女の言葉には聴き取れるものと、聴き取れないものが交互に有った。聴き取れるものには決まって私の過去が話されていた。聴こえないものは女の感情的な言葉が漏れてしまっているのだろう。言葉になる前に壊れてしまった。


 話を聴いていく内に、どうやら私は数日の間、眠り続けていたらしいと解った。その間に、私は記憶を少なからず失っていた、とも。


 そして、女は、私のなのだと言う。


 私は、そんなことさえも忘れてしまったのか。目覚め、昔日せきじつの日々を、私を思い煩う娘をも忘却し、ずは己の色恋とは。我ながら呆れる。


 しかし、私は割り切って問う。


「はて、ならば、御前の母は何処に居る?」


 かそけき記憶の中でさえ、私は『あの人の言葉』なるものを想い出していた。

 ならばあの人とは妻のことではないか。死の際、彼女へ問えば凡て解るのではないか。淡い期待が、ほろほろと、形を成す。


 だが、


 女は、我が娘は、一層に哀しい顔をして、


「あの人は、あなたを、おとうさんを、殺そうとしたんだよ。」


 娘は言った。

 実に、私が意識を失ったのも、妻の所為なのだと言う。


「想い出せないの?」


 娘は私を責めているようだった。


「でも大丈夫。あの人は、もう何処にもいないから。」


 娘は心の底から安心しているようだった。淋しいのか、花火の音が恐いのか、私に抱き付く。あたかも、私がしっかりと此の娘を愛せていたのように。

 私はあやふやな過去の記憶に暫し生きた。此れが本当の自分なのか。逡巡しゅんじゅんすることなく、素直に受け入れられた。

 親子二人水入らずで、私達は花火を見続けた。


 ――幸福だと思った。

 花火が咲いてくれてよかったと思った。


 死ぬにはだ早い。そう自分を言い聞かせるため、私は起き上がろうとする。が、急激に腹が痛くなる。熱くなる。


「ああ、未だ動いちゃ駄目だよ。……おとうさんは、あの人に刺されたんだから。」


 前に据えられた瞳。

 嗚呼。

 花火が打ち上がる。

 くらそら一面に。

 大きな。大きな。大きな。花火が――

                  ――光る。鳴る。鳴る。鳴る。瞬く間に照らされる。


 爆音に紛れ、


「なあ、今迄、すまなかったな。」


 私は謝罪の言葉を紡ぐ。


「辛かっただろう。」


 私は頭を撫でようとする。

 だが、叶わず、振り払われる。

 布団の上に、小さな、愛らしい簪が堕ちる。


「あなたに、此の痛みは解らない。」


 娘は簪を握り締める。私は再度娘の手を握ろうとする。その手を視る。赤く、赫く、染まっている。


 何故だ。青い、青い花火なのに。


「罪は償うより、償わせることの方が、何倍も苦しいの。」


 娘、否、女に影はなかった。




 私は、私に、初めて影が出来たと思った。












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