三題噺「雨の日の図書館」「 迷子の猫」「 古い手帳」

 色の見えないあなたへ。

 このぼろぼろに古い手帳を見ると思い出すのです。しばしばわけもなく街へ出て、自分の精神の正常性を証明する習慣が必要だったあの頃を。もうこの手帳に何かをぶつける必要もなくなってしまってずいぶん経ちますが、ほんの出来心で、また駄文を重ねることをお許しください。

 紫色の夕方でした。習慣に従って、暑い慣れ親しんだ街をだらだらと歩きにでていました。電車が通ると轟音がなって、よくもまあこんなものに命を握られているものだと思わされる線路下の横断歩道で信号を待っている時、快晴の朝を嘘にする鼠色の雲が立ち込めているのに気がつきました。空の模様は必ずグラデーションに変化するはずなのですが、現代の人間には一定量の変化でしか知覚ができないようです。アスファルトは雲になる前の水分をたっぷり吸いこんで飽和し、蒸れた臭気が漂ってきました。これは一雨来るな、とおそらく誰もが思ったことでしょう。ですのでひとまずスマホの天気予報をさっとみて、今から一時間ほど雨が降ることを確認しました。家からはなかなかの距離を歩いているので、すぐ近くの市役所に隣接した図書館に雨宿りをすることにしました。

 夏の雨の日の図書館はキンと冷たくて人もほとんど居ない、心地のいい場所でした。きょろきょろあたりを見渡しながら入口付近の平置きの棚を通り抜けて、規則正しく丈夫に並び立つ本棚でできた通路に入っていきました。なにぶん図書館という場所へ来たのは初めてだったので、じっくりと時間をかけて、興味のない種類の本が続くレーンも何かを探している素振りをしながら蛇のように抜けていきました。少しそれも疲れてきたので視界の片隅に入った大きな丸形の机に向かいました。その道の途中で、以前購入しようとした絶版になってしまった小説を見つけたので、それを抜き取って、丸形の机の一番遠い所に座りました。扇風機が風を切る様な雨の音が窓にかけられたカーテンから聞こえてきました。

 せっかく気になっていた小説が読めると思ったのですが、偶に起こる自動ドアが開く重い震わす音で、文字から視界の隅にあった入り口に気がいってしまって、あまり読み進めることができませんでした。ですが、雨が止むまではここは図書館なので、本を読み止めるわけにはいきません。数回目の小説からの離脱で驚きました。あなたが入ってきたからです。もう十年以上ぶりだったはずです。あなたを見たのは中学生の時以来でしたから。すっかり大人びていましたが、一目見て中学生の何もない自分を思い出しました。その瞬間、反射的に入り口から見えない本棚の陰に向かって立ち上がり身を隠してしまいました。中学生の頃の自分も、あの頃の自分も、何も変ることができないままでいるのでした。きっとそのことに耐えられなかったのでしょう。あなたは入り口近くの平置きされた雑誌を何気なく拾ってはめくり、拾ってはめくるのでした。それを自分にとっては何でもない本を引っ張り出しては戻し、引っ張り出しては戻し、横目で捉えるのでした。

 中学生の頃、きっとあなたには嫌われていると思い込むことにして、自分を守るようにしていました。それでも同じクラスだったあなたと話すときには、そんなことをきれいさっぱり忘れ去ることもできる卑怯な自分でした。卒業の日にあなたに話そうと思いましたが、これまで重ねてきたものを一種の行事の力を利用して行動することに、狡さを見出して、これまた卑怯な籠城を決めました。

 あなたは大きな本棚の迷路に入っていきました。ゆっくりと背表紙を確認しながら、一列、また一列とこちらに近づきます。本棚の隙間から目を凝らして、タイミングを見て隠れながらジグザグに次の通路へ、次の通路へ。迷子の猫のようにびくびくとすべてを警戒しながら出口へと着実に向かいます。本棚を一つ挟んであなたがいます。あなたは立ち止まり、一冊取り出して、一ページ目をじっくり眺め始めました。そんなあなたを横切って、自動ドアにたどり着き、飛び出しました。ムンとした夕立の匂いとぬる風、そして地面に引っ張られていく激しい雨音。この雨の中を歩いて帰ることには少々戸惑いましたが、それよりもまた図書館に戻るほうが憚れました。それに雨は悪いことばかりではありません。土にとって、川にとって、山にとって必要なことです。そう思うことにして歩き出しました。

 

 知らせを聞いたときは、もうどうしようもありませんでした。そしてまたこうして自分の中だけで循環させています。無神論者ですから、これがあなたへ届くことはないとわかっています。だからこそこんなことができるのです。しかし、もうどうしようもありませんでした。どうかあなたは覚えていませんように。どうか―。

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