第二回 桃仙谷にて戒児、烈愁麗と出逢う ノ段


第二回 桃仙谷にて戒児、烈愁麗と出逢う ノ段



 朝靄に包まれた鬱蒼とした森の中。

 白い猿の群れが、桃の木の枝から枝へと身軽に飛び移りながら移動している。

 人の膝下ほどの身の丈しかない猿たちの中に、不自然に大柄な猿が一匹。

 否――それは猿ではなかった。

 簡素な白い道衣姿の少年である。

 その名を戒児かいじといった。

 先日一一になったばかりだが、その身のこなしは軽功の鍛錬を積んだ者にしかできない俊敏さで、猿の動きにも余裕で追随する。

 やがて、翡翠色の水を湛えた淵を見下ろす岩場に着くと、小猿たちが待ちかねたとばかりにキーキーと鳴き声を上げて戒児を呼んだ。

 誘われるまま岩場を降りていく。どうやら滝壺の近くで何か見つけたらしい。

「どうしたんだ? まだ昏いうちにここに近寄るのは危ないって――」

 革の足袋を履いた戒児の足が止まる。

 水辺の岩場に、自分の背丈を超える巨大なはさみが突き立っているのを見たからだ。

 この淵を根城にしている化け蟹の水妖のものに違いない。

 螯は根元から千切れていて、持ち主の姿は見当たらない。

 何があったのか――?

 戒児は訝しげに辺りを見回す。

 一条の朝陽が淵に差し込み、青黒い螯を照らした。

 闇の世界に属する水妖の螯は、陽光を浴びると紙のように燃え上がり、灰となる。

 灰化して崩れた螯の向こう――巨岩が浸食されてできた滝の裏の凹みに、横たわる人影があった。

 朝陽が水面で乱反射し、滝の飛沫に虹を生むとともに、その人影を照らし出す。

 戒児は息を呑んだ。

 人だ。

 知らない人だ。

 いや――本当に人だろうか?

 そう疑いたくなるほどに――この世のものとは思えない姿をしていた。

 身に纏った長衣は引き裂かれ、襤褸ぼろ切れ同然で申し訳程度に身体を覆っている。

 露わになった肌は、滑らかで、珠のように輝いて見えた。

 首から肩に流れる身体の線の柔らかさ。

 桃を思わせるふたつの胸の膨らみは、男にはないものだ。

 そしてそのかおは――喩えるべき言葉が見つからない。

 美しい人、という概念を戒児はまだ知らずにいる。

 初めて目にする女性であればなおさらだ。

 だが、戒児にも分かることがあった。

 これは天女でも仙女でもなく、ましてや水妖の類でもない。

 生きた、人間の女だ。

 愁えげに眉を顰め、痛みに堪えるようにきつく閉じられた瞼から、ひと筋の涙が零れるのを見たからだ。

(痛いの……? それとも……?)

 戒児はそれが『悲哀』と呼ぶべき感情だと知らなかったが、その女の表情から、胸が詰まるような息苦しさを覚えた。

 初めての感覚に囚われたせいだろう、猿たちが警戒の吠え声を上げたのに気付くのが遅れた。

 水面を破って飛び出してきた青黒い影が、背後から戒児に襲いかかった。

 巨大な蟹の螯が戒児の身体を挟み、水中に引きずり込む。

(化け蟹――!? もう夜が明けてるのに!)

 片腕を失った怒りで我を忘れているのか。

 だが戒児は冷静だった。

 水辺に近寄った獲物を螯で捕らえ、岩場に叩き付けて気絶させてから水中に引き込むのが化け蟹の狩りの常套手段だが、陽光が差し込む水辺に長居はできず、地上で打撃を与える手順を省いている。

(あれをやられたら厄介だったけど……)

 戒児は脊髄に沿って並ぶ霊的器官〈龍環ルーク〉を起動し、体内に蓄積した神気を四肢に巡らせた。

 水中で戒児の全身が黄金色の――陽光と同じ煌めきを帯びる。

 身体に触れている螯の歯の部分が硬度を失い、柔らかな泥と化した。

 逃げようと思えば簡単だが、戒児はそうしない。これは絶好の機会だ。

(――ここでやっつけてやる!)

 戒児は懐から二つの鉄球を取り出し、両手に握り込んだ。

鴛鴦鉄睾えんおうてっこう〉――神気を通す特別な金属で作られた二つでひと組の宝具である。

 神気を吸った鉄睾が手の中で独楽のように回転し、黄金色に輝き始める。

 化け蟹が戒児の身体を放した。

 相手が自分の思っていた獲物とは違うと察したか。

 だが、もう遅い。

 淵の底に逃げ込もうと身を翻す化け蟹に、戒児は右の鉄睾を投じた。

 高速回転する鉄睾は水を穿って直進し、甲羅に命中した。

 回転は止まらず、そのまま化け蟹の分厚い鎧を溶かしながら貫き、深く、深く食い込んでいく。

 鉄睾から放射され体内から浸食する神気の痛みに堪えかねたか、化け蟹は反転して向かってきた。

 戒児は左手の鉄睾を放つが、それは化け蟹の下を通過する。

 狙いが外れた?

 否――そうではない。

 直進した鉄睾は途中で軌道を変えた。上昇し、化け蟹の腹に突き刺さる。

 二つの鉄睾が強力な磁力により引き合い、化け蟹の体内で接触すると、注入された神気を爆発的に解放する。

 轟!

 水中に衝撃とともに黄金色の波紋が広がった。

 戒児はそれに乗って水面から飛び出し、水辺の岩の上に着地する。

 二つの鉄睾が数瞬遅れて戒児の手に戻ってきた。

 鴛鴦鉄睾はまるで見えない伸縮自在の紐で結ばれているかのように、使い手である戒児の肉体と磁力で繋がっている。

「ふう――」

 大きく息を吐いた戒児は、顔を上げ、心配そうに遠巻きに見守っている猿たちに笑顔で手を振ってみせた。

 化け蟹に勝ったと知った猿たちは大喜びで枝を揺らす。

 仲良しの小猿たちが駆け寄ってくる――が、近くまで来たところで急に怯えたように立ち竦んだ。

「どうしたの?」

 猿たちの視線の先を追った戒児はハッと息を呑んだ。

 蛇だ。大きな蛇がいる。

 滝の裏、横たわる女人のすぐ傍らに、銀色の鱗を持つ大蛇が鎌首をもたげている。

 陽光を浴びて白銀に輝く鱗――つまり闇の妖魔ではない。

 しかし戒児くらいの子供ならひと呑みにしてしまいそうな大蛇である。

 だが普通の蛇にしてはあまりに美しすぎた。

(神仙の使いかな?)

 観察していると、女人の向こう側からさらにもう一匹、銀鱗の大蛇が現れた。

(たた、食べられちゃう!?)

 見ている場合ではないと判断した戒児は、手前の大蛇を狙って鉄睾を投げた。

 殺す気はない。

 込めた神気は生き物が食らえば気絶する程度に調整してある。

 だが、銀鱗の大蛇は大口を開けて鉄睾を飲み込んだ。

 直後――もう一匹の大蛇が口から何かを吐き出す。

 戒児は一直線に飛んできたそれを手で受け止めた。

「――えっ?」

 手の中で高速回転するそれは、戒児が今投げたばかりの鉄睾だった。

 女人がいつの間にか目を覚まし、上体を起こしていた。

 艶やかな黒髪が肩から胸に流れる。

 女人が潤んだ目で戒児を見る。

 視線が合った途端、戒児は痛いくらいに胸が高鳴るのを感じた。

 頬が熱い。

 頭の芯からお尻まで、痺れるような感覚が走る。軽く目眩がする。

(この気持ちは何だろう――毒、かな?)

 深く考える間もなかった。

「……がはっ」

 女人が咳き込み、黒い血を吐いたからだ。

 再び女人が倒れ込むと同時に、傍らにいた二匹の大蛇はみるみる萎んで厚みを失い、地面に伸びた。

 戒児は女人の近くに駆け寄ると、拾った小枝でになった銀鱗の大蛇を恐る恐る突っついた。反応はない。

 枝の先で下から掬い上げてみると、それが生きた蛇ではなく、銀糸で編まれた極めて精巧な作り物だとようやく理解した。

「……さわ……る、な……」

 女人が譫言うわごとのように呻くと、銀糸で編まれた大蛇がムクムクと膨らみ、噛み付こうとしてくる。

 戒児は両手で蛇の喉元を捕まえた。

 その手に伝わってくるピリピリした感触――

「そっか、分かった! これは〈神気〉で動いてるんだ」

 大蛇の正体は、鉄睾と同じく神気を伝導する金属で作られた宝具に違いない。

 戒児は大蛇に自分の神気を送り込んだ。

 使い手である女人の神気はか細く、大蛇は戒児の黄金色の神気で塗り替えられる。

(へえ……なるほど、これは服なんだ。シャツの両袖が蛇になってて――)

 神気を通したことで銀鱗の大蛇の構造が手に取るように把握できた。

 前合わせの衫の両袖が長大な蛇になっている。本来であれば袖に腕を通す形で肌着として身に着けるようだが、この女人は胴巻きにして蛇を操る時も両腕が自由になるように工夫している。

 戒児は蛇を経由して女人の身体の状態を探ろうとしたが、抵抗を受けて神気が通らない。

「くっ……」

 女人が険しく眉を顰め、息を荒げる。

「怪我をしているんでしょう? 心細いですよね? 怖いですよね? 分かります」

 戒児は平静を心がけて、ゆっくり声をかけた。

「ここにはもう恐ろしい敵はいません。僕は味方です。僕が見守っていますから、安心して眠って大丈夫です。さあ……楽にして、僕と呼吸を合わせて――」

 神気の抵抗が弱まった。

 女人は戒児の言葉を理解したのか、呼吸の調子を合わせて戒児の神気を受け入れる。

 蛇を通して女人の体内に黄金色の波紋が浸透していく。

 神気の感触から、戒児は女人の体内を透かして見るように把握できた。

(……ひどい)

 今度は戒児が眉を顰める番だった。

 全身至る所に打撲。

 擦り傷に切り傷。

 加えて肋骨の何本かが折れて手足の骨にもヒビが入っている。

 満身創痍だが、単身で化け蟹を相手にしたことを思えばそこまで大怪我ではない。

 問題は内傷が酷く気血が乱れていることだった。

 戒児の感覚では女人の神気は月光を思わせる銀色と捉えられているが、女人の鳩尾のあたりに性質の異なる真紅の神気が残留している。

(これが元凶か――)

 戒児は神気を充填した鉄睾をヒョイと投げた。

 鉄睾は女人の胸の上でピタリと止まり、左巻きに高速回転する。

 女人の鳩尾に巣くっていた真紅の神気が鉄睾に吸い上げられていく。

(強い……上手く逃がしてやらないと)

 回転する鉄睾から真紅の神気が光線のように吐き出され、水面に当たって霧散した。

 女人の身体から緊張が抜ける。

 呼吸が穏やかになる。

 気血の流れが整いはじめた。

(これで安心だな)

 戒児は安堵の溜息を吐くと、あらためて女人の美貌を覗き込む。

 それにしても、こんな美しい人に酷いことをしたのはいったい何者だろう――戒児は不思議に思った。




               [第二回・了]

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