DRAGON BERRY【ドラゴンベリー/桃蛇戀戀】

雑賀礼史

第一章 桃仙谷の出逢い

第一回 天雷七星、銀鱗兇娘を追い詰める ノ段










  遙かな未来。

  かつて〈ユーラシア〉と呼ばれた大陸の真ん中で――











 第一回 天雷七星てんらいしちせい銀鱗兇娘ぎんりんきょうじょうを追い詰める ノ段



 傾きかけた陽光を背に浴びながら、てい泰羅たろうは垂直に切り立った天険の絶壁を、飛燕の落とす影のように駆けていた。

 岩壁には爪先が懸かるほどのわずかな段差があるのみで、ひとたび足を踏み外せば奈落の底まで一直線に転げ落ちるしかない。

 しかし丁泰羅は臆することなく絶壁の切れ目で岩肌を蹴り、虚空に身を躍らせる。

「――ハッ!」

 右手から一条の光線の如く放たれる深紅の飛剣。

 その鋭い先端が、そびえる岩の尖塔の頂点付近に食い込んだ。

 飛剣の柄尻から手首まで繋がった鋼線を支えにして、丁泰羅の身体は振り子となって空中で大きく弧を描く。

 眼下に広がるのは、断崖に縁取られた針葉樹の森――その中に、一瞬、陽光を反射してキラリと光ったものがあった。

 丁泰羅の顔を覆う、横に長い六角形の双眼を持つ銀の仮面――その下の口元が緩む。

「見っけ!」

 精妙な手首の動作ひとつで飛剣を岩から抜き、丁泰羅は森へと自由落下した。

 並の人間であれば墜死を免れ得ぬ高度と速度である。

 しかし丁泰羅は針葉樹の幹を蹴って落下の軌道を変え、枝の撓みを利用して勢いを殺すと、そのまま木から木へと飛び移る。人の身でありながら野猿さえ凌駕する体術。

 前方に、奇妙な人影が見えてきた。

 白い深衣シェンイーを着た女だ。

 ただの女ではない。

 大人の胴ほどの太さがある大蛇を二匹、身に纏っている。

 ゆったりとした袖口から長く首を伸ばした白銀色の蛇が、交互に枝に噛み付き、女の身体を前方に運んでいく。

 陽光を反射したのはこの白銀の肌を持つ蛇だ。

 森が開け、岩場が現れる。

 女が地上に降りたのを確認した丁泰羅は、樹上から跳躍し、真上から襲いかかった。

「――〈飛燕ひえん閃影脚せんえいきゃく〉!」

 得意技の跳び蹴りで突っ込むが、女は独楽のように身を翻して躱した。

 着地と同時に、真横からの強烈な一撃を受けて丁泰羅は吹っ飛ばされる。

 銀鱗の蛇の頭突きだ。

 それは本物の大蛇ではなかった。

 蛇自体は金糸銀糸で編まれた袋のようなものだが〈神気〉を帯びているため電撃を受けたように身体が痺れた。

 背中から岩に叩き付けられ、さらに跳ねて頭から地面に落ちそうになったところを、何者かに抱き止められる。

「予告してから襲うやつがあるか」

 救い手は巌のような大男だった。

 丁泰羅と同じく銀仮面で目元を隠しているが、双眼に当たる部分が丁泰羅の六角形に対しこちらは楕円形をしている。

 師兄(兄弟子)の蓬斯えいすうだと知った丁泰羅は、照れ笑いとともにペロッと舌を出した。

「ご婦人を相手に不意討ちってのも気が引けたんでね」

「鬼ごっこ気分で遊んでる場合じゃないんだぞ?」

「分かってますって」

 二人で追跡を再開する。

 走りながら、蓬斯が合掌した両手を正面に向けて突き出し、上下に開いた。

 広がる両手の間に、深紅に輝く三日月形の刃が生じる。

「――〈月牙絶刀げつがぜっとう〉!」

 天雷門の秘技――龍気を帯びた己が血潮を刃と化して飛ばす〈鉄血錬功てつけつれんこう〉を極めた者のみが使いこなせる〈奥特絶招おうとくぜっしょう〉のひとつである。

 女は左へ身を躱す。狙いを外れた刃は大木を両断した。

「兄貴だって予告してんじゃん?」

「わざとだ」

 左に転進した女に、右から追いすがる新たな人影があった。

(――玄鴻げんこうか)

 丁泰羅はその剽悍な身のこなしと神速の歩法から年嵩の師弟(弟弟子)だと見て取った。

 玄鴻は烈火の輝きを帯びた両足で、地面を削りながら滑り込む。

 女は足元を掬おうとするその攻撃を躱して大きく跳躍した。

 その先にあるのは大きな渓流。

 対岸まで二十丈(約六〇メートル)はある。いかな功夫を積んだ達人といえども一足飛びには渡れない。しかも昨夜の大雨のため増水している。水面を駆け抜けるのも難儀だ。

 急流から突き出ている岩伝いに飛び渡ろうとして、女は足を止めた。

 次の足場にするつもりだった大岩が、眼前で真っ二つに割れて砕かれたからだ。

「そこまでだ、りー姑娘くーにゃん

 対岸に立ちこめた霞が吹き払われ、一人の男が姿を現した。

 丁泰羅と同じ六角形の双眼を有する銀仮面。

 頭上に掲げられた右手。

 その揃えた二指の間に、深紅に輝く湾曲した飛刀が挟まれている。

「これは〈冰刃雷牙ひょうじんらいが〉――!?」

 烈姑娘と呼ばれた女が口を開いた。

〈冰刃雷牙〉といえば江湖にその名を知らぬ者なき必殺兵器である。

 天雷門の〈奥特絶招〉の中でも三指に数えられ『その手に刃が現れた時にはすでに相手の首は落ちている』と伝えられる神速の飛刀。

「あんたまでがお出ましとはね――だん賽文せいぶん!」

 名指しを受けても、仮面の下の口元は険しく引き締められたままだ。

「女一人に四人がかりとはご苦労なことだね」

「すまない。私たちもいる」

 対岸にさらに二人が現れた。弾賽文より上流の方に立った長身の男が名乗る。

「天雷門が高弟〈天雷七星てんらいしちせい〉が第二星――まん駿太しゅんたい

「同じく第四星――ごう傑剋じゃっく。お見知りおきを」

 これは下流に立ち、銀色の鉄扇を優雅な手つきでひらつかせている優男の台詞だ。

 龍輿ろんゆうにおける正派武門の総本山〈天雷門〉――その高弟にして天下に勇名を馳せる武侠兄弟である〈天雷七星〉のうち六人が一堂に会している!

 第六星である丁泰羅自身でさえ興奮を抑えきれない事態である。

 ことに第二星・曼駿太が天雷門を離れて現場に駆けつける――それも人里離れたこんな僻地にまで出張るなど滅多なことではない。

 急流の中の岩場に立つ烈姑娘を挟んで前方には第二星から第四星が陣取り、背後には第五星から第七星が控えている。完璧な布陣だ。

(なるほど、師兄たちは無傷で女を捕らえる気だな)

 多少腕に覚えがあったとしても〈天雷七星〉六人を相手にこの場を切り抜けられるとは露程も思うまい。

 戦いとなれば相手の手足の一本や二本奪いかねない弾賽文とは違い、曼駿太は慈悲深く円満な人柄である。もちろんそれは賽文よりも武功で劣るという意味ではない。

 どう贔屓目に見ても絶体絶命の死地といえる。

 だが、豪胆なことに烈姑娘は呵々大笑した。

「ハハハハッ! 過去の栄光に縋るばかりの腑抜け共が雁首揃えて御大層なこった! そんなにこの私が怖いのかい?」

 この煽り文句にカチンときて反射的に飛び出しそうになった丁泰羅だが、同じく激昂しかけた玄鴻が蓬斯に肩を掴まれて制止されるのを横目で見て自重した。

 弾賽文が口を開く。

「烈姑娘……いや、江湖の通り名に従って〈銀鱗兇娘ぎんりんきょうじょう〉と呼ぶべきか? だが貴様の悪名もここで終わる。おとなしく〈神煌龍経しんおうりゅうけい〉を返せば命までは取らん。さもなくば――」

「大事な秘伝書もろとも真っ二つにでもするかい?」

 烈姑娘は自分の胸元に手をやった。武林の至宝〈神煌龍経〉はここにあるぞと言わんばかりに。

「六人がかりで女一人を始末したところで、誰にも見られなければ江湖に悪評は立たない――遠慮なくかかってきたらどう?」

「人目がなくとも天が見ている。そんな恥知らずな真似ができましょうか」

 答えたのは豪傑剋だ。

「だったら取引といこうじゃない」

「お前の望みは何だ?」

はく八星はっせいを――私の前に連れてくること」

 その名を聞いた途端、三人の高弟の表情が一様に曇った。

 しばしの沈黙の後、答えたのは曼駿太だ。

「残念だが、その要求には応じられない」

「何でさ!? あの薄情者が秘伝書よりも大事ってわけ?」

「覇八星のことは二度と口にするな。今生では縁がなかったと諦めろ」

「くっ……うっ」

 烈姑娘が苦しげに呻いて身体を折る。

「お前はすでに内傷ないしょうを受けている。仮に五体満足だったとしても、我らの囲みを破って逃れることは叶わぬ。この期に及んで悪足掻きはよせ」

「フン……勝ったつもりでいる時が一番危ないって、師父に教わらなかった?」

 烈姑娘は手の甲で口元を拭った。両袖から出ている二匹の蛇が鎌首をもたげる。

 極めて細い金糸銀糸で編まれているこの蛇は、烈姑娘の両腕とは無関係にまるで意思ある生き物の如く動く。神仙により作られた宝具の類であろうか。

「やーれやれ、無理しちゃって。見てらんないぜ」

 丁泰羅は軽口とともに躍り出て、烈姑娘の背後の岩に立った。

「六対一じゃ天雷門の名がすたる。ここは兄貴たちに成り代わり――不肖、第六星の丁泰羅が〈銀鱗兇娘〉に一手、指南を乞うとしましょう」

「おい待て……!」

 蓬斯の制止を無視して丁泰羅は動いた。

 岩から急流に降り、水面を蹴立てて烈姑娘に迫る。

 烈姑娘は振り向きざまに右袖を翻し、四本の銀針を放った。

 毒針? だが構うことはない。

 丁泰羅は拳で水面を叩き、爆ぜるように立ち上がる水飛沫で防壁を作った。

 龍気を帯びた水飛沫が輝き、一瞬だけ鋼の硬度を得て銀針を弾き返す。

 しかし拳から放たれた龍気の衝撃波はそれに留まらず、水面を左右に弧を描いて走った。

 水飛沫の防壁が鳥籠よろしく烈姑娘の立つ岩場をぐるりと囲み、さらに白い霧を発生させて視界を遮る。

 銀鱗の双蛇が烈姑娘を護るように二重の蜷局とぐろを巻いた。

 背後に影――即座に左の蛇が反応してその影に食らいつく。

 しかし、蛇の牙が引き裂いたのは丁泰羅ではなかった。ひと抱えもある大きな鯉だ。

 前方で水の跳ねる音。

 頭上から黒い影が迫る。

 烈姑娘は右の蛇を伸ばして迎撃した。

「――むっ!?」

 噛み砕いた瞬間に烈姑娘は不覚を悟った。

 人ではない。川底から拾ってきた岩だ。

 そう気付いた時には、すでに丁泰羅は水中から飛び出して双蛇の防御陣の内側に踏み込んでいた。

 右の掌を突き出して烈姑娘の胸元を打つ。

 凄まじい掌風が白い深衣を引き裂き、油紙に包まれ紐で十字に括られた書物が露わになった。

(やったぜ!)

 丁泰羅はそのまま右手を伸ばして包みを掴み、喜色を浮かべた。

 バチィン!

 右手に激痛が走る。

 油紙を破って飛び出した鉄の歯が、丁泰羅の右手に食らいついていた。

(バネ仕掛けの……虎挟み――だと!?)

 それが秘伝書に見せかけた偽物だと――つまり罠だと理解するのに数瞬を要した。

 烈姑娘と目が合う。

 丁泰羅が烈姑娘の顔を正面からはっきりと見たのは、それが最初だった。

 白塗りの顔。

 目の周りは青黒い墨で縁取られ、頬には魔物の顎門を思わせる朱色の隈取りが施されている。恐ろしげな悪鬼の化粧だ。

(これが〈銀鱗兇娘〉――)

 天雷門に恨みを抱き、行く先々で殺戮と破壊を撒き散らす邪悪の化身――〈銀鱗兇娘〉について丁泰羅が知っているのは江湖で囁かれる噂話でしかない。

 噂には尾ヒレが付きものだ。

 実際に対面してみれば、いかな悪名高い武威浪ヴィランだろうと所詮は人間、およそ敵ではなかった。

 超人的武功を持つ〈天雷七星〉と正面からまともにやり合おうなどという考えを持つこと自体が正気の沙汰ではないのだ。

(こいつ、ただの女じゃ――)

 烈姑娘が口内に含んでいた赤黒い液体を吹き付けてきた。

 内傷を受けたことで胃から逆流してきた血を攻撃に使ったのだ。

 動転していた丁泰羅はそれをまともに顔面に受け、視界を奪われた。

(やられる――!?)

 そう思った時には反射的に左の掌打を放っていた。

 手加減を忘れ無我夢中で打った渾身の一撃である。

 烈姑娘はその掌打を両手で受けると同時に足場の岩を蹴った。

 掌打の威力と跳躍力の相乗により、烈姑娘の身体は凄まじい勢いで一気に数十丈もの距離を飛んだ――に向かって。

「ぬうっ!?」

 注視していた五人が目を瞠る。

〈銀鱗兇娘〉の姿は滝の向こうに消えた。

 凄絶な笑みを全員の瞼に焼き付けて。

 丁泰羅は左手で仮面を剥ぎ取った。

 現れたのは先日一七になったばかりの、精悍だが幼さの残る貌だ。

 周囲に視線を走らせ、棒立ちの兄弟子たちに目を留める。 

「お……女は!?」

「飛んでいったよ。お前が苦し紛れに放った掌打の威力を逆に利用してな」

 豪傑剋が鉄扇で指し示した下流の先にあるのは――急流が瀑布となって流れ落ちる断崖だった。

「滝から落ちたのか!? クソッ、逃がすかよ!」

 丁泰羅は川岸の岩場に沿って走り、崖の縁まで駆け寄った。下を覗き込むが、滝壺さえ見えない高さに目が眩んで腰が引ける。

 しかし躊躇も一瞬、丁泰羅は岩を蹴った。

「早まるな!」

 深紅に輝く光輪が空中の丁泰羅の身体を捕らえ、崖の縁まで軽々と引き戻した。

 曼駿太の〈挙身光環きょしんこうかん〉だ。

 本来は〈冰刃雷牙〉同様に血の刃を飛ばす技だが、長年の鍛錬と工夫により切断以外の多彩な使い方を編み出している。

 隣に並んだ玄鴻が沈痛な面持ちでつぶやく。

「この高さから落ちたのではまず助かりませんね……」

 すぐに他の兄弟も追いついた。蓬斯が丁泰羅の手から虎挟みを外してやる。

「下に降りられる道を探しましょう。秘伝書は彼女が肌身離さず持っているはず。下流に流されてからでは探すのが難しくなります」

 豪傑剋の提案に、腕組みした弾賽文は眉をひそめて首を横に振る。

「いや……我々にはこれ以上の追跡はできない」

「何故ですか!?」

「この断崖から先は、我々天雷門の者にとって禁足地きんそくちだからだ」

「何ですって!? 初耳ですよ?」

「その所以を知るのは師父だけだが――」

 曼駿太が後を継ぐ。

「元より烈姑娘がこの森に逃げ込んだのも、禁足地を利用して我々の追撃を躱す算段があればこそ。ここから身を投げたのは……フン、それこそ一か八かの賭けだろうが、すべて承知の上での逃走経路というわけだ」

「つまり……我々はとしてやられた、と?」

 丁泰羅は歯噛みして拳で岩を叩く。

 血気にはやった結果、敵を侮り、図らずも逃亡を助けてしまったかたちだ。

 何たる不覚。

「烈姑娘が死んでしまっては秘伝書を取り戻すのはもう……」

「苦労して奪った〈神煌龍経〉は何があろうと手放さんだろうし、生きてさえいればいずれ再び我々の前に姿を現すだろう。皮肉なことだが、今回ばかりは烈姑娘の悪運を当てにする他はなさそうだな」

 蓬斯の慰めの言葉も、慚愧にうなだれる丁泰羅の耳には響かなかった。

 陽が沈みゆく。

 断崖の上に立ち尽くす六つの影が、黒く、黒く塗りつぶされていく――




              [第一回・了]

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