第64話 姉妹

 とにかく璃子に、納得してもらうしかない。納得して、もらいたい。


「お前は、舞香の赤ちゃんを、死なせたくなかったんだろう? 不幸せにしたくなかったんだろう? それだけは手段にできなかったんだ」


「…………」


 璃子は何も言わない。何も言い返せることがないからだ。


 もう璃子にできることなど残されていないのだ。

 俺が先ほど指摘した、「シンプル自殺でも与儀蒼汰にとってNTRになってしまう」なんていう説に、何の根拠もないことには気付いているだろう。この世界はエロゲなのだから、エロ以外がNTR=ゲームクリアの条件として見なされるとは考えづらい。

 だが、可能性を示されてしまった以上、もう今の璃子にはそんな手段は取れない。

 万が一にでも、赤ちゃんと、そして舞香の体に、リスクなんて負わせられないと考えてくれている。


「なぁ、璃子」


 俺も床に膝をついて、璃子のモチモチほっぺを両手で挟み、その顔を上げさせる。潤んで揺れる大きな瞳を見つめて、ゆっくりと語りかける。


「舞香と俺が望んだ赤ちゃんの命、その一線だけは越えられなかった――っていう、だけの話じゃねーよな? 俺たちの子供を死なせたくないってのは、つまり、お前だってこの子と生きていきたいってことでもあるんじゃねーのか?」


「……そんな……そんなのは、飛躍しています……」


「そうだな。その自覚はあった上で言ってる。でも、否定できるか? 舞香と俺の子どもに、会いたくないのか? この子が育っていく姿を、そばで見守りたくないのか?」


「そ、それは……」


 必死で顔を逸らそうとする璃子を、俺が許さない。逃がしてやらない。ちゃんと言わせてみせる。璃子の口から、どうしても言ってもらいたいことがある。


「きっとモチモチだぞ、赤ちゃんも」


「わたしの方がモチモチです! 赤ちゃんが相手とはいえ、モチモチさだけでは絶対負けません!」


 うん、よくぞ言ってくれた。さすがモチモチ璃子。モチモチにプライドを持つ賢妹。俺が言ってもらいたかったのはそれじゃないんだが、でも確かに、それもまた大事なことだ。


「そういえば、モチモチもそうだよな。モチモチだって、手段には成り下がらなかったよな」


「当たり前です! 兄さんに可愛いと言ってもらえたこのモチモチこそが、わたしのアイデンティティなのですから! モチモチは兄さんの一番になるための手段ではありません! いわば、『モチモチ=兄さんの一番』にすることこそがわたしの人生の目的なのです!」


「でも、幽霊はモチモチしてないんじゃないか?」


「――――! た、確かに……っ、でもっ……!」


「少なくとも、俺はモチモチできないぞ。申し訳ないが、璃子が幽霊として俺の隣にいてくれたことなんて、俺は全く認知できなかったんだから。触れないんだから。璃子のモチモチをモチモチすることが――できない!!」


「…………! そん、な……」


 まぁ実際は、璃子が年齢を重ねたりして、自然にそのモチモチを失っていったとしても、璃子に対する俺の思いなんて変わるわけねーんだけどな。絶対、中身は一生モチモチなままだしな! むしろ歳を重ねるごとにますますモチモチしていきそう。外はしわしわ、中はモチモチってのも風情があって粋じゃないか! 将来が楽しみだぜ!


「ねぇ、なんでそんな会話で『…………! そん、な……』ってできんの?」


「黙れムチムチ妊婦」「ムチムチ妊婦は安静にしていてください。一生」


「いや黙らないけど。だって私も言いたいことあるし、このあほあほ妹に」


 舞香も一歩前に出て、璃子の目の前にしゃがむ。その表情は、怒りに満ちあふれていて。その目の鋭さには、さすがの璃子も怯まざるを得なかったようで。おどおどとした口調で、


「な、何ですか、舞香ちゃん。た、確かに、舞香ちゃんのお腹に赤ちゃんがいるにもかかわらず、この世界を終わらせようとしてしまったことは……謝っても謝りきれません……でもそもそもモチモチルールを破ったのは舞香ちゃんたちの方で……」


「そんな話じゃない」


「いたいっ」


 舞香の両手が、璃子のほっぺをパチンと挟む。


「あんたさ、私が、あんたに死んでほしかっただとか何とか言ってたよね?」


「……だ、だって、そうだったに決まってるじゃないですか……」


「ばか。そんなわけないっしょ。私はずっと、あんたに負けてると思ってたんだから。だから絶対、逆転するつもりだった。だって私らの勝負なんて、まだせいぜい二回表くらいだったっしょ。それなのに、そんなとこで勝ち逃げなんてしてさ。試合不成立じゃん、そんなの。ちゃんと九回までプレイしろし」


「舞香ちゃん……わたしのこと、嫌いじゃなかったんですか?」


「あんたが私にいだいてる気持ちと一緒」


「大嫌いじゃないですか」


「そ。だから大嫌いなあんたに、絶対勝ちたいの。生きてるあんたに、ざまぁしてやるんだから」


 まぁ、そりゃそうだよな。


 俺や父さんと違って、どれだけ辛くてもちゃんと人生を歩もうとしていた舞香。その強さのせいで忘れてしまいそうになるが、璃子が死んで一番泣いていたのは、俺でも父さんでもなく、舞香だったのだ。俺を支えるために隠していたのだろうけど、あの二年間だって胸の内ではずっと、涙を流していたのだと思う。


 そんな舞香が、璃子がまた死のうとしていることなんて、許すわけがないのだ。


「舞香ちゃん……」


 照れくさそうな、どこか気まずげな顔をする妹に、舞香は微笑ましげな目を向けて、


「この子の、お姉さんになってよ、璃子。あんたの新しい家族だよ」


 そして妹の手を取り、そっと自身のお腹へと招く。

 璃子も、実の姉のお腹を恐る恐る、しかし慈愛のこもった手つきで撫でて、ポツリと呟く。


「ここに、わたしの甥っ子と姪っ子が……家族が……」


 何て感動的なシーンなんだ。何でお前まで二卵性双生児だと決めつけているんだ。

 うん、そんで実際にはそこにあるのは舞香のぷにぷにお肉だけなんよ。全然妊娠なんてしてないんよ。ただぷにぷにしてるだけなのに、その母性溢れる微笑みを浮かべられる俺の嫁はホントすごいと思う。ってか、もうホントに妊娠してると思い込んでるんだろうな。

 ああ、もういろんな意味で絶対引き下がれん。


 決勝戦に備えて今日は控えるべきだとして……明日勝って甲子園決めて帰ってきて――そして夜に……ごくり……!


 と、勝手に妄想を膨らませ、ごくりしている俺の前で、璃子が小さく首を横に振る。一度は光を取り戻してくれたその瞳だったが、再度、自信なげに閉じられてしまった。


「でもわたしには、この子たちの立派なお姉さんになるような資格なんて、ありません……璃子はどうしようもない愚妹で、どうしようもない愚叔母です……。そうですよね、兄さん」


「璃子……何でそんなこと……」


「だってわたしは、兄さんが大切に思ってくれていた約束や甲子園すら手段にしてしまったような女なんです……もうそれもバレてしまいました。兄さんと舞香ちゃんとこの子たちのような眩しい家族の一員として、やはりわたしは相応しくありません……」


 心の底から嘆くように、璃子は顔を歪める。

 そんな顔をさせてしまっているのも、結局は全部、俺のせいなのだ。


 だから、


「あのな、璃子」


 だから、舞香が正直に自分の気持ちを伝えたように、今度は俺が、恥ずかしい部分もさらけ出してやるべきなのだろう。


「いいんだぞ、それで。俺の一番になるために、約束も甲子園も手段にしちまうって、うん。そんなの当たり前じゃねーか」


「え……」


 目を丸くする璃子だが、俺は別に突拍子もないことなんて言ってないと思う。俺も、初めて璃子にそれを告白されたときには一丁前にショックなんて受けてしまったが、そんなのは思い上がりでしかなかった。


 よくよく考えてみれば、当たり前なのだ。

 だって、


「俺だって野球も甲子園も約束も、お前らにかっこいいと思ってもらうための手段だとしか思ってねーからな!」


「「ええー……」」


 璃子だけでなく舞香まで引いていた。うん、勝手にドン引いていればいい。俺は全然恥ずかしいことなんて言ってない。


「冷静になってみれば、俺も璃子と全く同じだったんだわ。ていうか日本中の他の球児だって同じだろ。あんなに甲子園行きたがってるのなんて、突き詰めてけば、モテたい、チヤホヤされたいって理由でしかねーぞ? カッコいいって思われたいからでしかねーぞ?」


 俺たちがガキのころ、仙台育英や日本文理のお兄さんたちをカッコいいって思っちまったのと同じように。今の高校球児だって、未来の甲子園球児や未来の恋人やお嫁さんにカッコいいと思われるためだけに頑張ってんだ! あ、学園球児か、そういえば。


「そういう……ものなんですか……」


「納得しちゃったよ、この子」


 余計な口挟むな、未来のお嫁さん。ムチムチ妊婦(予定)。


「だからさ、璃子。お前の口から、ちゃんと聞かせてくれ」


「……兄さん……」


「うん、そーだね。お腹の中のこの子にも、ちゃんと璃子の口から聞かせてあげて。あんたがこれから産まれて、生きていくこの世界は最高なんだって、お姉さんから教えてあげてよ」


「……舞香ちゃん……なんかさすがに勝ち誇りすぎててムカつくんですけど。モチモチルールを勝手に破ったことに関してはお二人のこと全然許してないですからね。一生をかけて償ってもらいますからね」


 怖い。俺の妹が怖い。


 でも、そうだな。約束は約束だから、破っちまったんなら、それ相応の報いは受けなきゃいけねーよな。

 償っていこう、一生をかけて。


「じゃあ、璃子。最後まで見届けてくれよ? 俺の償いを」


「もちろんです! だから、だから、わたし……」


 そうして璃子は、顔を上げ――涙を流しながらも、真っ直ぐと前を向いて、


「生きたいです。生きたいです、この世界で。兄さんと舞香ちゃんと、お二人の子どもの、家族として。……生きます! モチモチします! モチモチし続けます!」


「…………っ、璃子ぉ!!」


「兄さん!!」


「モチモチぃ!!」


「モチモチぃです!!」


 力いっぱい抱き合う俺と璃子。相も変わらずモチモチだ。やっぱり璃子はモチモチだ! モチモチぃ!!


 そしてやっぱり子供って偉大だな。新しい命って、最高だな!


 ただ。浮かれてばかりもいられない。残酷な現実もある。この点をなぁなぁにしたままでは先に進めない。逃げることなく、真摯に伝えなければならない。


「璃子、これはお前にとって酷な事実になってしまうが……」


「はい、承知しています」


「そうか……与儀蒼汰が璃子に惚れている限り、璃子は永遠に処女のままいてくれなきゃ世界が終わってしまうかもしれないと、わかった上で決断してくれたんだな……?」


「はい。覚悟の上です……というか元から璃子が兄さん以外にこの体のモチモチを触らせるなんてあり得ないですから。あ、陸斗くんや瑠美奈ちゃんとはモチモチし合いますけれど」


 やったぜ!! これで俺の璃子は永遠の処女だ! 誰にも触らせてたまるかよ! あ、陸斗や瑠美奈とはモチモチしてもらうけど。モチモチ動画撮りまくるけど。


「いや、別に与儀蒼汰君が璃子以外の人に恋して璃子を忘れれば、それまでの話っしょ。しょせんただの意味不明な一目惚れでしかないんだから」


 余計な口挟むな、ムチムチ妊婦(確定)。俺たちが熱く抱き合ってんだからお前も抱きついてこいよ。こういうとこで素直になれないからお前はいつまでたってもツンデレなんだよ。


 だが、とりあえず。これで一件落着だな! ――なんて、簡単な話ではない。

 いや、まぁ、別に一件落着としてしまっても問題はないのかもしれない。放っておいても、璃子と舞香と俺と新しい家族たちは幸せに暮らしていけるのかもしれない。


 でもやはり、スッキリとはしないしな。

 しょせん幸せになるための手段だったとはいえ、やっぱり甲子園こそが、俺たち家族の繋がりの象徴なのだ。

 明日勝って、二人を甲子園に連れていく――それは当然の確定事項として――もう一つ、片付けなきゃならねぇことがある。


 あの甲子園野郎にも、この璃子の思いを、人間ってものの生命力の強さを、叩き付けてやらなきゃいけねぇよな。

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