第61話 奥の手

 翌日、軽い練習を終えて、帰ってからはゆっくりと過ごし、舞香の美味しい晩ご飯を三人で食べた後、俺は自分の部屋で一人、床に敷いた布団の上に座り、瞑想めいそうをしていた。


 ついに明日が決勝だ。甲子園まであと一勝。相手は強豪と言えば強豪だが、二回戦で倒した作陰学園や、準決勝で破った文大附属よりは劣る。俺が普段通り投げ切れば、勝てるはずだ。


 疲労はあるが、問題はない。精神的には、落ち着けている。


 この数日でいろいろなことがあった。まさに激動だった。だが、とにかく明日の試合が終わるまでは、一旦、それらを頭の隅に追いやるべきだ。


 何しろ、俺たちが抱えている璃子の問題――これは長期戦なのだ。一生をかけて、与儀蒼汰のサブヒロインNTRを防がなければならない。


 父さんから情報を得た璃子が、オリヴィア・詩音NTRを狙ってくる可能性を考慮し、既に対策は講じている。生徒会長を仲介役として、オリヴィア・詩音にも野球部員の彼氏を作らせる算段だ。恋愛の喜びを知ってしまった生徒会長はノリノリだったので、たぶん上手くいくだろう。

 俺としても、野茂と金子以外の野球部員には幸せになってほしいし、この四か月間共に汗を流して、野茂と金子以外のことは心から信頼できる仲間だと思えている。野茂と金子以外なら自信を持って紹介したい。


 もちろん、実際には、ゲームクリアの条件には何かしらのタイムリミットがあるのかもしれない。時間切れになって、ゲームクリアが不可能化するというのであれば、俺にとってはこれ以上ない結果だ。

 だが、俺たちにそれを知る術はないわけで。結局、一生をかけて対策していくしかない。まさに長期戦なのだ。


 逆に言えば、璃子にとっても明確なタイムリミットはないことになる。つまり、璃子からしても、そんなに焦る必要はないはずなのだ。ついこの前までは、甲子園に行くことがゲームクリアの条件だと勘違いしていたから、明日の決勝が一種のボーダーラインのようになっていたのだろう。


 甲子園が終わるまで舞香とエッチなこと禁止というモチモチルールも、そのために制定されたものだったわけだ。

 期間が曖昧だったり、それを舞香に指摘されて、結局は「甲子園が終わるまで」と長めに設定したりしたのは――どのタイミングでゲームが終わるのか、璃子自身、明確には分からなかったから故なのだろう。父さんが璃子に語ったエンディングというのが曖昧だったっぽいからな。「甲子園出場を決めてゲームクリアした際に流れる感動のエンディング」としか説明していないのだ。(実際はそんなの大嘘なのだから曖昧になるのも当然だ。)

 万が一にも俺と舞香にエッチさせたくなかった璃子は、念のため、長めの「えっち禁止期間」を設けたのだろう。


 しかし今や、そんなボーダーラインには何の意味もないことが明らかになってしまった。俺が甲子園に行くかどうかなど、この世界に何の影響も及ぼさないのだから。璃子の命には何の関係もないと、璃子自身も知っているのだから。


 今となっては璃子も、明日の俺の試合を、純粋に応援してくれているはず。俺も無駄なことは考えず、明日の試合に集中しよう。

 今お風呂に入っている舞香の姿を想像してムラムラしている場合じゃないのだ! 瞑想しろ、瞑想!


「すぅーー……………………ふぅーー……………………」


 …………。


 ……………………。


 無の時が流れる。雑念を排して、流れる時間にただただ身を任せる。この部屋を満たすのは、俺の呼吸と、舞香が残していったフローラルな香りだけ。ちくしょう、エロすぎる。何であいつって、月一くらいで妙にジャスミンっぽい香りが強くなる期間あんの? 何か俺にしか感じ取れない変化らしいが、明らかに良い匂いすぎるんだが。しかもそんな時に限って距離近くなったりするし。妙にくっついてきたり、甘えたような態度取ったりしてくるし。いつにも増してムチムチしてるし。前世のときからそんな期間のことを頭の中でゴールデンえちえちエイジ(またはゴールデンむちえちエイジ)と呼んでいたのだが、なぜ今夜に限ってゴールデンえちえちエイジに突入してしまうのだ。俺の瞑想を乱さないでくれ。ムラっ、ムラっ……ムチぃっ!


「兄さん兄さん、ゴールデンえちえちエイジって何ですか? 璃子はとっても気になります!」


「頼むからノックを覚えてくれ、璃子」


「しましたけれど、璃子のノックはモチモチノックなのであまり音がしなかったのかもしれません」


「なら仕方ないな。うん」


 そもそも瞑想中にゴールデンえちえちエイジだとか口に出しちゃってる俺が悪い。ぶっちぎりで悪い。


 お風呂に入る前でもつやつやモチモチな璃子が、俺の隣に腰を下ろし、モチモチピタっとくっついてくる。


「兄さん」


「ん? どうした、璃子もいっしょに瞑想するか? 頭がとってもスッキリするぞ」


「あら、それは良いですね! ぜひご一緒させてください!」


 うん、素晴らしい。誰よりも璃子にこそ、余計な雑念を振り払ってほしいのだ。過去も未来もなく、純粋に今この世界で流れる時間だけに身を任せてほしい。それがきっと、一番の幸せのはずなのだ。


「じゃあ、璃子。こうやって座禅を組んで、」


「はい」


「そして目をつぶってだな、」


「んっ」


「んっ?」


 目をつぶった、瞬間だった。俺の唇に、モチモチっとした、湿った感触が押し当てられる。気持ち良さと共に、嫌な予感が背中を走り――俺は目を開ける――前には既に、確信していた。


 座禅を組んだ俺の脚に、モチモチっとした重みが乗り、桃のような香りを漂わせながら、モチモチっとした両腕が、俺の肩に回されたからだ。


 璃子が、俺に抱きついて――そして、俺の唇に、キスをしたのだ。


「璃子……、お前、何を……」


 目の前には、璃子の真っ赤な顔があった。唇をそっと離した璃子が、おでこ同士がくっつくような距離で、上目遣いしていた。ウルウルとした両目で、俺を見つめていた。


「好きです、兄さん」


「知ってるが……ダメだろ、口にチューは。これはあれだぞ。俺と璃子で、舞香に土下座しまくらなきゃいけねぇほどの重罪だぞ……?」


「大丈夫です。もうどうせ、全部終わりですので」


「は? お、おい……!?」


 またもや重ねられる、璃子の唇。必死で肩を押し返し、そのモチモチキッスからのがれる。


「マジで何考えてんだ、璃子……おい、やめろって!」


「兄さん……」


 艶っぽい声、艶っぽい顔、そして、俺の内ももをなぞり上げてくる、細い指先。

 そして璃子は、ショートパンツのポケットからそれを取り出す。

 数センチ四方の薄い袋。めちゃくちゃ見覚えのある黒い正方形。俺のピッチングに欠かせない、便利な野球ギア。


 コンドームだった。


「兄さんのために、璃子が用意してきました。恥ずかしかったですけど、ホームセンターで購入しておきました」


「おい! 冗談やめろって!」


 璃子が、自分の口で、コンドームの封を開ける。


「冗談なんかではありません。兄さんが、教えてくれたんじゃないですか。極厚さんで、しっかり避妊できるって。だから、大丈夫ですよ。心配なんていりません。璃子は、兄さんの都合の良いモチモチホールでも構いません。璃子のモチモチ処女で、気持ちよくなってください」


「璃子!!」


 俺の本気の怒声に、璃子はビクッと体を震わせる。


「……すまん、怒鳴っちまって。でも、ダメだ。さすがに本気で怒ってるぞ、兄さんは」


「…………わたしもです。わからず屋の兄さんに、本気で怒っています」


 潤んだ瞳で、キッと睨みつけてくる璃子。そんな顔も可愛いが、それでも俺の怒りは収まらない。説教しなけりゃいけない点が多すぎる。


「言いたいことはたくさんあるが、まず、そんな風にモチモチをけがさないでくれ。都合の良いモチモチなんてねぇんだよ」


「それは璃子が決めることです。璃子のモチモチなんですから、いつ誰にどのようにモチモチを捧げようと、璃子の勝手なはずです」


 璃子の言葉と表情には、焦燥感のようなものがにじみ出ている。やっぱり、迷走しているのだ、璃子は。


「いったん落ち着けって、璃子」


「そんな暇ありません! 今夜、抱いてほしいんです! 璃子のモチモチをもらってください! 璃子には、時間がないんです!」


「いい加減にしろって!!」


「怒鳴られても引きません! 璃子のモチモチ処女を、今日、兄さんの極厚さんで奪ってもらいます!」


 そうして、袋の中の極厚を、唇で咥えて取り出す璃子。何ともたどたどしい動きだ。


 明らかに、おかしい。


 璃子が自分の身を捧げることで、サブヒロインNTRを成立させようとしていることは、もちろん分かっている。だが、そんなに焦る必要はないはずだ。

 なぜ璃子はそんなに、今夜にこだわっている? 甲子園なんてボーダーラインはなくなったはずなのに。そしてなぜそんなに極厚にこだわっているんだ。人生を左右する大事な局面でまで兄さんの早漏をなじらないでくれ。


「だから、無理だって言ってんだろ! お前はいろいろ間違ってんだよ!」


 まず、おそらく教材が間違っている。そんな風に無駄に艶めかしいコンドームの扱い方ばかり覚えて、順番がおかしいだろ。俺は脱いでもいないし、そして、何より――


「間違っていたとしても構いません! 間違いでもいいから、璃子の初めてをもらってください! 舞香ちゃんには言いませんから……兄さんの極厚さんなら、すぐに終えることだってできるんですよね!」


「だからそういう問題じゃねーんだよ! そもそも無理なんだよ! やるやらない以前の問題だ! 俺は、舞香以外じゃたない!」


「さぁ、早く! 早く、兄さんの極厚さんで――……は?」


「璃子に対してそういう気持ちいだいたり、ましてや勃起したりなんてしねーから。セックスなんて、できねぇんだよ!」


「…………っ!」


 言葉を失ったかのように、目を剥く璃子。


 うん、少し大げさではあった。が、俺があんなに勃起しまくりの超早漏人間になってしまうのが舞香相手だけというのは事実だ。


 昔から、そうだった。


 初めて性的な欲求を覚えてしまったのも舞香相手だし、それ以来、情欲が湧き上がってしまうのも舞香に対してだけだった。ずっと実の妹だと思っていたから、そんなことは許されないと、激しい罪悪感を抱き続けてきた。欲求を抑えつけ、他のものをオカズに自慰をしようと何度も試みたが、不可能だった。何時間かけても射精には至らず、ていうかいつの間にか俺の妄想に舞香が入り込んできて、気付いたときには結局舞香で射精してしまう――ということを繰り返してきた。その度に、罪悪感に押し潰されそうになっていた。


 甲子園NTRという概念を生み出したとき、俺は本当に救われたのだ。

 やはり長い時間はかかってしまうし、特に気持ち良くもないのだが、NTRであれば、一切舞香のことを考えずに、淡々と性的欲求を処理することができた。今考えてみれば、NTRであるからこそ、舞香という存在と繋げずに済んだのかもしれない。

 舞香を寝取られるなんて、想像できるわけがないからな。


 そういうわけで、璃子相手に性的な感情を覚えたこともなければ、これからも覚えることなんてないというのは、紛れもない事実なのだ。


「だからな、璃子、」


 少し強く言い過ぎたことを反省し、俺は璃子の頭を優しく撫でる。


「俺に璃子を寝取らせるなんて方法ははなから実現不可能なんだ。それに、そんな焦る必要、璃子にもないはずだろう? 頼むよ、璃子。俺が絶対、この世界で生きていきたいって思わせてやるから」


「……なら……」


「確かに、時間はかかっちまうかもしれねーけど……待っててくれ。必ず俺が、」


「なら、わかりました」


「ありがとう、璃子」


「璃子は、自殺します」


「は?」


「兄さんがわたしとモッチを――モチモチエッチをできないというのであれば、やはり、奥の手を使うしかありません。璃子は、死にます」


「は?」


 は? としか言えない俺を放って、璃子はスッと立ち上がる。その尻ポケットから、潰れた長方形の箱がポトリと落ちるも、璃子は一瞥いちべつもくれず、俺に背を向け歩き出す。なに箱ごと持ってきてんだよ、コンドーム……だとか、ツッコんでる場合じゃない。


 こいつ今……自殺って、言ったのか? 奥の手って、お前、まさか……。


 璃子はドアノブを持って、こちらに顔も向けずに淡々と言う。


「シンプルな自殺なんて方法では、もちろんこの世界なんて終わりません。兄さんと舞香ちゃんを元の世界に戻しちゃうことは不可能です。舞香ちゃんのせいで璃子が死んだという結末でもありません。これでは決定的な破局を兄さんたちにもたらすことはできないでしょう。魔物さんを元の世界に返してあげることもできません。この世界で死んだところで、前の世界のように幽霊になれるとも限りません。想定していたベストとは程遠い結末です。でも、」


「お前……やめろ、さすがに許せないぞ、そんな冗談」


「でも! 充分な結末です。死んでさえしまえば、きっとまた兄さんの一番にはなれるはずですから。たとえこの世界で舞香ちゃんが兄さんとの結婚までこぎつけてしまったとしても、兄さんの心の中で、わたしが一番であり続ける可能性は残されていますから。それさえ叶えられれば、わたしは満足です」


「いい加減にしろよ璃子!!」


 俺が我慢できずに怒鳴り立てるのと同時に、璃子は扉を開けて飛び出していってしまう。

 もちろん即座に立ち上がり、その背を追う――も、足の痺れのせいで出遅れてしまう。くそっ、あのモチモチな体、やっぱ意外と体重もあるな!


 そう、そんな風に、いっぱい食べていっぱいモチモチになったんだ。なのになぜ、元気な体を捨てようだなんて言うんだ?


 自殺なんて、嘘だよな? 俺の気を惹こうとしてるだけなんだよな?


「待てって、璃子!」


 璃子は振り返りもせず、自分の部屋へと飛び入り、


「おい、璃子! …………開けろ!」


 俺が追いついた時には、既に部屋の鍵が閉められてしまっていた。

 ドンドンとノックしても、「うるさいです! 心の準備中なんです! 一人にしてください!」というくぐもった声が返ってくるだけ。


 くそ! 何で璃子の部屋だけ鍵付きなんだ! そういや、元は山田母の部屋だったんだっけ。余計なことしやがって!


 こうなったら……!


 俺は階段を下りて玄関に向かい、傘立てから素振り用のバットを取り出し、


「ちょちょちょちょ、何やってんの久吾! こわっ!」


 バット片手に階段を駆け上ろうとしたタイミングで、Tシャツの裾をつかまれ、お風呂上がりホカホカのフローラルムチムチ妻に引き留められるのであった。エッロ。

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