第53話 愚妹(中編)

 百乃木家という――お母さんの旧姓と同じ苗字の、でも――見知らぬ人たちが住む家で目覚めたのは、今から四か月前(後から知ったことですが、祢寅学園入学前の春休み初日でした)。病気をする前の元気な体、モチモチな体に戻っている自分を見て、わたしは、戸惑うことしかできませんでした。


 百乃木璃子という自分の名前、わたしのことを昔から共に過ごした家族であるかのように扱ってくる、自称両親、そして姉。どうやらものすごく仲の良い姉妹だったらしいけれど、わたしからしたら知らない美少女――でもその名前はものすごく聞き覚えのあるもので。わたしのこの世界での自称姉、百乃木舞香の見た目には、よく見れば、舞香ちゃんの面影もありました。


 わけのわからぬ状況に怯えるまま、知らない家で数日間寝込んでいたわたしを気遣ってくれた百乃木舞香。その気遣いすら不気味だったのですが、わたしのことを実の妹だと信じて疑わない彼女は、よく彼氏との惚気のろけ話を聞かせてきました。

 最初はそんな話など全く頭に入ってこなかったわたしでしたが、その野球部の彼氏の名前――久吾――という名を聞いて、そこでやっと、ある可能性に思い至れたのです。


 もしかして、この世界は、お父さんが作った野球ゲームの中なのかもしれないって。


 でも、何かの手違いだったのか、もしかしたらわたしが依頼したような関係のキャラクターがいなかったが故の、代替案だったのか、この世界の『久吾』と『舞香』は男女交際していたのです。こっぴどく振るような関係ではなく、れっきとした彼氏彼女だというのです。

 まぁ、どこか『久吾』の方は『舞香』ほど、恋人を大切にしていなかった雰囲気はあるようでしたが。百乃木舞香は、久吾の話をするとき、恋する乙女でいながら、どこか卑屈そうな目をしていました。上下関係のはっきりとした恋人だったように見えました。

 それが、お話を作るお父さんの中では、「舞香をぞんざいに扱う久吾」という位置付けだったのかもしれません。わたしの注文が上手く伝わっていなかったのでしょう。

 まぁ、わたしだって、別にそこまで本気で頼んだわけじゃないですし。その場のノリで言ってしまったことが、自分の第二の人生に繋がるだなんて思いもしませんでしたし。


 そんなことになってしまったのも、理由はわかりませんが、おそらくお父さんが、百乃木舞香の妹キャラに百乃木璃子というな名を付けてしまったからで。何の因果かはわかりませんが、たぶんわたしは、自分と同じ名前のキャラクターになってしまっていたわけで。


 絶望でした。


 お父さんは何てことしてくれたのでしょう。死ぬことでやっと兄さんの一番になれたのに、よりによって兄さんのいない世界で生き返ってしまいました。


 ベッドの中でお父さんを呪い続けたわたしでしたが、ふと気づきます。

 わたしは幽霊として兄さんのお姿を見守ることはできなくなってしまいましたが、わたしが幽霊であろうとゲームの世界にいようと、兄さんにとっては「璃子が死んでいる」という事実は変わらない。兄さんの中での単独首位は揺るがない――つまりは依然としてわたしが兄さんの一番なのだと!


 ベッドの中でお父さんに少しだけ謝りました。


 そこまで考えがまとまるまでに五日間も要してしまったわけですが、そんなとき、ある男の子がわたしを訪ねてきました。


 同い年くらいに見える、無個性なその男の子は、自分のことを、甲子園の魔物だと名乗りました。

 何の冗談かと思いましたが、彼は、前世でのわたしのことを知っていたのです。四歳の、初めてわたしが甲子園球場を訪れて以来の、わたしと、そして兄さんと舞香ちゃんのことを、とても詳しく把握していました。

 そして何より、わたしと兄さんの甲子園での約束を、知っていたのです。

 だから信じざるを得ませんでした。


 魔物さん――この世界では、野茂誠という野球少年に成り代わっている――は言いました。


 ――璃子さんの願いを叶えるために、魔物の力を使ったのだ、と。


 わたしと兄さんが甲子園で誓った約束、すなわち――兄さんがわたしを甲子園に連れていって、わたしは何度でも生まれ変わって兄さんの妹になる――を叶える条件を揃えるために、死んだ璃子さんをこの世界に連れてきたはずなんだ、と。


 心の中でお父さんに少しだけ謝りました。

 お父さんじゃなくて魔物さんのせいだったんですね。


 と、同時に。


 ……はず?

 というのがわたしが抱いた、そして聞き返してしまった疑問でした。


 魔物さんは、気まずそうにわたしから目をそらしました。


 威厳たっぷり、自信満々で語っていた魔物さんでしたが、彼自身、自分が置かれている状況を完全には理解していなかったのです。

 よくよく聞いてみれば、そもそも魔物さんが持つ不思議な力とは、当たり前ですが、高校野球に関する奇跡の実現のみであり、人を生き返らせる力だとか、自分が人間としての実体を持つ力なんて持っている自覚はなかったそうです。


 しかし、事実として、魔物さんは元の世界とは違う、大谷翔平選手のいない世界で、野球少年として生まれ変わり。そして自分の家の近所に、前世でずっと見守っていたモチモチ少女がいた。

 ちなみにそこまでのやり取りで、魔物さんがわたしのストーカーみたいなものだったことに気づいてとても気持ち悪かったのですが、顔には出さないよう頑張りました。


 もう一つわかったこともありました。魔物さんは、この世界が野球ゲームであることを知らなかったのです。

 まぁ、当然です。魔物さんはタイガースの選手がクラブハウスに忘れていったゲームショップの紙袋を覗き込んだ瞬間、この世界に入ってきてしまったとのことでしたので。

 わたしだっていくつかの事前情報を持っていたから気づけただけで、それがなければ、この世界がゲームだなんて発想を持てるわけがありません。だって、見える景色もわたしたちを取り囲む社会常識も、すべてが元の世界と見分けがつかないような世界なのですから。


 ということはやはり、この生まれ変わりという現象に、魔物さんの力が関わっているのは事実なのでしょうけれど、それに加えて、わたしの両親がわたしたちの存在を意識して作り上げたこの世界自体の力だって大きいはずです。

 魔物さんだって、野茂誠って、お父さんが「魔物」から連想してつけた名前なのでは? 兄さんの名付けと同じような発想です。野茂誠さんも、お父さんが創り出したこのゲームのメインキャラクターだということなのでは?


 ということも含め、わたしが知っているこのゲームの情報を魔物さんに伝えると、彼は自信満々に言いました。


 久吾君もすぐにこの世界に来る、と。

 璃子さんと同じように、この世界の『久吾』に生まれ変わる、と。

 この世界の山田久吾が――甲子園に行く資格がある――高校生のうちに転生してくるはずだ、と。

 目を付けた野球少年を甲子園に導くことこそが、魔物の力なんだ、と。


 そこで初めてその考えに思い当たり、わたしは冷や汗をかきながら必死に意見します。これも初めて使い方を知った「転生」というワードを使って。


 わたしは前の世界で死んだからこそ、この世界の「璃子」に転生したんです。なら、兄さんが転生するとしても、数十年後に、あの世界で亡くなってからなのでは? と。


 魔物さんは涼しい顔で反論してきます。


 僕だって死んでもいないのにこの世界に転生してしまったよ? 久吾君だって死ぬまでもなく、僕の力に導かれるに決まっている。だってこの転生は、璃子さんを甲子園に連れていくという、甲子園の約束を果たすためのものなんだから。転生先の山田久吾が死にかけおじいちゃんだったら意味がないじゃないか、と。


 わたしはブチ切れました。


 この魔物さんは何ていうことをしてくれたのでしょう。せっかく兄さんの永遠の一番になれたというのに、兄さんまでこの世界に入ってきて、またわたしと同じ世界で生きることになってしまったら、全部台無しじゃないですか!


 魔物さんを睨みつけたわたしでしたが、ふと気づきます。

 あれ? でも兄さんとわたしだけの世界なら、結局わたしが一番になれるのでは? と。わたしの敵となり得る唯一の存在――舞香ちゃんがいないこの世界でなら、依然としてわたしが兄さんの一番なのだと!


 心の中で魔物さんに少しだけ謝りました。


 しかし、すぐにまたあることに気づき、わたしは戦慄します。


 お父さんが同じ名前を付けた『久吾』に兄さんが転生してしまうというなら、あの女――舞香ちゃんも、『百乃木舞香』として生まれ変わってきてしまう可能性は捨て切れない。

 というか、おそらくそうなる。兄さんと舞香ちゃんの甲子園の約束だって、魔物さんは覚えているわけですし。約束の力が発動する条件――というものがあるのであれば、それは揃っています。

 それに何より、舞香ちゃんは、わたしが「こうしてほしくない」と思ったことを、全てやってきた女なのです。しかもその中の八割くらいは全く悪意なく実現させてきてしまった厄介な姉なのです!


 つまり、結局わたしが兄さんの一番になるには、また死ぬしかない。わたしが死んでいたあの二年間に戻って、あのままの兄さんで一生を終えてほしいのです。


 わたしはブチ切れつつ、そんな要望を魔物さんに伝えました。


 魔物さんは、この世界でも、わたしの願いを叶えるために行動すると言ってくれました。

 さすがストーカーさん、というより、そもそも、それ自体が、魔物さんの希望する結末とも合致していたのです。

 彼の作戦・思惑を聞いてみて、わたしもそれに賛同できました。わたしと魔物さんの利害関係は一致していて、目指すべき結末も同じで、つまり、協力し合う以外の選択肢はなかったのです。




 わたしは、兄さんがこの世界にやってくる日に備えて準備を始めました。


 百乃木舞香から山田久吾の情報を全て聞き出し、彼女が持っていた山田家の合鍵を使って家の中まで調べ上げ、そんな中で、自分がこの世界でも兄さんの妹のふりができる可能性に思い至ります。


 意味不明な生まれ変わりに、兄さんは相当戸惑うはずです。購入履歴にあったこのゲームはまだダウンロードもされていませんでした。この世界のことなんてよくわかっていない兄さんのことなら、わたしにとって都合の良い情報で操ることができる。

 両親が不在のこの家で、妹のふりをしてやることだって可能です。


 もちろんそんな嘘は、時間の問題でいつかバレてしまうことです。でも、それで構いません。どちらにしろ、わたしたちの作戦は夏までの約四か月間。その間だけ騙せればいいのです。

 もっと言えば、仮に途中でバレてしまったとしても、いくらでもリカバリーはできる。


 ただ、やはり。少なくとも最初のうちだけは。わたしのことを妹だと思ってくれていた方が、わたしたちの作戦にとって、とても都合が良いのは確かなのです。

 なぜなら、璃子が約束を守ってまた妹として生まれ変わってくれた――そう兄さんが思い込んでくれれば、自然と兄さんは、わたしとの約束を果たすため、この世界でまた甲子園を目指してくれるはずだからです。本気で、絶対、甲子園にたどり着いてくれるからです。


 兄さんが甲子園に行ってくれること、それこそが、わたしたちの作戦のゴールなのですから。




 その瞬間は、突然やってきました。


 魔物さんとの邂逅かいこうから一週間後、わたしの頭の中で、急にある変化が起きました。

 この世界での自分の姉の顔が、突然舞香ちゃんの顔に変わり、そして以前の姉の顔なんて全く思い出せなくなって。

 百乃木舞香から写真や動画で見せてもらっていた、少し威圧的で怖い感じだった(気がする)山田久吾の顔が――あの優しくて、いつもわたしを愛してくれた、愛しの兄さんの顔に変わって。


 この世界に、兄さんがいる。


 まだ会ってもいないのに、それがまるで元からの常識であったかのように、わたしの脳は認識してしまっていたのです。

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