第52話 愚妹(前編)

 小さな兄さんが小さなわたしのほっぺをツンツンして「モチモチでかわいい」と言ってくれた。それがわたしの中の最も古い記憶です。


 たぶん、あの日からずっと。兄さんの一番になることだけが、わたしにとっての全てで。 それなのに、兄さんの一番は、ずっとずっと、舞香ちゃんで。


 だから、わたしは一番になるという目的のために、何もかもを使わなくちゃいけなかったのです。約束も、甲子園も、妹も、キスも、えっちも、そして結婚でさえも、わたしにとっては、兄さんの一番になるための、手段に過ぎませんでした。


 だからこそ。兄さんには絶対甲子園に行ってもらわなければいけないのです。




 兄さんに結婚はできないと言われてしまったのは四歳のころ。ショックでしたけど、でも、それは舞香ちゃんも同じだということに気づきました。舞香ちゃんに一番を奪われないのであれば、わたしも結婚という手段にこだわる必要はない。しかも兄さんは、舞香ちゃんとの甲子園の約束を、忘れてしまっていたのですから。


 チャンスでした。わたしは兄さんと「何度生まれ変わっても妹になる」と誓って、そして「甲子園に連れていってくれる」という約束を結んでもらえたのです。


 これで、わたしが兄さんの唯一無二になれると思った。兄さんが人生をかけて野球に打ち込むのは、全部わたしだけのため。永遠の妹という、兄さんの一番の存在になれると、幼き日のわたしは信じて疑いませんでした。


 でも、すぐに気が付きます。お下がりは、結局のところ、どこまで行っても、お下がりでしかないのだと。


 新しいお洋服をお披露目したとき、兄さんは絶対に「モチモチにピッタリで可愛い」と言ってくれる。でも、舞香ちゃんのお下がりを着たって、兄さんがそんな風に褒めてくれるわけがありません。だって、あのセーターもパーカーも、元は全部舞香ちゃんのムチムチに似合うように選ばれたもので。わたしのモチモチに合うわけがないのです。他の人には違いがわからなくても、兄さんには無意識の内にわかってしまうに決まっているんですから。


 甲子園の約束なんて、舞香ちゃんのお下がりに過ぎなかったんです。


 兄さんはずっと、「璃子を甲子園に連れていく」と言ってくれていましたけど、その実、野球をしているとき、つまりは春夏秋冬、兄さんが見ていたのは、舞香ちゃんただ一人で。

 わたしはずっと、「兄さんの甲子園への道をお手伝いします!」だとか言っていましたけど、その実、兄さんが頑張っているとき、つまりは朝昼晩、兄さんを支えていたのは、舞香ちゃんただ一人で。


 気づいていた。わたしはずっと蚊帳かやの外だって。

 見せつけられた。約束なんてなくても、忘れられてしまっても、本物の絆は成立してるって。

 悟ってしまった。わたしを甲子園に連れいていくという約束は、二人がイチャイチャするためのダシにされているだけなんだって。


 ねぇ、兄さん。

 兄さんは、気づきもしませんでしたよね。わたしの病気が見つかって、入院が決まって、兄さんと舞香ちゃんがお見舞いに来てくれるたびに、わたしが死ぬほど苦しんでいたことを。

 兄さんと舞香ちゃんは、わたしの心配をするふりをして、イチャイチャするんです。

 兄さんが悲しめば悲しむほど、それを舞香ちゃんがキモキモ献身ツンデレで慰めてくれるって、知っているはずですよね? 本能的にわかってて、悲しんでいるんですよね?

 結局、わたしの病気でさえ、二人はイチャイチャのためのダシにしてしまうんです。




 わたしと兄さんに血の繋がりがないと、病室に来たお母さんに聞いた瞬間だけは嬉しかった。希望が見えた。永遠の妹だなんていうものが、使えない手段だとわかってしまったから、それなら今度こそ結婚という手段を使ってやろうと、一瞬は思えたのです。


 でもやっぱり、無意味でした。いえ、むしろ状況はさらに悪くなりました。


 だって、舞香ちゃんも兄さんと結婚できるということだったんですから。

 同じ条件だったら、わたしは舞香ちゃんに勝てない。結婚という手段を渡してしまえば、舞香ちゃんは必ず兄さんの一番をものにしてしまう。

 端的に言って、ゲームセットです。


 だから、舞香ちゃんと兄さんに、このことだけは知られるわけにいきませんでした。

 まぁ、それを口止めしたところで、状況は何も変わらないんですけど。




 わたしの病室での憂さ晴らしは、舞香ちゃんがカクヨムというサイトに投稿しているキモキモ自己投影恋愛小説にアンチコメントを書き込み続けることでした。そもそもわたしくらいしか読んでいないような超不人気小説でした。☆を一つ入れることでボロクソレビューも書いてやりました。

 舞香ちゃんからの返信コメントとレスバを繰り返し、コメント欄での罵詈雑言のやり取りが小説本文並みの文字数になっていました。

 性描写のつたなさをコメント欄で煽りまくることによって、敢えて小説内での『久吾』と『舞香』の性描写シーンを過激にさせ、それを運営に報告することで、強制BANにまで持っていったときにはドーパミンがドバドバあふれ出ました。人生で一番気持ちよかった。


 そもそも、舞香ちゃんが悪いんです。

 『久吾』と『舞香』というキャラにイチャイチャさせるというキモキモ発想は一億歩譲ってまだ理解できるとして、『璃子』というブラコン妹キャラへの、ざまぁ展開のレパートリーの豊富さにはさすがに怒りが止まりませんでした。そんなことで自己満足してるとか、実の姉ながら、あまりにも陰湿すぎてドン引きでした。


 でも、わたしが「あんな発想」に至ってしまったのも、いま思い返せば、そんな姉の陰湿さに影響されたからなのでしょう。


 お母さんからお母さんとお父さんのお仕事を聞いて、お父さんに野球ゲームを作っていると自慢されて、そしてわたしは頼んでしまったのです。

 わたしたちと兄さんに血の繋がりがないと知ってしまったことも一つの理由だったのかもしれません。舞香ちゃんがいつか兄さんと結婚する未来が見えてしまって、気持ちのやり場がなかったのです。

 直前に、眠ったふりをするわたしのすぐ横で、痴話喧嘩風イチャイチャからのツンデレ仲直りイチャイチャを繰り広げられたことへのイラつきもあったのでしょう。


 まさかお父さんが本当にわたしのお願いを聞いて、野球ゲームのキャラに『久吾』と『舞香』なんてキャラを出してくれただなんて、生きているころのわたしは結局知らないままだったんですけど。


 まぁ、どちらにしても、ただの自己満足。自己満足だと、思っていました。


 あの日、病室で、迫る夏の大会に向けての話をしてくれた兄さん。野球バカな兄に呆れるような顔をしながら、自分がそんな野球バカを支えているということに、どこか誇らしげな舞香ちゃん。

 きっと二人は「璃子のため」なんて口実のもと、甲子園に行って、夢を叶えて、プロに行って、そのタイミングでお母さんとも再会して、きっと時間の問題で自分たちに血の繋がりがないことも知って、結婚して、お互いを永遠の一番にしてしまう。


 ついに、そう悟らざるを得ない瞬間でした。

 九回ツーアウトからの逆転劇なんて起こらない。わたしは全てを諦めて、ただただ舞香ちゃんと、そして兄さんを、恨んでしまった。


 それでも、いくら恨んでも、兄さんへの想いがなくなるわけなんてなくて、久しぶりにパワプロくんで兄さんとわたしを育成しようと思い立って、兄さんのアカウントにログインし、購入履歴から、ふと、見知らぬ野球ゲームを目にした――ところまでが、あの世界での最後の記憶です。


 それからのことは何も覚えていません。




 気づいたときには――というのは正確じゃないかもしれません。そこまで鮮明な意識があったわけじゃありませんから。

 でも、今思い返すと、確かにあるんです。

 わたしが死んで、そしてこの世界に生まれ変わるまでの間――その二年間に、部屋に引きこもる兄さんのおそばに、ずっと自分がいた記憶が。


 いわゆる、幽霊というものだったのでしょうか。呼び名はわかりませんが、わたしはずっと兄さんのことを見ていました。

 おぼろげな自己認識の中で。それまでに見たこともない兄さんを。あれだけ夢中だった舞香ちゃんのことも野球のことも忘れて、わたしだけに執着する兄さんのお姿を。

 それを目の当たりにして、幽霊だった自分がどう思っていたのか――それは思い出せません。

 でも、思い出せなくたって、わかる。決まってる。

 嬉しかった。幸せだった。だって、わたしはそんな兄さんだけがずっと欲しかったんですから。兄さんの中で、そんな存在になりたかったのですから。

 舞香ちゃんには、ざまぁですね。わたしが死んだことで、兄さんを独り占めできると、ほくそ笑んでいたんでしょうけど、真逆でしたね。舞香ちゃんは、死んだわたしに兄さんを奪われた。一番の座を、さらわれた。


 わたしは、死ぬことによって、初めて兄さんの、一番になれたのです。


 甲子園も、約束も、妹も、何の役にも立たない手段だったわけです。

 兄さんは結局、甲子園には行けなかった。約束を果たせなかった。わたしはそもそも実の妹でもなければ、義理の妹でいることさえできなかった。約束を破った。


 それでも、一番になれました。


 わたしが兄さんの一番になるためのたった一つの手段は、死ぬことだったのです。

 血が繋がっていれば大切な妹でいられるだとか、血が繋がっていなければ結婚できるだとか――そんな究極の二択ですら、何の意味も価値も失うくらいの、決定的な一撃必殺。


 死んでしまえば全てがくつがえる。逆転満塁サヨナラホームランを、わたしはかっ飛ばしたのです。




 それなのに、そんな幸せは、唐突に終わりを迎えてしまいました。


 わたしは、お父さんとお母さんが作った野球ゲームの中に、入ってしまったのです。

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