第35話 合宿

「合宿ぅ?」


 ゴールデンウィークの練習試合から一か月がたった。


 その間も俺たち祢寅学園野球部はハードなウエイトトレーニングを続け、全部員が大幅な筋肥大、筋力向上を実現している。練習試合も連勝中だ。(ちなみにベンチ裏のスペースがある公営球場でのみ俺が先発し、学園グラウンドでの試合は野茂が先発している。)


 部内の士気もますます高まり、俺や野茂だけでなく、全員が本気で甲子園に行けると思い始めている。

 与儀のキャッチャーミットも相変わらず良い音を立てて俺の剛速球を受け止めてくれている。与儀自身、最近相棒の質感や色合いに味が出てきたと誇らしげだった。毎日の手入れの賜物たまものだろう。親父さんもきっと天国で微笑んでいるはずだ。


 そんな、何もかもが順調に進んでいたある日のトレーニングルームにて。スクワットのインターバル中に、妙な話を持ち込んできたのは、


「そうなのよ。あたしは悪い話ではないと思うのだけれど」


 サラサラの黒髪ロングがよく似合う美少女、この世界のメインヒロインさんこと、佐倉宮琴那だった。


「いや、今年はやらんって言ってるだろ。合宿なんて『やった感』得られるだけで、実際は何の意味もねーんだから」


「そうかしら」


「そうだろ。どっちにしろ、俺らのハードなトレーニングなんてそんな長時間はできねーんだ。短時間で追い込んで、さっさと帰って、できるだけ長く寝る。翌日もベストな状態でトレーニングに臨む。これが一番」


 冷静な態度でそう説明しながら、俺は内心バクバクだった。


 何なんだ、こいつ……。せっかく避けた合宿を、今さらになって何故また蒸し返してくる?

 まさか、これがNTRメインヒロインという存在の、本質なのか? 意地でもNTR展開に近づきたいのか?


「そう、分かったわ」


 しかし、佐倉宮はあっさりと頷き、


「久吾君がそう言うのであれば、あたしもそれを信じる。生徒会には、あたしの方から断りを入れておくわね。あ。あと今度二人で話したいことがあるから、時間を作っておいて」


 そう言い添えて、さっさと他の部員のフォーム撮影に向かってしまった。


「何だったんだ……」


 彼女が言っていた通り、もともと生徒会側から提案があったそうだ。これから夏予選が始まるまでの一か月強の間に、学園内合宿棟を野球部で使ってみてはどうか、と。

 ゴールデンウィークは野球部が辞退したおかげで別の部が使えたということもあり、利用希望団体のない七月中旬までは是非、という話だったらしい。

 そりゃ、夏休みまでは連休もないし利用したい部なんてないだろうが、それは野球部だって同じだ。例年だってそうだろうに、なぜ今年に限ってそんな提案を……。


 よくわからんが、まぁ、こうやって断ればいいだけの話だし別にいいな、うん。

 そんなこと気にしてる暇あったら、1レップでも多くスクワットだ!


      *


「が、が、が、合宿ぅ?」


 翌日。トレーニングルームにて。ミリタリープレスのインターバル中に、妙な報告をしてきたのは、


「はい、決まったらしいです。琴姉ことねぇが言ってました。監督も了承済みとのことで」


 野球部のくせに前髪サラサラの頼れる二番手投手、この世界の主人公くんこと、野茂誠だった。琴姉……! 寝取られそうな呼ばれ方しやがって……!


 いやマジで。何なんだよ、これマジで。マジめんどくせぇよ……。


「何だそれ、あのじじぃ勝手なことしやがって。え、決定なのか?」


「はい、練習試合の連勝で、僕らが本当に甲子園に行けるということを理解し、学園側も本気でバックアップに乗り出したんでしょう。学園がその気なら監督は断れないですって。もう七月中旬まで日程は押さえ済みです」


「だから長ぇって……」


「まぁ、休日だけの使用とかでもいいのでは? そこら辺の方針は僕も琴姉もキャプテンの決定に従いますが」


「いや、いらねーんだって、一日も……」


「でも皆さん、やる気になっていますし。ノリノリですよ。実は僕も」


 マジだ。こんなこと話している間にも、どんどんこの話が広まっているのか、トレーニングルーム内がザワザワし始めている。ていうか、はしゃいでいる。そういや、こいつら、俺が合宿廃止したときにはやたら残念がってたもんな。


 は? 何で?


 こんな性欲の塊のような連中がやりたがる合宿って……は? うちの女子マネは璃子と舞香と佐倉宮だけなんだが? 俺が璃子と舞香をお前らと同じ建物内に泊まらせるわけねーだろ? NTRを回避するために、佐倉宮も泊まらせねーだろ? つまり、女子は不在なんだが? こいつらなに期待しちゃってんの? 璃子や舞香でシコっただけでも殺すからな、マジで。


 でも、そっか。女子マネ不参加なら、特別問題もないわけか。合宿なんて意味がないというのは本心だが、まぁこいつらのモチベーションが上がるというなら勝手にやらせとけばいいか。


      *


「赤ちゃん。あと二か月で赤ちゃん」


 なに言ってんだこいつ。


 金曜日、夜8時。

 自宅へと家族二人を送り、そして引き返そうとすると、舞香が背中にしがみついてきた。「離れなさい、淫獣いんじゅう」と言いながら璃子が舞香の足首を蹴り続けている。

 週末は毎晩玄関でこれを繰り返すことになるのかと思うと頭が痛くなるんだぜ!


 俺はこの後も学園に戻り、トレーニングをしなければならない。妙に張り切ってる部員共がオーバーワークしないかの監視も必要だ。こっからの時間はマネージャーも見てくれないわけだからな。


「でも、やっぱり良かったじゃないですか、兄さん。有意義な合宿になっていますね! 愚妹は、兄さんに迷惑をかけるゴミ守備野手どもに我慢がならなかったんです!」


 璃子が言うように、この合宿のおかげで、疎かにしていた守備練習の時間を確保できたというのも事実だ。

 暗くなるまではグラウンドでとことん守備練習、本来であれば帰宅しなければならないこの時間からのウエイトトレーニング――これは合宿だからこそ出来る時間の使い方だ。


 しかし、依然としてデメリットも大きい。と、俺は思ってしまう。


 やはりオーバーワーク気味になってしまう恐れもあるし、そうじゃなくても、守備連の疲労で、一番大事なウエイトトレーニングの質が下がってしまうかもしれない。

 遅くまでトレーニングしてもすぐ爆睡できる俺みたいな人間ならまだいいが、覚醒してしまって寝付けなくなるという奴だって多い。普段とは違う環境に泊まるとなれば尚更だ。


 正直、俺からすれば、この合宿を無理やり捻じ込んできた生徒会共には、無能な働き者といった印象しか持てないのだが……まぁ、せっかく高まってる奴らのモチベーションを削ぎたくもねーしな。それもこれも、可愛いマネージャー三人(+なぜか見学に来た生徒会長)が作ってくれた晩飯のおかげなのだが。


 とにかくそんなこんなで、慎重に様子を見つつも、この合宿を受け入れることにしたわけだ。


 しかし、さすがは舞香。有能マネージャー。やはりこいつも、こんな合宿には反対なようで、


「久吾と一晩も離れたくないんだもん……二か月かけてちょっとずつ赤ちゃん作ってくんだもん……ちょっとずつ妊娠してくんだもん……」


 新たな生命はそんなメカニズムでは誕生しない。ちょっとずつ妊娠って何だ。


「仕方ねーだろ。夏が終わるまでは我慢してくれ。ま、言っても週末だけの話だ。平日はちゃんとこの家で、この三人で、お前の飯を食わせてもらうぞ」


 頭を撫でながら、そっと二人を引き離す。嘘。そっとなんかで引き離せる二人ではないので、割と力入れて引き剥がした。


「じゃ、行ってくるから、二人仲良くな」


「待って、久吾。忘れ物」


 打って変わって冷静な声に振り向いた瞬間――唇に触れる熱い感触。62回目。飛び跳ねるように抱きついてきた舞香の、いってらっしゃいのキスだった。63回目。不意打ちは卑怯だ。また好きになっちゃうだろ。64回目。


「いやぁあああああああああ頭が壊れますぅうううううううう」という璃子の叫び。


 すまん。本当にすまん。これからは璃子の前では控えるようにするからな。

 67回目を終えた舞香は、潤んだ瞳で俺を見つめ、


「久吾を一番支えてるのは、私。甲子園の夢は、久吾と私で成し遂げるの。ね、そうだよね、久吾」


 先日の意趣返しとばかりに、強い語調でそう言う。


 俺は、静かに微笑みだけを返し、最後にもう一度二人の頭を撫でて、ようやく玄関を出る。


 正直なところ、それには「イエス」としか答えられない。だから璃子の前では何も言えなかった。

 野球選手としての俺に尽くしてくれているという点で、舞香に勝る存在なんてどこにもない。

 璃子と舞香を甲子園に連れていくとか言っているが、実際のところは、俺が舞香に連れて行ってもらうようなもんなのかもしれない。


 ま、とにかく俺のやることに変わりはねぇ。NTRゲーバレという恐れがついになくなった今、野球にだけ全集中できるんだ。


 鍛えまくって160キロ投げてやるからな!

 見とけよ、舞香、璃子! 待ってろよ、甲子園!


      *


「はぁ? お前、何やってんの……何でまだいんの……?」


 十数分後、俺が戻ったトレーニングルームでは、ジャージ姿の大和撫子さんが与儀のベンチプレスの挙上速度を測定していた。熱心なチーフマネージャーである。


 じゃ、ねーのよ。


「さっさと帰れよ、佐倉宮さん。夜は女子マネ不参加だって言ってるだろ」


「あら、別にいいじゃない。去年までは女子マネージャーも参加していたのだし。あなたが愛しの恋人や妹さんを参加させないというのは自由だけれど、あたしがそんなことまで指図される謂れはないわ」


 え、何だよ、その微妙にトゲのある言いぐさ。先月の勝利以来、俺たちかなりいい感じの関係築けてると思ってたのに。信頼寄せてくれてると自負ってたのに。

 とはいえ引き下がるわけにもいかない。万が一もないはずだが、億が一もあってはいけないのだ。


「そうは言ってもな、佐倉宮さん。そんなことしていたら、ほら。野茂だってあまり良い気分はしないだろうし。な?」


「……だから、誠のことは……」


 何かモニョモニョと口ごもる佐倉宮と共に、野茂の方を見やる。黙々と懸垂けんすいをしていた。非常に広い可動域で肩甲骨を柔らかく動かす、素晴らしいフォームだった。俺たちの会話などには全く気付いていない様子だった。

 鈍感んぅ……! そんなんだから寝取られるんだテメェは。


「まぁまぁ、山田も佐倉宮もそんなツンケンすんなって」


 そんな中、俺たちの間に入ってきたのは、祢寅学園野球部きってのお調子者であり正三塁手、金子哲也だった。エラーしたときと同様、今日もヘラヘラとしている。可愛くない。


「いいじゃんか、山田。泊まってもらおうぜ、佐倉宮にも」


 金子はヘラヘラと俺の肩に手を置き、


「オレたちだって佐倉宮のデカパイが近くにあった方が……ぐふふ! 夜のオカズにするくらい、佐倉宮もセーフだろ? なーんて、ぐふぅっ!?」


 俺の右ストレートが金子の腹にめり込んでいた。舞香が見ていたら、利き手を使ったことにガチ切れしそうだが、関係ねぇ。


 呻きながら崩れ落ちる金子。口を押さえて瞠目する佐倉宮。静まり返るトレーニングルーム。懸垂を続ける野茂。なんだこいつ。


 命乞いするかのような目の金子を見下ろし、俺は言う。厳格でありながらも、落ち着いた、重みのある声音を意識して。金子だけではなく、全部員に言い聞かせるように。


「いいか。佐倉宮さんに対するハラスメントには、いかなる理由があろうとも容赦しない。厳しく罰する。場合によっては強制退部もあると、心に留めておけ。わかったな」


 一斉に響く、震えたような返事。緊張感で張り詰める室内。懸垂を続ける野茂。


 体罰がどうだとか、そんな正論は知らん。野球でのミスはいくらしたって構わないが、倫理に反するような行為を俺は絶対に見過ごさない。決して練習試合での金子の糞プレーに溜まっていた鬱憤を晴らしたとかそういうわけではない。私情じゃない。俺は前世でも、舞香をエロい目で見た部員には普通にブチ切れてたからな。私情じゃない。教育。


 というよりも何よりも。野茂以外の人間が佐倉宮に手を出しかねない展開など、見逃せるわけがないのだ。

 佐倉宮に対するセクハラ行為は、絶対に許さない。


「きゅ、久吾君……ありが、」


「礼なんていい。当たり前のことだ。あのな、佐倉宮。さん。お前も今、金子の発言を苦笑いで流そうとしただろ。ダメだぞ、そんなんじゃ。嫌なことは嫌って……まぁ、こんな筋肉ダルマ共相手に言うのは難しいか……。じゃあこの先、部内で、いや部外でも、何かセクハラを受けたときには、即行で俺に報告しろ。すぐぶん殴りに行ってやる」


 俺の宣言に、佐倉宮は頬を染めて、「は、はい……」と頷く。


 よし、これでこいつからの信頼も回復したな。万事解決――だなんて、鈍感で楽観的な男ではない。俺は野球を辞めてから二年間、エロゲやギャルゲを嗜み続けてきた猛者なのだ。NTRものだけではなく、主にギャル系妹が出てくるゲームをやり込んできた。いわば恋愛マスター、ラブコメ上級者なのだ。


 今、佐倉宮との間にフラグが立ってしまった可能性くらい、ちゃんと把握している。だって頬染めちゃってるし。ポッとしちゃってるし。


 うん。


 やっちゃった。やっちゃったのよ。いやマジで何をやってんだ、俺!! バカかお前は!?


 いやいや、待て待て。今のはさすがに俺悪くないよな?

 俺は佐倉宮NTR展開を避けるために最善の手を打った。それなのに、この女がチョロすぎたのだ。合宿への積極的な参加といい、もうこいつ自ら寝取られに来てるだろ!


 ……まぁいい。ここは冷静になろう。焦る必要はない。ちょっとポッとされちゃっただけではないか。俺が何もしなければ何も起こらない。鈍感主人公っぽく振る舞えばそれで終わりだ。


 俺は一つ咳払いを入れることで、この話が終わったことを室内に示し、


「よし、トレーニング再開だ。野茂、お前は佐倉宮を家に送ってやれ。大切な幼なじみだろう?」


 うん、完ぺき。完ぺきな鈍感主人公。


「え? いえ、僕にはまだ懸垂が」


 なんだこの鈍感主人公。そんな腰に重りぶら下げて荷重懸垂してるラブコメ主人公いねーんだよ。


「もういい、懸垂は。何セットやってんだお前。充分だろ」


「いえ、でもまだ逆手懸垂があるので」


 グリップや手幅変えて広背筋の鍛え分けするラブコメ主人公がいるか。そんなんだからいろんなレパートリーで寝取られるんだテメェは。


「仕方ないわよ、久吾君。誠って昔からこうだから。野球のことになると、あたしのことなんて目に入らなくなってしまうの」


 佐倉宮は微笑ましげに、しかしどこか寂しげに頬をほころばせ、


「そこまで言うなら、あなたが送り届けてくれないかしら、久吾君。話したいこともあると、伝えていたでしょう?」


 そう、上目遣いを向けてくるのだった。

 くぅ、ちょっと可愛い。舞香の五億分の一くらい。

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