第34話 一番

「いったん座れ舞香。璃子はかなり譲歩してくれているんだ」


「ふーっ! ふーっ! ふーっ!」


 もはや獣の呼吸をしている。羽交はがめで抑え込んでるだけで筋トレになる。


「そうですよ、舞香ちゃん。本来であれば、あなたの存在自体が卑猥極まりないんですから。結婚自体ありえないんです。そこをわたしは、エッチなことさえ我慢してくれれば甘んじて受け入れてあげると言っているんです!」


「お嫁さんになるのにエッチしないとか意味わかんないでしょ! じゃあどーすんの! 赤ちゃん! 久吾の赤ちゃん! 赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん! 赤ちゃん!!」


 なぁ、信じられるか? これ、普通の平日の、朝のリビングで巻き起こってる出来事なんだぜ? 登校前の、家族団欒の一コマなんだぜ? とりあえず一軒家でよかった。


「赤ちゃん、とか……っ」


 さすがの璃子も(元)実姉で義姉(未来)の猛獣化には気圧されてしまったのか、言葉を詰まらせる。悔しそう、というか、どこか思い詰めたように歯を食いしばり、


「と、とにかくダメなものはダメです!!」


「赤ちゃん!! 久吾の赤ちゃん!!」


「会話しろ舞香」


「わかっています! わたしだって、一生するなとは言っていません! 璃子はそんな愚妹ではありません!!」


 璃子が、初めて愚妹であることを自ら否定した。まぁ、愚妹じゃないしな。てか愚妹って何?


「期間を設けます! 甲子園です! 兄さんが甲子園に行くまでは――兄さんと舞香ちゃんはエッチなこと禁止です!! 野球に集中してください!! 璃子を、甲子園に連れていってくれるまでは!!」


「…………っ!?」


「赤ちゃん……」


 俺が「…………っ!?」ってやってるときは黙るんだよ、マイハニー。


 しかし、そんな舞香も、先ほどまでとは違い、すっかり大人しくなっている。

 璃子が提示した条件は、こいつにとっても許容範囲内であったのだろう。


「待ってよ、璃子。ま、野球に集中させるためってのは、私にもわかる。久吾が私とのエッチを知っちゃったら、絶対止まれないもん。私ら絶対相性抜群だもん。宇宙一だもん」


「相変わらずわたしを苛立たせる天才ですね、この赤の他人さんは」


「でももっと具体的に、正確に、ボーダーラインを定めてよ! 『甲子園に行くまで』って!? 甲子園出場が決まった段階ってこと!? 県予選決勝でうちの勝利が決まった瞬間に赤ちゃん作っていいの!?」


 その瞬間に出場取り消しだよ。


「それは……そ、そんな細かいことまでは、わたしには……」


 璃子はなぜか、モニョモニョと言いよどんでいる。こんな些細なことくらい、とりあえず適当に言っておけばいいと思うのだが。まぁ、ルールを定める側として、責任感があるのかもしれない。


「で、では、兄さんが甲子園に行って、最後の試合を終えて、この家に帰ってきた時です! それでいいでしょう!」


「はぁ!? 赤ちゃん! もっと早く赤ちゃ……でもそれはそれでいいかも……ロマンチックで熱い初えっちになりそう……赤ちゃん……絶対赤ちゃん……」


 なに言ってんだマジでこいつ。


 まぁ、でも。実は二人とも間違ったことは言っていないのかもしれない。少なくとも、俺にとっては有益な縛りだ。


 確かに璃子の言う通り、この夏を終えるまでは、禁欲をした方がいいのかもしれない。

 確かに舞香の言う通り、一度でも舞香と結ばれてしまえば、俺は溺れてしまうかもしれない。一日中、舞香とエッチし続けちゃうかもしれない。うん、しちゃう。


 そんなことになったら、時間や体力、活力を野球に注げられなくなるだけに留まらず、試合中の甘出し汁採取にも影響が出かねない。間男だから射精自体はできると思うが、余計な時間がかかってしまう恐れもある。


 甲子園での闘いを終えるまでは野球に集中しろ、という璃子のお叱りは、至極真っ当なド正論であった。


「よし、わかった璃子。俺たちは絶対、その条件を守る。璃子に認めてもらうために。璃子を甲子園に連れていくために」


「兄さん……まったく、それが当たり前なんですからね! ただ、あと一つだけ、条件を加えさせてください」


 プンプンと可愛く頬を膨らませていた璃子だったが、一転、神妙な面持ちになり、


「舞香ちゃんのおうちには、まだ挨拶に行かないでください。甲子園を終えて、わたしが二人の結婚を正式に了承する前に、他の人に認められてしまうというのは……やはり悔しいです。わたしが、一番がいいです」


「璃子……」


 そんな風に璃子が思ってくれることが嬉しい。これならばいつか、素直に祝福してくれる日も来るのかもしれない。


 ていうか、そっか、この世界での舞香のご家族――百乃木家にも挨拶に行かなきゃいけねーのか……。めちゃくちゃ当たり前だが、すっかり忘れてたぜ……。

 舞香ですら、未だ一度も帰ってねーし、会ってすらいねーんだもんな。一応、舞香に一度だけ百乃木両親と通話はしてもらったが、当たり障りのない会話で終わってしまった。

 ま、逆に言えば、それだけ放任してるくらいなんだから、結婚自体はあっさり認めてもらえるんだろうが。喋った感じ、ごく一般的な家庭の良心的な両親といった印象だったみたいだし。


「ま、そういうことですので!」


 照れ隠しなのか、大きな声で話題を転じようとする璃子。こういうとこ、実はちょっと舞香に似てて可愛い。……似てるんだよな、やっぱ。


「この話はこれで終わりです! 兄さんも舞香ちゃんも、早く準備しないと遅刻しますよ!」


 いやマジで割とヤバい。朝っぱらから長話しすぎた。


「待って待って、お弁当詰めてないってば。いーや。私、遅刻で。こっちのが大事」


 さすがは俺の食事管理に関しては妥協しないお嫁さん、舞香である。さっきまであんなに獣だったのに、理知的な顔でパタパタとキッチンへと駆けていく。これがギャップ萌えってやつか……。


 しかし、話が一段落して気付くが――誰も「もし甲子園に行けなかったら?」という確認はしようともしなかった。発想すらなかった。あれだけ赤ちゃん許可の詳細条件にこだわっていた舞香ですら、そんな前提は端から無いものとして扱っていた。


 俺が甲子園に行けると、璃子も、舞香も、心から信じてくれている。


 好きだぁ……!

 二人とも大好き。一番。これまでもこれからもずっと俺の一番。ちゅっちゅ。


「兄さん、久しぶりですね♪」


「ん?」


 玄関で靴を履く俺に、璃子がニコニコ笑顔で歌うように言う。


「二人っきりでの登校です♪ いつぶりでしょうか♪」


「まぁ……そうだな。いつも舞香がいるから」


 思わず、泣きそうになってしまった。璃子が思っているよりもずっと、それは俺にとって、久々のことだったから。

 そんなこと、璃子は知らなくていいけども。


「じゃ、せっかくだし、ゆっくり行こうぜ。手ぇ繋いで。遅刻なんてどーでもいいしな」


「はい! お供します、兄さん!」


 そう言って璃子は俺の体にピタっとすり寄り、


「あ、その前に一つだけ、内緒話があります! 舞香ちゃんに聞かれてしまうとマズいので……」


 小さな璃子が必死に背伸びしてくるので、俺も屈んで耳を傾けてやると、


「ん♪」


「え」


 ほっぺに当てられる、プルプルモチモチな感触。ほんのりと湿り気を帯びていて、そこだけがポッと火照るように熱くなる。


「うふふ♪ 璃子の初キス、兄さんに捧げてしまいました。さっそく浮気しちゃいましたね、兄さん……♪」


「あ、あ、あ、あ、あ、あ」


 真っ赤な顔でニッコリと微笑む璃子。

 その可憐さに、天使さに、言葉を失ってしまう。

 尊すぎる。妹すぎる。こんな天使にのめり込まない存在なんて、この世にはない。


「ねぇ、兄さん。これは舞香ちゃんに聞かれてしまっても何の問題もないので、大声で言いますね」


 そうして天使は、俺の左腕にムギューっと抱きついて、


「兄さんが甲子園に行くまで、兄さんを一番支えられるのは、舞香ちゃんなんかじゃありません。璃子です。兄さんの一番は、これからずっと。永遠にずっと。ずーーーーっと、この愚妹なんですから♪ 絶対忘れないでくださいね? 兄ーさん♪」

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