第29話 ヒロイン
とにかく、こんな状況じゃ、空いてる一塁はさっさと埋めちまった方がいい。
これはまぁ、相手側も想定内であろう。
三塁にランナーを置いてしまった時点で、俺が一番嫌なのは、セーフティスクイズだ。通常のスクイズと違い、打者がボールをバントしてから三塁ランナーがスタートを切る。普通ならアウトかセーフかギリギリのプレイになる作戦なのだが、うちの守備力を考えれば、ほぼ間違いなくセーフだ。
セーフティスクイズされた時点で失点確実、同点確定、実質敗北。
しかし、敬遠で満塁にしてしまえば、それを防げる。満塁であれば送球を受けたキャッチャーがベースを踏むだけで三塁走者をアウトにできる。タッチプレイが必要ない。この条件下なら、うちの内野陣でも警戒さえしておけばさすがに刺せる。セーフティスクイズで点は取られない。
だから、今。この一死満塁であるとするならば。
「普通のスクイズだな。決めつけるぞ。何球目かはわからんが、必ずどこかで三塁ランナーがスタートを切ってくる」
マウンドに集まる内野陣とキャッチャーに向かって、俺はグラブで口を隠しながら言う。さっきまで甘出し汁を仕込んだりしていたので若干匂う。
タイムをかけてまで俺がこいつらに伝えたかったことは、もちろんそれだけではない。
「絶対、一人もランナーは返さんぞ。そのために、特別シフトを敷く」
通常のスクイズは、投手の投球動作と同時にランナーがスタートを切るため、満塁であっても、バッターが転がしさえすれば、成功してしまう可能性が充分ある。(もちろんセーフティスクイズと比べてリスクも高いが。)
守備側がそれを防ぐためには、やはりバントシフトを敷く必要がある。が、俺たちはそんな練習していない。
だから俺は、セカンドの野茂に向かって、
「野茂、お前だけ思いっきり前進守備しろ。一塁側のバントは全部お前がさばけ。何があっても絶対ホームに送球すること。三塁側は基本俺が処理する。俺が打球に追いつけなかった場合に備えて、サードの金子も前進守備だ。お前が処理するのは、俺が間に合わんような、三塁線寄りのバントだけということになる。何があってもバックホーム。それ以外のことは一切考えなくていい」
もう、これしかない。まともな守備をできるのは野茂だけだ。バックホーム限定なら、左投げのデメリットも皆無だし。金子に関しては、プレイ機会があったとしても、正面にコロコロ転がってきたボールを取って、正面のキャッチャーに投げるということだけ。状況判断はいらない。これならば、さすがのこいつにとっても簡単だろう。
野茂が神妙に頷く。
「……わかり、ました。しかしやはりヒッティングの可能性もゼロじゃないと思います。セカンドの僕が極端に前に出るとして……ここは思い切って、内野五人シフトというのは?」
「いや、五人じゃ足りない。全員だ」
既に監督には指と目で合図を出している。全然伝わらずにポカンとされてしまったが、佐倉宮が読み取って通訳してくれた。外野手三人が下がり、一・二年の控え内野手三人が驚きの表情で俺たちの輪に加わる。
「マジですか、キャプテン……全員内野なんて、聞いたことないです」
野茂の言葉は尤もだが、だって仕方ねーじゃん。今のうちにとっちゃ、これが一番合理的なんだ。
「外野なんていても意味ねーからな。だって、外野にボール飛んだ時点で負けだもん。ヒットならランナー二人還って逆転サヨナラ。どんなに浅い外野フライでも、あいつらがタッチアップを刺せる可能性なんてほぼない。同点。追いつかれて延長なんて入ったらうちが圧倒的に不利だ」
「確かに……」
もちろん、まぐれで上手くいく可能性だって無くはない。が、そんな奇跡には賭けられない。
高校野球は、一度負けたら終わりなんだ。
「ま、お前らがやることはシンプルだ。バントをさばくのは俺と野茂だけ。万が一があるのも金子までだと思っていい。他の内野陣は、もしバットを振ってきた場合に備えて、等間隔で散れ。これだけ人数いれば、若干の前進守備をしてても間は抜かれねーだろ。頭を越されたら、それは俺の責任だ。お前らもゴロを捕ったら問答無用でバックホーム。迷うな。ランナーなんて見なくていい。状況判断なんて必要ない。しようともするな。何も考えず機械的にキャッチャーに投げるんだ。キャッチャーも確実に三塁ランナーを殺すことだけ考えればいい。ゲッツーなんて狙うな。確実に、できるだけ効率よく送球をキャッチすることだけに全力を注げ。その後のプレイなんてお前には存在しない」
普通の内野手であれば、打球の性質を見てから、セカンドゲッツーを狙うか、バックホームするかを瞬時に判断する。が、こいつらにそんなことをやらせても、ミスを誘発するだけ。そんなことに迷っているコンマ数秒ももったいない。とにかく、三塁ランナーを返さないことだけに集中してほしい。
「一点でも取られたらその時点で負けだと思え。わかったな、絶対三塁ランナーを殺す。ツーアウトになれば、あとは俺が何とかする。絶対勝つぞ!」
俺の言葉に、全員が力強く返事をし、そして指示通りのポジションに散っていく。
その特殊な守備陣形に、相手ベンチからざわめきが起こる。
――スクイズで来る。
俺には、その確信があった。
満塁でのスクイズは、やはり定石ではない。が、俺ら相手なら有効なのは明らかだ。
この回、俺はまだ三球しか投げていない。まともに打ちにこられたスイングはゼロ。球速自体は極端に落ちたわけじゃない。俺の様子がいきなりおかしくなったことに、相手ベンチはまだ気付いていないだろう。ここから六番以降の下位打線は、俺の球を一度も外野に飛ばせてすらいない。その気配すらなかった。
対して、こちら守備陣の酷さはもう既にバレバレ。
そしてここまでのバントを駆使した攻撃。
同点にさえ追いつければ、三・四番手にも優秀な投手が控えている。
強攻策よりも、やはりスクイズを狙ってくる可能性の方が高いと言えるはずだ。
そもそも俺だって、そっちの方が絶対嫌なんだから。ヒッティングで来てくれたら、どれだけありがたいかって話なんだから。チートなしだろうが死ぬほど疲れていようが、下位打線に打たれない自信ぐらい、俺にはあるのだから。
だから、スクイズで来る。
野球ってのは、相手が一番嫌がることを考えて選んで実行し続けるゲームだ。教育に悪そう。
まぁ、つまりは。俺がやることも決まってるってこった。
一番嫌がる球投げ続けてやんよ、雑魚バントちんぽ共がよぉ!
九回裏、一死満塁、一点差。同点にされた時点で負け。相手はスクイズで来る。
こんな状況で、俺が選択するのは、今の俺の中で一番バントをしづらいであろう球――
「ふんっ――!!」
もちろん高めのストレート!! インハイ!! 全力投球!!
そんな渾身の剛速球に対し、右打席に立つ六番打者は、
「――――、……マっジか、こいつ」
豪快な、フルスイングをしてきやがった。
キャッチャーミットに収まる白球。球審のストライクコール。打者方向に全力疾走していた野茂と、そしてやはり投球と同時に駆け出していた俺。多少ながらも前進守備をしていた内野陣。俺の独断でベンチに下げられた外野陣。祢寅学園野球部全員が、冷や汗をかいて目を見合わせる。「おい、クソキャプ。スクイズじゃなかったのかよテメェ。先月まで俺たちを散々いびってくれやがってよぉ。お? 急に真面目ぶったかと思いきや、何テメェだけ可愛い彼女作ってんだよ、舐めてんのかクソ包茎がよぉ!」みたいな空気が流れている。包茎は関係ねーだろ。勃てば剥ける。
しかし。しかし、これは。
「…………」
俺はさり気なく、野茂にだけ目配せをする。
「…………」
向こうからも微かな頷きが返ってきた。
間違いない。むしろ確信した。スクイズだ、やっぱり。
悔しそうに歯噛みするバッター。呆れたように下を向く相手監督。下手くそな演技だ。
あんなフルスイング、ブラフに決まっている。
外野には誰もいない。ハーフライナーが内野手の頭を超えれば、それだけで充分なのだ。逆転サヨナラ勝利確定なのだ。
強振なんて必要ない。必要ないのにしたということは、俺たちにアピールしたかったからに他ならない。
しかも、明らかにボールの下を振ってきた。前の打席までと比べて俺のストレートは伸びを失っているというのに、前の打席での空振りと同じくらい、バットとボールの距離が離れていた。空振りに終わるとしても、強豪の打者が本気でバットにボールを当てようとしてきたのであれば、こんなことが起こるとは考えにくい。
こいつは、わざと空振りしたのだ。次以降でスクイズをするために。俺たちの頭からスクイズを消すために。
これは、野茂以外には伝えなくていいだろう。こいつらには動揺を見せてもらっていた方が、相手を騙せる。俺たちを騙せているものだと、逆に相手を欺いてやるのだ。
要するに、俺がやることは変わらない。
引き続き、スクイズに備えて、剛速球を投げ続けてやるのみ!
「ボール! スリーボールワンストライク!」
「…………」
ピンチだった。死ぬほどピンチだった。
俺のストレートは三球連続ストライクゾーンを外れ、その全てを六番打者は黙って見送った。テイクバックした腕がピクリと動くことはあっても、バントの構えをする気配など1ミリも見せなかった。
は? え? スクイズ、だよな? スクイズしてくんだよな、こいつら? 絶対スクイズって言ったよなお前。おい、どうなってんだ、クソ包茎野郎。勃てば剥ける。
いや、もはやそんな場合ですらねぇ。警戒するあまり、ギリギリを攻めすぎた。疲労でコントロールが定まらない。
スリーボールって……。
つまりは、あと一つでもボール球を投げて見送られてしまえば、フォアボール。満塁だから、押し出し。一点が入る。同点。その時点で、勝ち筋はなくなる。敗北。佐倉宮との約束を破る。俺はそれまでの男。
結局は転生前の、女性を物扱いし、寝取り続けた極悪間男野郎と変わらぬ存在。
結局は転生前の、大事な人を裏切り、傷付け続けた最低引きこもり野郎と変わらぬ存在。
俺の第二の人生、これにて終了。
「はははは……」
乾いた笑いが漏れる。
ヤバい、限界かもしれん。
あ、俺いま、下向いてる? 両膝に手ぇ付いて? エースが? キャプテンが? 試合中に? マウンドで?
もうダメじゃん、これ。終わってんじゃん。負けてんじゃん。絶対やっちゃダメだろ。見せちゃダメだろ、こんな姿。
そんなことはわかっているのに、立てない。前を向けない。力が入らない。
……そっか、こんなもんだったんだな、俺って。思い上がってた。
そりゃそうか。よくよく考えてみりゃぁ、元から大したことなんてなかった。
身長も180弱じゃ武器にならんし、身体能力だって跳び抜けてたってわけじゃないだろ。小さい頃から野球のことばかり考えて、春夏秋冬朝昼晩野球漬けで、誰よりも野球に賭けてきたから、周りより完成するのが早かった――ただそれだけのことだ。
高校レベルで無双できたとしたって、もうそこで成長は止まってる。終わってる。ステージが上がっていけばいくほど、本当の天才たちに追い抜かれていく。プロのスカウトたちには、そんなこと一目で見抜かれてる。
転生してチート体質手に入れました? だから何だよ。筋肉デカくしたところで、結局お前なんかには使いこなせーんだよ。先に関節が逝く。靭帯や腱が耐え切れずにブチ切れる。周りから向けられる疑惑の目に、精神が持たない。身も心も壊れる。
もういいや。俺なんかには無理。もう全部諦めた。野球なんて大嫌い。調子こくなよ、大谷。
「めんどくせぇ……」
もうスクイズでもヒッティングでも押し出し四球でも何でもいーわ。てきとーに投げてさっさと得点献上して終わりにしよ。さっさと帰ってさっさと寝よ。シコる気力もない。
重い体を何とか起こしてキャッチャーからの返球を受け取り、緩慢な動きでセットポジションに――
「何してんだ久吾!! やる気あんのかヘボピー!!」
「…………は?」
――入ろうとしたタイミングで、謎の野次が飛んでくる。しかも、なぜか三塁側、自軍ベンチから。女の、憤りに満ちたような、叫び。
うちのベンチに女性なんて、佐倉宮しかいないはずなのに。
ベンチから身を乗り出すようにして、ジャージ姿の、金髪の、ちっこい女が。俺だけを見て、俺だけに向けて、溢れ返る怒りをぶつけていた。吠えていた。
「舞香……?」
舞香が、俺の恋人が、鬼の形相で、俺を睨みつけている。
「ふざけんなよマジで、私が世界一大好きな野球選手を貶してんじゃねーよ! 見下すな見くびんな舐めんな馬鹿にすんな! 私はね、久吾! 見逃し三振と水原一平と白血病と、そんで何より、あんたを過小評価する人間が、いっちばん大嫌いなの! いっちばん許せないの! 見せつけてやれよ! あんたが、世界一の野球選手だって!」
「――――」
舞香は、本気だ。本気の目と、本気の言葉で怒鳴っている。思っていることを、何のフィルターも通さずに、そのまま口から吐き出してしまっている。
佐倉宮や球審の制止も無視して、舞香はついに絶叫する。
「私を!! 世界一幸せにするんでしょ!! 今はたぶん二番!! 璃子に負けてる!! 私は!! あんたが一番じゃないと!! 一番になれないもん!!」
「何だあいつ、やべぇ……」
さっきまで必死で俺の精液掻き集めてたくせに……と、思わずドン引きしてしまったが、言ってること自体は正論だ。真実だ。反論のしようがない。
そうだったわ、確かにそうだった。
体が重いと思っていたが、勘違いだった。やっぱ全然そんなことなかった。疲れていたような気がしたが、気のせいだった。錯覚だった。自分はショボい野球選手だと卑下していたが、ただの謙遜だった。日本人的美徳でしかなかった。
本当の俺は、世界一の野球選手で、世界一かっけー、舞香の夫だった。
だって、チートだし。俺には、どんなドーピング野郎も、どんな転生なろう系主人公も、どんな大谷翔平も持っていない、唯一無二のチートがある。最強のドーピングがある。
俺には、世界一のヒロインがいる!
まぁ大谷にもいるか。あいつマジで俺と被ってんな。
とにかく。この俺が。舞香がいてくれる俺が、こんなところで負けるわけがなかったのだ。止まれるわけがなかったのだ。
「黙って見てろ、舞香! 濡れても知らねぇけどな!」
「――――久吾……っ……うん! もう濡れてる! ぐっちょぐちょ!」
もう濡れてるらしい。ぐっちょぐちょらしい。早く戻って何とかしてやらんと。
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