第28話 大ピンチ

 はっきり言って、大ピンチだった。


 予想通り、祢寅学園の攻撃で追加点は入らず、九回裏を迎えて2対1。点差は一点差。

 打順は二番から。上位打線――と言っても、そもそも俺はここまで全打者を、ほぼ完ぺきに抑えている。浮き上がるストレートと鋭いスイーパーに、全く付いてこられていないのが明らかだ。

 本来ならば、恐るるに足りない。八回までの俺だったら、余裕だった。一点差なんて全く問題ではなかった。


 しかし、今の俺は違う。数十分前までの俺と今の俺は、全くの別人だ。


 だって、本射精直後だし。ビュルルルルルッ!ビュルル!ビュル……ッ……ビュッ!!ビュルルルルッ!しちゃったし。


 想像してた以上の疲労感だ、これ……。ドーパミン出まくってたおかげで麻痺させてた投球のダメージが、堰を切ったように、どっと押し寄せてきた……。


 それに加えて――


「忘れてた……精液仕込むの忘れちまってた……」


 あまりに衝撃的な出来事の連続で、大事なことを忘れてしまっていた。これでは俺は、試合中ベンチ裏に引きこもって恋人とイチャイチャした挙げ句、ブルペンに精液ぶちまけてきただけの男じゃないか。


 そうだ、余り皮の中に余ってる汁があれば、マウンド上でさりげなく手を突っ込んで……いやダメだ、マウンド上でさり気なくパンツに手を突っ込んで余り皮の中の余り汁搾り取るなんて不可能だ。そんな離れ業できるんなら帽子のつばに精液塗るなんてこと初めからしていない。


 ちくしょう。粘着物質も無し。フィジカル面でも、一か月の増量分のパワー程度じゃ、この疲労のカバーには不十分。バックを守るのは、前世とは比べ物にならない穴だらけ野手陣。これじゃ、NTRゲー要素でチート無双どころか、現実以上のハードモードじゃねーかよ……!


「…………っ」


 ベンチをチラと見やる。


 もちろん舞香の姿はない。あいつには今、重要な仕事がある。登板を終えた俺の肩肘をケアするため、アイシングの準備をしてくれているはずだ。そうだと信じている。あのクーラーボックスはそのためのものだと俺は信じている。


 俺の目線に返ってきたのは、うちのチーフマネージャー、佐倉宮琴那の冷静沈着な目。

 そこに込められているのは期待でもなければ、かと言ってもちろん、侮蔑でもない。フラットだ。今の彼女は、公平公正な立場で、結果を観察している。見極めようとしている。本当に俺が、信頼に足る人間なのかと。約束を守れる、リーダーなのかと。


 この試合に勝てなければ、俺は部を、学園を去ると宣言した。おそらく、仮に勝利をつかめなくても、彼女は俺に退部も退学も求めてはこないだろう。だが、信用は裏切ることになる。彼女自身がそれを大きな問題として捉えなかったとしても。俺にとっては、とても許しがたい現実となる。


 俺は、約束を守れない男が、大嫌いだ。もう二度と、そんな男にはなりたくない。舞香の夫として、そんな男は相応しくない。


 甲子園だとかプロだとか言ってる場合じゃなかったのだ。あと1イニング、残りアウト3つ、何があっても無失点のまま奪わねぇと、この人生はここでゲームオーバーみてぇなもんだ……!


 二番打者が左打席に入り、球審からついにプレイがかかる。

 キャッチャー与儀からのサインは、高めのフォーシーム。

 まぁ、そりゃそうなる。この打者は特に俺のストレートに対応できていない。スイーパーに関しては、そもそも甘出し汁がなければ、そこそこ速くてそこそこ曲がる横スライダーでしかない。

 この回――ラストイニングは、基本、ストレートだけで抑えるしかない。しかも甘出しチートは無しで。疲労困ぱいの状態で。


 うーん、きっつい。


 だが、仕方ない。うん、そうだ、俺は元から一流のピッチャーだったじゃねーか。チートなんかなくても甲子園に行くつもりだった。

 こんなスクワットも浅そうな奴らに、打たれてたまるかよ、俺のストレートが!


「――――ふんっ!!」


 粘着物質なしで投じた、今日初めてのストレート。その感触は、思いのほか悪くなかった。実際問題として、前世での二年半、そしてこの一か月で身につけた筋肉は、不正物質なんてなくても確かにそのパワーを指先にまで伝達させていて――


「あぁん!?」


 真ん中高めに伸びていった直球は、バッターがスッと静かに構えた横向きのバットにコツンと当たり――三塁線ギリギリをコロコロっと転がっていった。


 セーフティバントである。


 慌てたようにボールへと走り出す三塁手の金子。いや今日二回目だろ、サードへのセーフティ! 警戒しとけよ、アホ!


「いい! 見送れ、金子!」


 俺の叫び声で、両足に急ブレーキをかける金子。

 捕ったところでどうせ間に合わん。無理に送球して暴投になったら最悪だし、もしかしたらこのままボールがファウルゾーンに切れてくれる可能性だって――


「ちっ」


 思わず舌打ちが漏れてしまう。

 白球はそのまま真っすぐと転がり、ゆっくり弱々しく、サードベースに当たってストップしてしまった。フェアである。絶妙すぎるバントである。

 当然とっくに一塁を駆け抜けているバント野郎。沸き立つ相手ベンチ。てへ、と舌を出す金子。可愛くない。

 ちくしょう、強豪の奴ら、バント練習なんかに時間かけやがって。そんな暇あったらスクワットしてろスクワット。


 同点のランナーが出てしまった。ノーアウト一塁。迎えるのはプロ注目の三番打者。

 サインはまたもやストレート。当然、首を縦に振る。高め目がけてクイックモーションで投げるも――


「走った!!」


 一塁手の木梨が叫ぶ。ファーストランナーがスタートを切りやがった。盗塁だ。

 バッターは小賢しくも、ボールの下をスイングしてくる。ボールをキャッチした与儀はいつものぎこちない動きで二塁へと送球し、


「ちっ!!」


 長く伸ばした俺の左腕。そのグラブで、送球をキャッチ。カット。それで終わり。めっちゃ逸れてる。タイミング的にも間に合わん。意味ない。

 またもや沸き立つ相手ベンチ。てへっと頭を掻く与儀。おい、天国の与儀パパ、お前キャッチャーミットとかどうでもいいから、こいつにスキンケア商品買い与えろ。ニキビ顔でこんな面されてもイラッとしかできねーんだよ。可愛くない。


 ノーアウト二塁。同点のランナーが得点圏に。うちの外野陣じゃホームでランナーを刺すなんて無理。つまり、守備範囲の狭い内野手の間を抜けたりするだけで、たちまち同点。


 やっぱ結局、三振狙いだよな……。


 とはいえ、今の俺にはあの浮き上がるような甘出し直球はない。こうなったらもう、厳しいコースを突いていくしかない。

 うん、大丈夫だ、俺。元々のお前はコントロールも一流だったろ!


「フンヌっ――!!」


 インコース高め、ストライクゾーンぎりぎりに、渾身の直球! よっしゃ、悪くない! ドラフト候補と言えど、高校生が140超えのインハイをそうやすやすとは――


「うぐぅ!」

「…………」


 崩れ落ちる打者。呆然とする俺。球審の「ヒット・バイ・ピッチ!」というコール、一塁方向への指差し。与儀の「あれま」といった表情。可愛くない。


 デッドボールだった。俺の投げたボールが、右打者の左肘に直撃していた。


 いやいやいやいや! 今こいつ、微妙に肘出してきたよな!? 確かにストライクゾーンはちょっと外れちまったけど、当たりにいかなきゃ当たらんとこだぞ!? 当たったのもエルボーガードだったろ、なに崩れ落ちてアピールしてんだ、こいつ! 仕事しろ審判!


「ちぃっ!」


 俺は思いっきり舌打ちしながら帽子を取り、プロ注劇団員に頭を下げる。彼もこちらに軽く手を上げ、「気にするな」といった感じの微笑みで一塁へと走っていった。可愛くない。


 こいつら……ガチで勝ちにきてやがる……! 無名弱小学園相手の練習試合で、ガチのガチだ! どんな手使ってでも、勝つつもりだ!


 ノーアウト一・二塁。逆転サヨナラのランナーを抱えて迎える四番打者――と、思いきや、


「代打ぁ?」


 出てきたのは、大柄なあの四番打者ではなく、小柄で細身な背番号14。


 ちっ、そう来たかよ。まぁ、そうなるか。


 内野陣にアイコンタクトを送る。わかってるな? の合図だ。マジで余計なことすんなよ、下手くそなんだから。


 俺は、またもやインハイにストレートを投げ込む。あわよくば、相手が勝手にミスってくれることを期待して。


「ちぃっ!!」


 またもや舌打ち。そして案の定、またもやバント。今度は確実にサードの正面へと転がす送りバント。

 四番のパワーヒッターを下げてまで、バント職人っぽい打者を出してきた。そこまでして、奴らは同点のランナーを三塁に、逆転のランナーを二塁に進めたかったのだ。定石と言えばめちゃくちゃ定石通りな選択ではあるが、もはや隠そうとすらしていなかった。

 こんなあからさまな送りバント、前世でのうちの内野陣なら、完成されたバントシフトで華麗に打球をさばき、二塁走者を刺すことも狙えただろう。

 だが、今のうちの奴らにそんなことは求めない。出来もしないことは初めからやろうともさせない。


「金子、一塁だ!」

「ふぃ!」


 前々から言い聞かせている通り、サードの金子は端からランナーを無視して、ボールを確実に捕って確実に一塁へと放った。確実に放ったにもかかわらず、ちょっと逸れていた。一塁手が伸ばしたミットに何とか収まり、打者走者はアウト。

 いっちいち冷や冷やさせんなや、下手くそ! あと投げるとき漏れる声が可愛くない。


 これで一死二・三塁。内野を抜ければ二人が還り、逆転サヨナラ。


 ていうか実際のところは、一点でも入って同点になった時点でゲームオーバーだ。だって、


「…………っ、くそ……っ!」


 だって、疲労がヤバい。延長戦なんて無理。対して、向こうには全国レベルのピッチャーがまだまだ控えている。ここでゼロに抑えて試合を締める以外に、勝ち筋なんてない。


 こうなったら、もう、今やれる戦術は、ただ一つ。


「じじぃ、申告敬遠だ!」


 五番の君とは勝負しません。満塁策です。


 俺の指示通り、監督が球審に申告し、五番打者を一塁へと歩かせる。

 俺がこの一か月で作り上げてきた、包容力抜群で器の広い人格者キャプテン像がどんどん崩れていく。仕方ない、そんな余裕なんてない。

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