第26話 約束
二分がたった。
俺は額を押さえたまま壁にもたれかかり、舞香は俺のユニフォームから力なく手を離して、プラーっと立ち尽くしている。
え? てか、は? どういうことだ?
璃子と交わしたはずの、甲子園に連れていく約束……それが、ホントは舞香と結んだもの?
は? いやそんなわけねーだろ。だって俺は、14年前のあの日、甲子園球場で、確かに璃子と約束したんだ。そして璃子も、何度生まれ変わっても俺の妹になってくれると、お返しの約束をしてくれた。
つまりは、じゃあ。その相手が璃子ではなく、舞香だったってこと?
は? いやいやいやいや。ない。それだけは絶対ない。そんな勘違い、俺がするわけねぇ。
「2009/08/24」
「は? いきなりそんな謎の数字並ばされましても」
俯いたまま、ポツリと言ってくる舞香。もはや不気味。
「02101000000612105×」
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い。何だお前それ、呪いの数字か何かか」
「9対10」
「いや、だから…………ん? 9対10って……んん? さっきの数字、最後が、5? で、×って……」
「日本文理 対 中京大中京」
その最後の言葉で、こいつが何を言い表したいのかはわかった。
前世での、15年前の夏の甲子園、決勝戦のことだ。
確かにあの試合は凄まじかった。
戦前の予想では、名門中京大中京が圧倒的に有利と言われていて、実際の試合も八回終了時点で4対10と中京大中京が大きくリード。九回表の日本文理の攻撃も二死走者なしまで追い込まれ、中京大中京の優勝まであとアウト一つ。高校野球弱小県、新潟代表日本文理の大健闘もここで終わり――と、誰もが思ってからが、凄かった。
日本文理の攻撃が、終わらない。
繋いで繋いで繋いで繋いで、繋ぎ続けて、彼らは5点を取った。堅守の中京大中京の守備陣に、神様のイタズラのようなミスも起こった。
そして9対10、ついに1点差。同点のランナーが三塁に、逆転のランナーが一塁に。八番打者の放った痛烈なライナーが――神様のイタズラのようなミスを犯した三塁手のグラブに、神様のイタズラのように真っすぐと吸い込まれる。
ゲームセット。日本文理の奇跡のような猛追はあと一歩及ばず、中京大中京が高校野球の頂点に立った瞬間だった。
――という、高校野球の歴史に残るような伝説の決勝戦だったわけだが、
「それが、どうしたっていうんだ……?」
「ほら、忘れてる」
いやめっちゃ覚えてるやん。めっちゃ詳細に覚えてたやん、試合展開まで。
当時の俺は……15年前だから、5歳か。ってことは、ちょうど野球始めたかどうかって頃だぞ?
そんなガキが夏休みにテレビで見てた野球の試合の詳細を……
「ん?」
「ほら」
あれ? 何だ? 何かおかしいぞ確かに。テレビ? 俺、あの試合、テレビで見てたか?
あ、でもそうだ。記憶がある。中京大中京のサードが、あの平凡なファウルフライを落とした――あの光景を、俺は、上から見下ろしていた気がする……。
そうだ。あの日の俺には、いつでも大きなお兄さんのはずだった甲子園球児たちが、妙に小さく見えていたんだ。炎天のもと、麦わら帽子を被り、妹の小さな手を握って、
「あ! 妹の小さな手握ってる! 炎天のもとで!」
「はい、これが炎天のもとで握られていた妹の小さな手です」
「本当だ……スベスベだ……成長してるけど、あの日と変わらぬスベスベお手手だ……あとお前、甘出し汁触った後はちゃんと手ぇ洗えよ」
液化した後は拭うだけで落とせるところが俺の甘出し汁の利点なんだからよ。そもそもお前が甘出し汁を触る必要性は皆無なはずなんだが、まぁ野暮なことは言うまい。
「そうか、俺、初めて行った甲子園は15年前だったんだな」
「あんときは璃子はまだ小さかったから、久吾と私とお父さんだけだったけどね」
てっきり翌年の、璃子と母さんも含めた五人で行ったのが初めてだと思い込んでいた。
何で忘れてたんだろう。まぁ5歳の頃の話だし、忘れることも……いや、でも。試合展開に関しては、かなり具体的に覚えている。
じゃあ、何で――
「なかったことに、しちゃったんだよね、久吾は」
「どういう……」
「守れない約束をしちゃったから。ううん、そもそも初めから成り立ってないような約束だったから。きっと、忘れるしかなかったんだ」
自嘲めいた表情で、舞香はそう言う。
「それが、俺がお前とした、甲子園に連れてく約束ってことか? ん? 守れないって何だよ。成り立ってないって……意味わからん」
俺は璃子を亡くしたあの日まで、本気で甲子園に行くつもりだったし、現実的な話として、行けると思っていた。2年前に放棄するまでは、守れないだなんて思ったことがない。
「守れないよ。守れないじゃん、だって。久吾が守ってくれても、私が、守れない。だって。だって、妹は、お嫁さんになれない」
「は?」
舞香が、守れない? 「俺が約束を果たせない」って話ではなかったのか……ってか、およめさんて。
およめさん……およめさん? お嫁さんって言ったのか、今こいつ。そんな言い回し、現代のいい大人が使うようなもんじゃないだろ。お嫁さんって……お嫁さん。
お嫁さん、お嫁さん……お嫁さん?
「お嫁さん…………え、あ。え? あれ?」
「甲子園つれてってくれたら、久吾のお嫁さんになったげるって、約束したじゃん。あの日、甲子園で。誓いのチューもしてくれたじゃん。でも、そっか。そりゃ約束忘れちゃったんだから、キスも覚えてないよね」
「マジかよ……」
いや、マジだ。舞香が口元に笑みを貼り付けながら、目を潤ませている。
璃子との約束を自分のものだということにするため、芝居を打っている? わけがない。
そんな器用なこと、璃子ならともかく、こいつにできるわけがない。手先は器用な舞香だが、恋愛の駆け引きにおいてこんなに不器用な奴もなかなかいない。だから俺たちはこんなにも拗れてきてしまった。
いや、それも違うか。
器用だとか不器用だとかいう以前の問題。恋愛が得意だとか不得手だとかいう次元の話ですらなかったのだ。
俺たちは、恋愛をしてはいけない関係だったんだから。
俺たちの約束――つまりは、結婚の約束――だなんて、初めから成り立ってすらいない――確かに、舞香の言う通りであった。
「幼稚園でさ、言われたの、覚えてない?」
「…………。……ああ、そっか。あれがショックで、たぶん俺は……」
なかったことにしてしまったのだ。妹とは、舞香とは結婚できないと知って。舞香がお嫁さんになってくれると約束してくれたことを。
そんなご褒美がなくなってしまったから、その条件である「舞香を甲子園に連れていく」という誓いも、記憶から抹消されてしまった。
忘れたかったのだ、あの日の俺は、きっと。
「璃子もさ、言ってたんだよ。あの後。結婚とかゆー覚えたての言葉使って。大きくなったら兄さんと結婚するとかなんとか」
「……確かに、そんなこともあった気がする」
それはうっすらと覚えている。
俺ははっきりと断ったはずだ。妹とは結婚できないから、と。
3歳の璃子は泣いていた。泣いていたけど、どうしようもなかった。どうしたって、兄妹は結ばれることはできないのだから。
それをもう、あの時点の俺は、知っていたのだ。
「まぁ私との約束忘れて、次の年の甲子園で、璃子を甲子園に連れてくとか約束してたのは、めっちゃショックだったけどね」
「すまんて……」
マジでそこに関しては申し訳が立たない。もし自分が同じことを舞香にされたら一生もののトラウマになってたと思う。女性不信、妹不信になってたぞ、たぶん。
しかし舞香はそんな俺の顔を見て、「ふふっ」と自然な笑いをこぼし、
「言っても、ま、璃子から誘い受けしたようなもんだったしね。可愛い妹さんにあんな風にあざとくおねだりされちゃったら、まぁ、しょーがないんじゃないの」
「そうは言ってもな」
あざとい、おねだり……あったなぁ、そんなの。
小指をギュッと握られながら、「にいさんは、やらないんですか? ここで、やきゅう。ぜったいいちばんカッコいいですのに」とか何とか、つぶらな瞳で言われちまったんだっけ。もはや後光が差していた。
そりゃ、絶対こいつをここに連れてくるって、思っちまうよなぁ。誓っちまうようなぁ……。あんなの見せられたら、トランプでもプーチンでも神でも仏でもみんな一発で誘い受けされちまうよ。抗えねーよ。
「それに、気づいてたんでしょ、そもそもあの子。自分がお留守番してる間に大好きな兄さんと大嫌いな舞香ちゃんが、二人だけの約束しちゃってたことに。甲子園の約束も、お嫁さんの約束も気づいてたんだよ。私らが別に隠そうともしてなかったんだから当たり前だよね」
「つまり単純に真似したってことか。結婚してくれってのも、甲子園ってのも」
「そ。でもその時にはもう、あんたは兄妹が結婚できないことを知っていて、だから前者は断った。私との約束は忘れていたから、後者は受け入れた。唯一無二の約束としてね」
なるほど、そんな経緯が……こいつ、実の兄の幼少期の感情と記憶の推移に関する洞察力高すぎだろ。こわ。
「で、璃子は『結婚』の代替として、『永遠の妹』というご褒美を提示したんだと思う。あの子にとって『兄さんの妹』ってのは、お嫁さんに並ぶくらい重大な肩書きだから。称号だから」
確かに俺にとって、璃子がずっと兄さん大好きな妹でいてくれることは、舞香がお嫁さんになってくれるのと同じくらい、求めてやまないことだ。絶対甲子園連れていってやるって思っちゃう。
うん、こいつ、実の妹の言動とその動機に対する解像度も高すぎる。きも。
「でもよ、やっぱり話聞けば聞くほど、俺が悪いじゃねーかよ。一方的に。お前に対して……償い切れない……」
「大げさだ……」
「大げさじゃねーだろ。だって俺がされたら許さねーし。お前のことビッチ扱いしてるし。NTRだろ、もうこんなの。鬱勃起だろ」
「勃起すんのかよ」
「好きだからな、お前のことが。お前のことが世界一好きだからこそ、お前が少しでも俺を蔑ろにするだけで俺は勃起する」
「世界一最低な告白。え? 嘘でしょ? あんたからの15年ぶりの愛の告白がこれなの? いったん忘れるんで、後でまたやり直してもらっていいですか?」
「はい。そうしてもらえるととても助かります」
「では、忘れます。はい、忘れました。……だから大げさなんだってば。ホントに私、どうでもいいから、あんな約束のことなんて」
すげー、こいつ。あまりのショックでほんとに記憶を抹消しやがった。数十秒だけ時が巻き戻ったみたいになってる。さすが俺の妹。15年前の俺も、こうやって記憶を消去したんだな……。
じゃあ俺も、この15年間のお前と同じように、お前の記憶に合わせた態度を取り続けてやらなきゃな。
「『どうでもいい』だとか、『あんな』だとかよ、お前のそういう自傷じみた諦めみたいなの、嫌なんだよ、マジで。かまってほしくて言ってるだけなら可愛いけどよ、今はそうじゃねーんだろ?」
「なに言ってんの? かまってちゃんでもないし、自傷行為でもない。ましてや何も諦めてなんかない」
俺がせっかくそれっぽいセリフを絞り出してやったというのに、舞香は何の他意もなく、本当に怪訝そうな顔で首を傾げる。なんか単純に俺が間違えたっぽい。ダサい。
「だって、そうじゃん。ほんとにわかってないの、久吾?」
舞香は相変わらず真っ赤な顔で、しかし必死に顔を上げて、言ってくれる。
「私、今ならもう、久吾のお嫁さんに、なれるんだよ?」
「――――――――」
あ、やべぇ破壊力。
その言葉の表面的な意味も本質的な意味も、震える声音も震える体躯も、潤んだ瞳も潤んだ唇も、今この瞬間の全てが俺の脳と心を撃ち抜いていた。
「なれる、のか……」
「なれるじゃん」
「なれるん、だな……」
致命傷すぎて、霞んだ声しか絞り出せない。
「……なれないの……?」
「なれます」
俺はキリッとした顔で言った。ハキハキとした声で言い切った。舞香のしおらしさに致命傷を負わされたが、舞香のいじらしさですっかり回復させられてしまった。無自覚小悪魔ぁ……!
「だよね」
小悪魔の表情がパッと明るくなる。はい、小悪魔。
「だって、璃子と違って、私はまだ正式に断られてないもん、お嫁さんの約束」
「そうか、そう、なるのか……いや、うん。そうなるな。うん、そうなる」
だって断る前に忘れちまったんだから。
「だから、さ。まだ、有効だよね……?」
恐る恐る見上げてくる小悪魔が小悪魔すぎるが、俺はそれにイエスとは言えない。
なぜなら、
「それを決めるのは、お前だろ。お嫁さんは、お前を甲子園に連れていくっていう条件を達成できたときのご褒美なんだから。むしろ俺が頼むんだよ。なぁ、舞香。あの約束、まだ有効ってことでいいんだよな? なぁ、頼むから、有効ってことにしてくれよ」
「え……あ、あ、うん。わかった。しょーがないから有効ってことでいい。だって約束だし。まぢめんどくさいけど約束は約束だから」
まぢめんどくさくなさそう。
「じゃあ、いいんだな? そういうことで。後からやっぱり無しとか言い出しても、俺は認めねーからな?」
「うん、だってしょーがないもん……」
「…………。…………」
「…………。…………なに? ねぇ、何なの、この間」
「ちゃんと言ってくれ。もう絶対忘れねーから。もう一度だけ言ってくれ」
「……もう。まぢめんどくさいんだけど……」
「頼む」
「はぁ……しょーがないな……。ねぇ、久吾。私ね、」
――脳内に、青空に彩られた遠い日の記憶が、流れ込んでくる。
どこまでも広がる青空とグラウンド。土の匂い。いつまでも冷めやらぬ熱気。そんな世界で、幼き俺は、幼き妹の小さな手を握って。知らない土地で、大好きな人を守ってるつもりになって悦に浸っている。大好きな人も、まるで俺が王子様であるかのように縋ってくれる。甘えるような瞳で彼女は俺を見上げ。そして、とろけるような声音で――
「甲子園連れてってくれたら、久吾のお嫁さんになったげる」
「――――――――」
「はい、いいでしょ、これで。はい、おしまい。…………お嫁さんに、なるから。……なるもん」
思い出した。全部。はっきりと。
そして俺たちは、唇を合わせたんだ。
あれが、初めてだった。
あれが初めてで、その後は毎日のようにキスをして。そして、自分たちは、結ばれてはいけないと知ってしまった。
でも。でも今は違う。
俺は、舞香と……。
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