第23話 一回表の裏の九回目(十回目)

「ま、先制できたのはよかったんじゃん? それに、さっさと一周してきたおかげで、マウンド上がるまでの余裕もできたわけだし。ゆっくり準備できるし」


 舞香はそう言うが、言うほどゆっくりできるわけでもない。

 奴らもバッティングは悪くないとはいえ、さすがに全国クラスのピッチャー相手に、そうそう打線を繋げることはできないだろう。この後は三人で攻撃が終わると思っておいた方がいい。


「そうだな、準備しねーとな」


「うん」


「一か月かけて、俺はテクニックを身につけてきたからな」


「うん」


「ただ、どうやってこの場でそのテクニックを発揮するか、ってのが問題なんだよな。すぐそこで自分のチームが試合している中、ユニフォーム姿の俺がどうやって甘出しすればいいのだろうか」


「今の今までその点を考えてこなかった私たち無能すぎない?」


 仕方ないだろ、だって恥ずかしかったんだもん。恥ずかしいってか、絶対何か変な空気になるだろ、お前と二人でそんなこと話したら。


 そういえば、リトルリーグ時代の監督が言ってたっけ。本番を想定していない素振りなど、何万回しても実戦では役立たないって。俺の甘出し特訓は、闇雲な素振りみたいなもんだったのか。


 いやいや、違う。想定はしてた。ちゃんと想定しながら――ってか、ちゃんと想像――いや、妄想しながらシコってた。


 その妄想通りのシチュエーションが、今この場に出来上がっている。一言も頼んでいないのに、俺の妄想通り、舞香は勝手にここに来てくれている。


 来ちゃったよ、マジで……。


 いや、正直期待しちゃってはいたけどさ、何でそうお前は、昔からいっつも俺にとって都合が良すぎるんだよ。だから昔からいっつも我慢してきたのに、今は別に我慢しなくてもいいって、何なんだよ、この状況。エロゲかよ。エロゲだった。


「え、てか実際さ、久吾。ムズくない? ちゃんと採取するのとか。どうしよ。あ、紙コップならあるけど……」


 それはポカリ飲む用のやつだろ。


「大丈夫だ。そこはこっちで準備してる。ゴム着けてるからな今。このまま甘出しすればキレイに採取できる」


「あんたゴム着けたままホームラン打ったの……?」


 まぁ、プロテクターの一種みたいなものだ。

 舞香と璃子の『はだおもい極薄スリム』を買うついでに『おかもとスーパー極厚くん』を買っておいた。俺の部屋に転生前の山田久吾のものらしきコンドームが置いてありはしたのだがサイズが合わなかった。全然合わなかった。泣いた。


 ちなみに装着前にコンドーム内の潤滑ゼリーは洗い流してある。滑り止めに混ざってしまうと、粘着効果を低下させてしまう恐れがあるからだ。そのせいで装着にも結構手こずった。毛を巻き込んだりして痛かった。泣いた。


「ふーん。じゃ、このまま出させたげればいいんだ」


「たげればって……」


 顔を赤らめた舞香が俺の正面へとにじり寄ってくる。伏し目がちに、おもむろに。俺のユニフォームの袖をつまみながら。


「…………」

「…………」


 至近距離で向き合う、元兄妹。


 いや間違えた。全部間違えた。


 超至近距離で、まともに顔も見合わせられない、現恋人。


「……ねぇ……どうすればいいの。そっちから教えてくんなきゃ、わかんないんだけど……」


「……正直に言っていいか」


「……さっさと言えし」


「じゃあさっさと言うが、何もしなくてももう出そう。世界一可愛いその顔を恥じらいで爆発させようとしながら、俺の袖をちょこんとつまんで照れ隠しのようにブラブラさせてるだけでヤバい。可愛すぎる。めっちゃ良い匂いするし可愛すぎる」


「何てゆーか、もっとちゃんとした場所と場面で言ってほしかった」


「何ていうか、こういう勢いとか口実がないと言えん」


 マジですまん。いやぁ、でも、お前と比べれば頑張ってる方だと思うんだよなぁ、今の俺。結構勇気出していろいろ言ってるよな? 頑張ってるよな?


「じゃ、じゃあさ、久吾。そんな状態なら、ユニの上からちょっとだけ触ったりとかすればいい? あれだったら、久吾からもテキトーに触っていいよ、私のこと」


 めっちゃ頑張られた。ここに来て舞香の方がめっちゃ頑張ってきやがった。お前もう頭から湯気出てるじゃん。


「死ぬほど嬉しいが、さすがに頑張りすぎだ、舞香。今の俺にとって、直接的な刺激はドボンだ。お前の手とか膝で刺激されちまったら、絶対甘出しじゃ済まねぇ」


「膝を使う発想なんて1ミリもなかった。……じゃ、どーすんの」


「まぁこの状態で見つめ合ったり、軽めにハグでもさせてもらったりすれば、そのうちビュビュっ……ダラーっと垂れてくるだろうな」


「ふーん」


「だが、それだと時間が掛かりすぎる。この回ならまだギリ間に合うかもしれんが、そんな方法じゃ他の場面で使えねぇ」


 むしろ、こんなに時間的余裕があるシチュエーションの方が珍しいだろう。

 実際は、ツーアウトからしかベンチ裏に来られないとか、俺が塁上にいる状態で攻撃が終わってしまうパターンだってある。その場合、本当に一瞬で甘出ししなくてはならない。

 塁上で軽くシコっておけるというなら話は別だが、そんなことをしたら、キャッチャーのサインを盗んで打者に伝達するためのジェスチャーだと疑われてしまう。うん、サイン盗み以前の問題だったわ。


「確かに再現性がないんじゃダメだね。それに、焦らし時間が長すぎると、我慢汁が混入して甘出し汁の品質が下がっちゃうか……ねぇ、どーすんの。短時間で甘出ししなきゃで、でも直接刺激与えるのはダメとか……わがまますぎじゃん、あんたの」


「すまんて……」


 さすが俺の特訓をずっと覗き見していただけあって、俺以上に俺の甘出し汁事情に詳しい。甘出し汁って何だ。勝手に変な用語作られてる。


「このままじゃダメじゃん。せっかく私がこんな勇気出したげてるのに。ねぇ、どーすんの。ねぇ、ねぇ。どーすんのどーすんのどーすんの」


 こいつ、俯いて俺の顔も見れねーくせして圧が強い。


 結局、俺に言わせんのか……。


 まぁ、そうだよな。やっぱこういうのは兄が、彼氏が言いたいものだ。


「じゃ、じゃあ、そうだな……キ、キス、とか?」


「…………。……とか?」


「キスです。キス。キスしたいです。キスさせてください。キスさせろ、お前と」


 もうヤケだった。仕方ない。だって時間ねぇし。


「……しょーがないな……キス、ね。久吾にキスさせたげればいいのね。ふーん、そ。いいよ、別に」


「はい、俺もう死んでもいい」


 制限時間という口実が、俺の背中を押してくれた。

 やっぱ試合時間は短縮しなきゃな。ダラダラ試合すんな野球選手。ピッチクロック最高。


「死なないでよ。行くんでしょ、甲子園。じゃ、はい。どうぞ」


「どうぞと言われても……そんなガッツリ俯いたままの女の唇をどう奪えと」


 俺と舞香の身長差は20センチ以上あるのだ。むしろ思いっきり顔を上げてもらうくらいじゃないと困る。


「……だって、わかんないし、キスとか」


「お前したことないの。キス」


「……本気で言ってる?」


「小さいころ俺としたキス、八回だけ。だよな?」


 お願いしますそうであってくださいお願いします。


「九回」


「は?」


「九回なんだけど」


「は? は? は?」


 は? 嘘だろ、は? 俺は八回しかキスしたことないのに、舞香は九回ってどういうこと? は? ふざけんな、は? は? 誰と? は? え?


 え? これって、まさか……NTR……?


 NTR展開、なのか……? 俺は、俺は本当は間男なんかではなく……寝取られ主人公、だったのか……?


「ちょ、何でひざまずいてんの」


「脳が破壊されたから。絶望で。NTR展開で床が抜けていくようなあの感覚。鬱勃起なう。その俺が知らない一回を聞かされたら甘出しじゃ済まない勢い」


「……知らない、じゃないし。忘れてるだけ」


 舞香はよくわからないことを呟きながら、ゆっくりと身をかがめる。

 その顔はやはり真っ赤なのだが、角度が変わったことで、逃げ場がなくなる。今度は俺が見上げる形。

 ついに、真っすぐと、俺たちは目を合わせる。


「俺が、忘れる? お前とのキスを? いや、普通に考えて、ありえねぇと……」


「そ。じゃ、別にいいよ、それで。とにかく私はあんたと九回キスしてるから。そんでこれからも、あんた以外とのキスで、この数字が増えることはない。一生。じゃないや。そもそもこれが二生目だし。永遠に、だね」


「…………! 舞香ぁ……! 俺も絶対、お前以外となんてしないからな……!」


 泣いちゃった。安心して泣いちゃった。


「ふーん。じゃ、今からキスしますけど。そーゆーわけだから、私よくわかんないから。キスの仕方とか。何てったってカクヨムでキスシーン投稿したら糞アンチから『処女丸出しで草。絶対こいつ結婚とかできないw』って叩かれたくらいだから。そのうえで過度な性描写を理由にBANされたくらいだから」


 泣きっ面に蜂とはこのことか。


「どんな描写したらそうなるんだ……」


「知らない。カクヨム運営の性描写判定は曖昧ではっきりしないものだから。もはや判定してる人によるんじゃない? まるで野球のストライクゾーンみたい」


「そんなことに野球の例えを使うな」


「コツはね、そーゆーシーンは数行空行を入れることで、そーゆーことしてました、ってことだけ読者に仄めかして逃げるって手法なの。空行は運営には見えないから、誰が誰と何してたって、誰にも文句は言わせない」


 そう言って舞香は、そのサラサラの髪を片耳に掛け、


「だから、ね? そーゆーこと。例えばさ、この世界ってゲームなんでしょ? じゃ、このゲームをプレイしてるプレイヤーがいるとするじゃん? だとしてもさ、こんなバカみたいなゲームの、こんなバカ狭い空間で、こんなバカみたいなことばかりしてる、こんなバカみたいな脇役二人の、こんなバカみたいな恋愛なんて、さ。空行みたいなもの。プレイヤーにも運営にも読者にも神様にも、きっと誰にも見られてないよ」


「舞香……」


 そうして、俺の恋人は。

 覚悟を決めたかのように。

 そっと、その目を閉じて。


「どんなバカみたいなキスでも、私にとっては絶対忘れない十回目なの。ね、好きだよ、久吾。私の全部が、これからもずっと、あんたのものだから」





 マウンド上で俺は、万能感に包まれていた。


 見事一瞬で採取に成功した最強の滑り止め――甘出し汁、30ミリリットル。

 むしろそこでストップさせることに失敗しそうな勢いであったが、そんなタイミングでブルペンへの入り口がノックされて、何とか歯止めを利かせることができた。

 一回表の攻撃が終わったのだ。得点は結局、俺のホームランによる一点のみ。


 ノック後に、そっとこちらを覗き込んできた佐倉宮は、座って向き合う俺と舞香の姿を目にして、俺らと同じくらいに顔を紅潮させていた。何かを察させてしまったみたいだ。ウブだなぁ、寝取られそう。


 絶対寝取らないけどな。俺にはもう、心に決めた相手がいる。ていうか、ずっといた。


 コンドームに溜まった秘密兵器を搾り取り、帽子のつばの裏側に塗りたくった。『山田久吾』という名前と『友情・努力・勝利』という文字が真っ白な粘着液で見えなくなった。めっちゃ余ったのでベルトとグローブと左手首にも仕込んだ。それでも余った。30ミリもいらなかった。余った甘出し汁は舞香がなぜか紙コップに回収していた。甘酒みたいだった。


 とにかく、この武器さえあれば、まず打たれる気がしない――とか何とかそれ以上に。舞香とのキスが、あの柔らかさが、熱が、匂いが――俺のバイタリティを極限まで引き上げていた。


 そう、俺は、気付いてしまったのだ。


 あ、完投すれば俺、今日だけで舞香と九回キスできんじゃねーか。

 ということに。


 こんなことがこれから、何試合もある。

 あ、でも練習試合はアレか。学園のグラウンドでやる場合だと、今回みたいにベンチ裏スペースがあるとこなんて他にねーよな。

 くそぉ、やはり公式戦か。

 夏の県予選6試合中4試合で俺が完投するとして、計36回。……足りない。もっとしたい。

 甲子園。甲子園でも勝ち上がれば……もっとできる。舞香とキスできる。


 勝たねーと。勝ち続けねーと! 勝って勝って勝って勝ちまくって勝ち続けて投げまくって、俺は舞香の唇を奪いまくる。


 俺の! 俺だけの! これからもずっと全部俺の! 舞香の唇を!


「最高だわ、やっぱ野球って」


 ただ一つデメリットがあるとすれば、俺は毎回フル勃起状態でマウンドに上がるハメになるということだ。大してデカくなくて助かったぜ。泣いた。

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