契約

 扉の中は、まるでチャペルのように、真っ赤なカーペットの通路がまっすぐに長く長くどこまでも伸びていて、祭壇へと続いていた。天井から吊り下がったシャンデリアの淡い光だけが、その道を暗く照らしていた。

 通路の外は、真っ暗な闇がみ込んでいて、そこにあるはずのベンチも、天井も、なにも見えなかった。そして、神々しい青白い光が、スポットライトのように祭壇に降り注いでいた。その異様な光景を前に、わたしの思考は止まった。


 ばたん、と扉の閉まる音がする。それに見向きもせず、わたしは、ただ吸い寄せられるようにカーペットの上を歩いていく。ひたすらに前の祭壇だけを見て、優雅に、花嫁らしい笑顔で足を運ぶ。もはや、ほかのことはどうでもよかった。


 足音も、息の音さえ聞こえない無音の空間を、ふらふら、ふらふらと、しかしまっすぐに進む。ろうそくの光を浴びるたび、なにかを訴えかけようとする頭がぼんやりと楽になる。視界がぼやけて、白く塗りつぶされていく。


 ああ、幸せだ。一歩一歩カーペットを踏みしめるたびに、たまらなく幸福感を味わう。わたしの人生は、今この瞬間のためにあったんだ。本当に夢みたいだ。夢であってほしくないよ。


 わたしは、祭壇の上に立っている白い影を見つける。あれがご主人様だ。ご主人様が待っている。わたしは、ドレスのすそを持ち上げて、階段を一歩ずつ、ゆっくりと上っていった。


 聖なる光の下で、わたしはようやくご主人様の姿を見た。けがれ一つない純白。頭の先から足のつま先まで、混じりけのない、真っ白。この方が、わたしのご主人様。

 ご主人様は、わたしを見て、喜んでくれた。

「これは、実に見事に仕上がったものよ。おぬしの顔を見せてみよ」

 そのままわたしに近づいて、わたしのヴェールをオペラグローブ越しの細く白い指先で、そっとめくった。



 あああああああああああ!!

 わたし、どうしちゃってたの!?なんでわたし、この妖魔のことをご主人様だと思っていたの!?なんでわたし、幸せだなんて!一体何をされたの!?


 わたしは、いつの間にかウェディングドレス姿になっていた。確かに、この建物に入った時には制服だったはずなのに。そのうえ、体の自由が1mmも効かない。今も至福の笑みを浮かべて、目の前の妖魔にほほをなでられて嬉しそうにしている。本当は今すぐにでも逃げ出したいのに、瞬き一つできない。


 わたしをもてあそんでいるこの白い妖魔もまた、ウェディングドレスを身にまとった女性の姿をしていた。その容貌は、傾国の美女と言われても文句のつけようがないほどで、その色香は、わたしでさえドキリとさせられるような魅力があった。しかし、その頭に生えた狐の耳と、白銀色のたくさんのしっぽが、彼女が妖魔であることを証明していた。妖魔は、邪悪な笑みを浮かべて言う。

「実に可憐な子じゃ。わらわのしもべにふさわしい」


 ダメだ。このままだと本当にこいつの奴隷になっちゃう。どうすればいいの?せめて助けを呼べれば……


 ヴェールを上げていた妖魔の指が離れ、わたしの視界がまた白く染まった。



 ご主人様は、わたしに問いかけてくれた。

「病める時も健やかなるときも、わらわに仕えることを誓うか?」

「誓います」

 ご主人様のためなら、わたしはなんだってする。それがわたしの生きる意味だから。

 わたしが答えると、ご主人様はわたしの体を一通り撫でまわしてくれた。うれしい。


 しばらくして満足したご主人様は、手に持っていた指輪をはめると、私に言った。

「そうか。ならば、この指輪のもとに契約を。おぬしは魔法少女として、わらわに尽くすのじゃ」

「はい」

 ご主人様に尽くせるだけでも幸せなのに、ご主人様はわたしの魔法少女になる夢までかなえてくれるなんて。愛されているわたしは、きっと世界で一番幸せだ。


「では、誓いのキスを」

 ああ、ご主人様のくちびるがいとおしい。わたしがおねだりの笑顔で待っていると、ご主人様がわたしを軽く抱きながら、ヴェールを上げてくれた。



 ゆっくりと顔を近づけてくる妖魔は、左手の薬指に、わたしから奪った指輪をはめていた。

 あれは家族の形見の指輪!返して!


 叫ぼうとしても叫べない。それどころか、表情に引っ張られて、目の前の妖魔がどうしてもいとおしく感じてくる。わたしがこいつの所有物だという嘘の感情が、勝手に湧き上がってくる。どくどく音を立てる心臓があらわすのは、恐怖かそれともときめきか、自分でもわからなくなる。


 嫌だ。嫌だ。こんなところで終わりたくない。いや、妖魔の道具として、人類の敵になるなら、いっそ死んだほうがましだ。でも、ご主人様になら……違う!何を考えているの、わたし!


 走馬灯のように流れる感情に押し流されて、それでもわたしは身じろぐことさえできなくて、最後の瞬間には、わたしは絶望して諦めていた。

 ごめんなさい、施設のみんな。お父さん、お母さん。みんな。


 妖魔のくちびるが、わたしのくちびるに触れる。それはとても柔らかくて、絶望的に甘美だった。



 わたしの体に、何かが流れ込んでくる。それはじわりじわりと、心臓から指先へとわたしに浸透していく。ああ、わたしはどうなっちゃうのかな。

「なっ!まさか!」

 くちびると、わたしを抱えていた腕の感触が離れる。それなのに、わたしの奥底にあるなにかが、この妖魔に引っ付かれたままだという感覚は消えない。


「そんな、わらわよりも大きな魂の持ち主など……」

 妖魔の想定外だと言わんばかりの態度を見て、ようやくわたしは意識を取り戻した。あたりを見渡すと、ここはもはや暗闇に浮かぶ妖狐のチャペルなどではなく、ただの物置で、入り口の扉はあんな派手なものではなく、どこにでもあるような鉄の扉だった。わたしも制服姿に戻っていて、妖魔の純白のドレスが、ひどく場にそぐわないように見えた。


 わたしは、はっとするとすぐさま妖魔に背を向け、一目散に逃げだした。何があったのかはわからないけれど、とにかく逃げるチャンスだ。わたしは扉をバンと開け、そのまま階段を駆け上がっていく。


 暗かったはずの階段は、なぜかとてもまぶしい。そして地上に出たわたしは気づく。

「なにがあったの!?」

 わたしのいた建物は、ぼろぼろに崩れていた。


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