小さな一歩を踏み出す義妹

「……ただいま」


玄関のドアを開きながら出た声は、思っていた以上に疲れたものだった。


「……はぁ」


靴を脱ぎながら思わずため息が漏れる。


彼女と向き合ったことへの精神的な疲労感は凄まじく、気を抜くと力が抜けそうになる。


彼女へはなんの気持ちも抱いていないつもりだったけど、それでも俺が気付いていない部分で少なからず思うところはあったようで、別れた今になって雛守さんへの罪悪感を感じていた。


だがそれは、泣いていた彼女に対してではなく、彼女にああいった行動をとる原因を作ってしまった過去の自分の行いに関してだ。


もう少し彼女に寄り添っていれば、双方にとって最悪なあんな別れ方はしないで済んだかもしれない。結末は同じでもその過程はもう少しマシなものになっていたのでは――なんて、ありもしない可能性を考えてしまう。


さっきの行動には一切後悔はないし、あの時はああすることでしか雛守さんにはわかってもらえないと感じた。

なにより、何も理解していない彼女が前に進むためには、ああするべきだとも思った。


だから、これで良かったんだ――そう、俺の心に言い聞かす。




「……はぁ。さっさと荷物を置いて着替えたら、バイトへ行くか」




廊下を歩き、二階へと上がろうとリビングの横を通り過ぎようとした。



「あれ?」



その瞬間、微かに開いていたドアの隙間から香ばしい醤油の匂いが漂ってくる。


「……もしかして桜さん?」


一瞬そう思ったが、直ぐに違うと気付く。


今日は会社の最終日で、朝に同僚とお別れ会をするから少し遅くなると言っていた。

そんなことを言っていた人がこんな時間に帰ってくるわけもなく、ということは考えられる人物は一人だけ。


「黎?」


今家にいるとしたら黎しかいない。


俺は少し気になって、リビングを覗いてみることにした。






『ふーん、ふふん』






リビング――正確にはキッチン部分でだが、黎が鼻歌を歌いながら料理を作っている。

慣れた様子とは言い難いが、それでも危なげなく料理を進めている様子に、黎の頑張りを窺えた。


その姿に声を掛けずにそのまま通り過ぎようかとも思った。




「うぉっ!」




しかしタイミングが悪いことに、スマホに通知が届く。


見ると、相手は鈴瀬からで「今日の約束忘れないでくださいねっ」とのメッセージが送られてきていた。


約束というのは、恐らく昨夜鈴瀬が言っていた『話しがあるから少し時間を作ってほしい』的なアレのことだろう。

特に問題はないため、俺は短く「わかってる。ちゃんと鈴瀬との時間は作るよ」と送り返す。


すると、直ぐに既読はつくが何故か返信はなく……仕方なく、そのままスマホから視線を上げると――


「あ」

「――」


黎と視線があった。


黎は俺と目が合うと声にならない声を上げて、頬を赤く染める。


恐らく鼻歌を歌っているところを見られたのが恥ずかしかったのだろう。


「……」


何も見なかったことにしてこのまま離れようかとも思ったが、不意に朝の出来事を思い出す。

そしてあの時に抱いた気持ちが同時によみがえってきた。


「(……黎とは話さなければいけないと思っていたし、先送りにはできないか)」


改めてそう思った俺は、意を決して微かに開いていたドアを開く。


「……ただいま」

「――」


俺が自分から声を掛けてくるなんて思わなかったのだろう。

黎は俺の言葉に驚いた様子を浮かべている。


「っ」


だが、それも一瞬のこと、急いで手を洗うととてとてと俺の傍まで駆け足で向かってくる。




「お、お帰りなさい」




そして、俺の目の前まで来ると、エプロンを軽く握りながらそう言ってきた。


「――」


黎の言葉に懐かしい気持ちになりながらも、不思議と言葉が出ず、何を言っていいのかがわからない。


「「……」」


そのまま互いに何かをいうでもなく、ただ見つめ合う時間が一分二分と過ぎていく。



「あー」



ただ、流石にいつまでもこうしているわけにもいかず、俺は黎へと話し掛けることにした。


「料理、作ってるんだな」

「っ、う、うん……その、友達――陽葵に教えてもらって」


陽葵という名前には聞き覚えがない。

恐らくだが、家庭科室で黎の隣にいたあの女子の名前が陽葵なのだろう。


「なんで、そんなこと……今まで一度もしなかったのに」


別に批難するつもりはなかった。

だけど、ついキツい物言いになってしまう。


「それは……」


俺の言葉に黎は顔を伏して、エプロンを強く握り絞める。




「ずっと、に家事を任せっきりだったから」




春人さん――その呼び方に微かな寂しさを感じた。


俺自身が兄妹ではないと言ったから、黎はそれを守って俺のことを今のように呼んでいるだけだ。

なによりこれは俺自身が望んでいた現実だというのに、俺の名前を辛そうに呼ぶ黎の姿や黎の兄でなくなったと改めて自覚した自分が存外傷付いている事実に、自分勝手とは思いつつもという気持ちを抱く。



「……でもそれは、俺が自分から始めたことで」



抱いた気持ちを顔には出さずに黎へ応える。


始まりは水無月家に引き取られてしまったことへの罪悪感や引き取ってくれた恩を少しでも返したかったから、自分にできることを探して家事をやるようになった。

最初こそ大変だったけど、今では慣れて苦には感じないし、息抜き的な意味でも家事をするのは日課になっていた。


ただ……桜さんからは、今後家事は分担するという話しをされ「もう少し自分の時間を作りなさい」と少しキツめに諭されたけど。


「うん、わかってる。だけど、私はその優しさに甘えて何もしなかった。あまつさえ、家事で大変な春人さんにワガママ言って困らせた」

「――」


事実だ。

今までの黎は任せるだけ任せて、自分から動くことはなかった。

あるとしても、それはその姿を見かねた桜さんが怒ったときぐらいだ。


「……だから、それを少しでも変えたいって思ったの」

「それが料理なのか?」

「……うん。料理にしたのは陽葵の提案。いきなり家事を全部引き受けるって言っても、きっと任せてはもらえないだろうし、例えいいって言ってくれてもちゃんとできず逆に迷惑をかけてしまうことになるって言われて」


確かに、陽葵って子の言う通りだ。


家事は一見簡単そうにみえるが、結構な肉体労働で炊事洗濯掃除などやることも多い。

今まで全く家事をしてこなかった黎が突然家事をするって言ってきても、俄には信じ難いし、できるとは思えない。


「料理なら私が教えてあげるって言われて、それで愛琉と萌花も手伝ってくれてて」


ああ、だから朝から家庭科室であんなことを。

それに昨日の夕飯に関しても、面子を聞いて合点がいった。


「(新田。昨日あの後、黎を手助けしてくれてたんだな……それにも萌花も黎のために)」


本当にいい友達だ。

そしてそんな得難い友達に支えられながら、黎は今真剣に変わろうと行動している。




「そのっ!まだ上手くはないけど……迷惑をかけないようにするからっ」




俺が何も言わなかったことに考えを否定されたと思ったのだろう。

黎は必死に俺のシャツを掴んで訴えかける。



「――それ、指」



と、ここで、俺は黎の指にいくつもの絆創膏が貼られていることに気付いた。


「っ!こ、これはその……」


慌てた様子で、黎は指を背中に隠す。


そう言えば俺も料理を始めた頃はよく指を切っていたな、なんて場違いなことを考えていると――




「っ、ごめんなさい……直ぐ片付けるから……」




黎は何か勘違いした様子で、肩を落としながらとぼとぼとキッチンへ向かおうとした。






「――待ってくれ」






そんな黎の様子に、俺は慌てて腕を掴んで止める。


「春人、さん?」

「……見せてみろ」

「え」

「手」


黎は俺の言葉に、恐る恐る両手を差し出してきた。




◆◆◆




「……沁みないか?」

「う、うん。大丈夫……」


棚の上から救急箱を取り出した俺は、黎の指の状態を確かめながらゆっくりと消毒液を垂らし、新しい絆創膏を指に巻いていく。


「結構切ってるんだな」

「……うん」

「それに少し肌が荒れてる……」

「っ」


俺の言葉に黎は少し恥ずかしそうに顔を赤らめ、下を向く。


その姿に首を傾げながら、俺は黎の指を処置していき、その努力を実感する。



「……頑張ってるんだな」



不思議とそんな言葉が漏れた。


「――ぁ」


俺の言葉を聞いた黎は、大粒の涙を浮かべて、首をゆっくりと縦に振る。


そんな黎の姿に俺は言葉を続けることにした。


「きっと俺はさ、黎がやってきたことを許せはしない」

「っぅ、わ、かってる……そう、だよね」

「だけど」

「ぇ」


俺は黎に何を言えばいいのかわからなかったし、悩んでもいた。



――だが、今の黎を見て心が決まる。



「黎が頑張ってる限り、俺はお前のことを

「――それ、って」

「理不尽な態度は取らないし、無視もしない。話し掛けられたらちゃんと受け答えもするし、必要なことがあれば頼ってもいい」

「ぁ、ああ」

「……それが今の俺にできる最大限の譲歩だから」


俺はそう言って、立ち上がる。


「俺、この後バイトあるからもう行くな」

「春人さんっ、わた、しっ!」


黎が何かを言いたそうに俺を引き留める。


俺はそれを聞くよりも先に、後一つ言うべきことを思い出す。


「あ、言い忘れてた――から」

「――ぁ」

「じゃあな。料理するのはいいけど、怪我しないように気を付けろよ」


そう言い残して、俺はリビングから出て行った。



……。

…………。

………………。



「――あ」


家を出て【ミラノワール】に向かう途中、俺は重大なことに気付いた。


「着替えるの忘れてた……はぁ」


イマイチ締まらないなと思いながら、俺は汗が染みるシャツを着たままバイト先へと歩いていくのだった。






――――――SIDE:水無月黎――――――


お兄ちゃんが去ってしまったリビングには私の嗚咽が混じった声が響いていた。


「っん、ぁ、お兄ちゃんっ」


もう二度とお兄ちゃんとは関わることができないと覚悟していた。

私のことを嫌っていたから、話し掛けて欲しくもないって。


だから朝早く家を出たり、必要なとき以外は部屋から出ないようにして、お兄ちゃんができる限り不快に思わないように気を付けた。


料理だってそう。


お兄ちゃんに許してもらえるなんて少しも思ってはいなかった。

だけど、少しでも私の頑張りが伝わってくれて、昔みたいに笑顔を浮かべてくれるようになってくれたならって、私がお兄ちゃんの負担を少しでも軽減できたらって……そう思って、陽葵の提案を受け入れて皆に協力してもらいながら料理を学び始めた。


最初は慣れずに指を切ったり、味付けに失敗したりしたけど、お兄ちゃんの笑顔を妄想してたら頑張れて……でも、不安で。


だけど――



『……頑張ってるんだな』



お兄ちゃんは嫌いなはずの私の頑張りを認めてくれた。



『ちゃんと見るよ』



不快な思いだってたくさんしただろうに。

それでも、私のために歩み寄ってくれて……変化を受け入れてもらえた。


「ぅぁ、お兄……ちゃんっ……ぅぁあ!」


なによりも『呼びづらかったら、呼びたい呼び方でいい』って言ってもらえて嬉しかった。

それってつまり、そういうことだよね?




「っぁあ、よがった……よがったよぉお」




わかってる。

これはただのキッカケで、ようやく皆と同じ立ち位置に立っただけなんだと。

私がもしもまた間違えることがあったなら、お兄ちゃんはきっと今度こそ私のことを完全に遠ざけるだろう。


お母さんも最後のチャンスだって言っていたように、お兄ちゃんの傍にいたいのなら私にはもう間違えは許されない。


「っぐずっ!」


溢れる涙を拭いながら、私はお兄ちゃんが手当てしてくれた両指を優しく包む。


お兄ちゃんが触れているわけじゃないのに、不思議といつもよりも温かく感じて、勇気をもらえる気がする。



「……うん、料理、頑張ろっ!お兄ちゃんに美味しいって言ってもらうんだからっ!」



そしていつの日か胸の中にあるこの気持ちを素直に伝えて、お兄ちゃんの隣で昔と同じような笑顔を向けてもらえる存在になるんだ。


だから――




「待っててね、お兄ちゃん!!」




その声には先程までの不安や怯えはなく、お兄ちゃんが認めてくれた今の自分に対する自信とようやく見えてきた希望に満ち溢れていた。






――――――――――

近況ノートに水無月黎のキャラデザを公開いたしました。

https://kakuyomu.jp/users/Blossom-mizuharu/news/16818093084645174058

次回からはバイト先でのエピソードです。修羅場再び――!?

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