その名は桜。春人を愛する者。
「あ、あの桜さん?そろそろ離してくれませんか」
桜さんに抱き着かれてたっぷり五分ほど経った頃、流石に気恥ずかしさが勝った俺はやんわりと引き剥がそうとする。
「仕方な――ん?」
「桜さん?」
どうしたんだ、そんなに俺のことをジーっと見て。
「春くん、少しジッとしててね」
そう言うと、桜さんは何故かクンクンとまるで犬が匂いを嗅ぐような仕草で俺の体に鼻を近づけてくる。
「ちょ、何してるんですか!?」
突然の行動に訳がわからず慌てる俺。
対して桜さんは、俺の腹と腕、背中に鼻を当てたところで反応をみせた。
そして全身の匂いを嗅いだ桜さんはというと、すっごいジトッとした視線を向けてくる。
「春くんから女の匂いがする」
「え」
「しかもお腹、右腕、左腕、背中。全部別の女の匂いなんだけど」
確かその箇所は榎本さん達ギャル連中と、俺を引っ張った美玖さんが触っていたけど……え、まさかそのことを言っている!?てか、気付いたのか!?
「春くん。私は春くんのことを一日に何人も別の女の匂いをさせるような軟派な男に育てたつもりはなかったんだけど……うーん、どうしよっか?春くんはどうされたいかな??」
優しい口調ではあるけど、その目は全く笑ってない。
心なしか空気も重く、室温が数度は下がった気がする。
「ち、違いますっ!実はっ!!」
このままだと話しをする前に何をされるのかわからなかった俺は、慌てて何があったのかを話し始めた。
……。
…………。
………………。
「そんなことがあったのね……ごめんね春くん。勘違いしちゃって」
「い、いえ。誤解が解けたのならよかったです」
危なかった。あのまま誤解されたままだったら、どうなっていたことか。
「春くんがちゃんと自分自身で決着を着けたみたいだし、私からそのことについては何も言わないけど……頑張ったね春くん」
そう言って桜さんは俺の頭を優しく撫でてくれる。
「っ」
先程まで犬のように匂いを嗅いでた人と同一人物には見えない、優しい、まるで聖女のような温かさのある笑み。
その姿に不思議と遠い日の母を思い出す。
「でも、そうなると春くんを助けてくれた楠さん?にはお礼を言わないといけないわね、ふふ」
美玖さんのことを口にした瞬間、何故だか桜さんの雰囲気が怖いものに変わった。
思わず目を擦って二度目してしまう。
「うん?どうしたの春くん?」
そう言って笑う顔は、先程の聖女の笑み。
「い、いえ。な、なんでもないです」
どうやら気のせいだったみたいだな、うん。
そんな簡単に雰囲気が別人みたいに変わるわけないか。
「そう?あ、もしかして……私に話したいことって女性関係の問題に関してかな?」
「は、はい」
榎本さんのことも話したし、流石に気付かれたか。
「実は俺は、ここ最近いろいろあって悩んでいまして」
ゆっくりと事情を説明するに至った経緯を話し始める。
幼馴染みのこと、クラスメイトのこと、バイト先の後輩のこと、そして――家のこと。
話しを聞いた桜さんは、軽く頭を抑える。
「明日香ちゃんがそんなことを……それに、他の子も大概酷いわね。けど」
桜さんは俺の話しを聞いて絶句している様子だ。
けれど、一番気になっているのは最後の部分。
「それよりも気になるのは、家って……もしかして黎?」
出来れば桜さんには伝えたくなかったが、事ここに至っては伝えずには本題に入れない。
「……はい。桜さんには黙っていましたが、実は黎に」
黎が俺に対していくつものワガママを言ってきたこと。
最近ではその態度や内容が酷かったこと。
そして今日、黎と言い合いになって本心を告げたことを伝える。
「あの子はっ……はぁ~」
「すみません、桜さん。俺、兄だったのに」
「気にしなくていいのよ。話しを聞いててわかったけど、春くんはずっと悩んで、でも最終的には黎のために伝えてくれたんでしょ?むしろここまで春くんに言わせた黎に呆れてるわよ……はぁ、やっぱり仕事詰め込んだのは間違いだったわね」
「桜さん」
俺達のために働いた結果、こういう影響が出てしまったら、気にするなっていう方が無理か。
「……うん、決めた」
少し悩んだ様子をみせた後、桜さんは何かを決意した表情を浮かべる。
「私、仕事辞める」
「へ、え!?い、いやなに言ってるんですか!?」
あまりの発言に驚く。
もしかして俺のせいで、こんなことに?
「あ、勘違いしないでね。元々辞めるつもりだったんだ。最近忙しくしてたのは引き継ぎの意味もあったから」
「え、でもお金は」
「それなら大丈夫。仕事は辞めるって言ったけど、正確には会社の方だからね。親しい取引先からは既に私個人にお仕事もらってるし、伝手があるところには事情も話しているから仕事に困ることはないと思うよ?」
明らかに事前に準備していたような動きだ。
「春くんにはこの前伝えたけど、やっぱり家族の時間をもっと作りたいって思ってたから……もちろん、黎のこともあるから皆で笑い合うっていうのは難しいかもしれないけど」
「桜さん……」
言葉は嬉しいが、俺はその間に果たして入っていいのか?
嬉しい反面、俺はいるべきじゃないとの気持ちが強くある。
伝えるなら今しかないか。
「そのことなんですが、俺、この家を出ようと思ってるんです」
「――え、なんで?もしかして黎のことがあるから?それとも私が何かしちゃった!?そ、それならっ!!」
俺の言葉に桜さんは今までに見せたことがないほどの慌てようをみせる。
「お、落ち着いて下さい!桜さんはなにも関係ないです。黎のことは……理由の一端ではありますが」
「春くん……」
「その、実はさっき話した楠――美玖さんからもし良かったらと同居を提案されまして」
「は?」
うぉ、こわっ!
桜さんのドスの利いた声なんて初めて聞いたんだけど!
「えっと、春くんはその提案を受け入れたの?」
全く笑っているようには見えない笑みで尋ねてくる。
「い、いえっ!ただ、元々いるべきじゃないって気持ちがあって、今回の黎のことも重なり」
「楠さんの提案を受け入れた方が良いって思った、と」
「は、はい……」
「……そっか」
桜さんは俺の言葉に少し悩むように瞼を閉じる。
その時間が、十秒、一分、三分、五分と続いて、いよいよ空気が重く感じ始めた頃――
「春くん」
ゆっくりと瞼を開いた。
「悪いんだけど、春くんのお願いは受け入れられないかな」
桜さんは俺の要望には添えないと言う。
「……理由を聞いてもいいですか?」
「理由は三つかな」
右指を三本立てる。
「私の大切な子供である春くんを余所の、見ず知らずの女性に預けるのは不安な点が一つ」
桜さんは恐らく俺が女難で苦労してきたことを一番よく知っている。
だから、こうして女性に俺を預けることを不安に思ってくれているのは理解できた。
「二つ目はまだ未成年の春くんを成人した女性の家に居させるのは、世間体を含めてよくないってとこかな。特に何かがあった時、その責任をとるのは春くんじゃないからね」
これもその通りだと思った。
未成年の俺と成人した美玖さん。何かが起こった際に問題の矢面に立たされるのは、美玖さんの方だ。
例え俺達が問題を起こさなかったとしても、よく思わない人が面白おかしく嘘を言ってくる危険性もある。
「そして最後三つ目だけど……私自身がまだ、春くんと別れたくないんだ」
「桜さん……」
まさか桜さんがこんなにも俺のことを想ってくれているとは思わなかった。
――いや、違うな。
想ってくれているのは薄々気付いていたけど、どこかで最後まで信じられない気持ちが勝ってた。
「……桜さんは俺のこと、好き、ですか?」
だからつい、こんな言葉が漏れてしまう。
「え、うん。一生養ってあげたいぐらい好きだよ?え、もしかして嫌われてるって思われてた!?」
俺の言葉に勘違いをした桜さんは、目をウルウルと潤ませて、今にも泣きそうな顔になる。
途中変な言葉が入っていた気はするものの、俺は慌てて否定に入る。
「ち、違いますっ!大切に想われてるってわかってはいたんですが、どうしても俺を引き取った理由が同情のように思えて……素直に桜さんの好意を受け取れなかったんです」
懺悔するように、胸の内を曝け出す。
俺が桜さんに対して申し訳なさのような負い目を感じているように、桜さんも俺に何かしらの負い目を感じて優しくしているだけなのではないかと、どうしても思ってしまう。
「そうだったんだね……ごめんね、気付かなくて」
「い、いえ!」
「でもね、勘違いしないで欲しいの」
「桜さん?」
俺を真っ直ぐに見詰めるその眼差しは、綺麗で曇り一つない。
「私は同情で君を引き取ったんじゃない。あなたの成長をあなたのお母さんと一緒に見守ってきたから、私にとって貴方は血は繋がっていないかもしれないけど、大切な息子なの。誰になんて言われようと、春くん。あなたはうちの子で、私の愛しい人。だから、引き取ったのよ……手続きに時間が掛かって、春くんには大変な思いをさせちゃったけど」
「――」
――ああ、そっか。
俺には、美玖さんのような味方だけじゃなくて、ちゃんと俺のことを想ってくれる家族もいたんだ。
――ずっと、一人じゃなかったんだな。
「少しはあなたのことを愛してるって伝わった?」
「っ……はい」
欠けていたものが少しずつ埋まっていくのを感じる。
「そっか……なら良かった」
まだ、無理だけど。
でもいつか、この人のことをお母さんと呼びたい。
そんな風に思う。
「誤解が解けて一安心だけど……うーん、さっきの件はどうしようか」
「え」
「春くんがうちから離れる件だよ」
「ぁ、それは……」
正直いえば、さっきよりもこの家を離れたい気持ちは薄れている。
だけど、黎とあんなことがあった今、俺はやはりいるべきではないだろう。
「子供は親の元から離れるものだから……だからね、妥協点!」
「妥協点、ですか」
「そう。春くんが一人暮らしをするのは認めます。でも、それは誰かと同居するんじゃなくて、ちゃんと私が安心して任せられる家で自分の力で生活すること」
「それって」
美玖さんにも迷惑がかからない、一番ベストな答えだ。
「でも、いいんですか?」
お金の問題とか。
「それについては、私に案があるから大丈夫!でも、今から家探さないといけないから直ぐにとはいかないよ?それでもいい」
「はい、大丈夫です!」
俺の返事に、桜さんは満足そうに笑う。
「うん。なら明日知り合いに連絡入れるから、今日はもうゆっくり休んで。私は少し黎と話すから」
「桜さん……」
「大丈夫だよ、春くん。こっちは何とかするから……それよりも、これからは家にいることも多くなると思うから、私のこと――構ってくれないと拗ねちゃうからね?」
可愛らしい上目遣いでこちらを見てくる姿に、俺は心の底からの笑みを浮かべる。
「――はいっ、もちろんです」
この日、俺はずっと胸の中につっかえていた一つの問題を解決するのだった。
そしてこの夜――
俺のスマホには鈴瀬からの連絡が入る。
届いたメッセージには、短く『助けて下さい』と書かれていた。
――――――――――
いろいろ暴走気味な桜さんですが、この人がいたからこそ春人は擦れずに優しい心根を持って成長できたんだと思います。
さて、衝撃的な最後で終わった本エピソードですが、次回からは黎視点を2話に渡ってお送りいたします。
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