第16話:青墨への道

琳華が夏祭りを楽しんでいた同日、真夏の陽光が青墨の街を照りつける中、楊蒼来と楊雲雷の二人は、威厳ある足取りで総督府へと向かっていた。蒼龍郡の伝統的な装いに身を包んだ二人の姿は、道行く人々の視線を集めていた。


蒼来は深緑の長衫に金糸で龍の模様が刺繍された上着を羽織り、腰には象牙の飾りがついた帯を締めていた。その横で雲雷は、年齢を感じさせない凛々しい姿で、濃紺の長衫に銀糸で雲の模様が施された上着を身につけ、腰には代々受け継がれてきた玉の帯留めをつけていた。二人とも、蒼龍郡の伝統と権威を体現するかのような装いだった。


総督府の巨大な朱塗りの門をくぐると、二人は一瞬足を止めた。蒼来が眉をひそめ、低い声で呟いた。

「父上、何か胸騒ぎがします」


雲雷は口元に微かな笑みを浮かべ、諭すように答えた。

「嵐峡の監察使の言葉を意識しすぎだろう。だが、警戒は怠るな。相手の出方を見てから判断するのでも遅くない」


二人が広間に足を踏み入れると、張元豪副総督が笑みを浮かべて二人を出迎えた。張元豪は豪華な絹の長衫に、金の刺繍が施された上着を身につけ、その姿は権力と富を如実に表していた。


「やあ、楊家の皆様。わざわざお越しいただき、恐縮です」


蒼来が丁寧に会釈しながら挨拶を返すと、奥から威厳ある声が響いた。


「よくぞ来てくださいました、楊家の皆様」


総督の趙安が、ゆったりとした歩みで姿を現した。趙安は深紅の長衫に金糸で鳳凰の模様が刺繍された上着を羽織り、その姿は威厳そのものだった。その傍らには、馮灼戸部尚書の痩せた姿もあった。馮灼は質素ながら上質な灰色の長衫を身につけ、知的な雰囲気を漂わせていた。


趙安は上座に着くと、穏やかな表情で話し始めた。

「楊家の皆様には、常日頃から蒼龍郡の統治にご尽力いただき、感謝に堪えません。本日は楊家の皆様と親睦を図りたくお呼びさせていただきました」


その後、青墨総督府、楊家との間で取り止めのない世間話が続いた。張元豪が茶器を丁寧に扱いながら茶を注ぎ、さりげなく話題を変えた。


「さて、楊家の皆様にちょっとしたお願いがございまして...」


蒼来、雲雷の表情に一瞬緊張が走る。蒼来は無意識に背筋を伸ばし、雲雷は穏やかな表情を保ちつつも、眼光が鋭くなった。


(本題が始まったかな...)


趙安が頷くと、馮灼が一歩前に進み出た。馮灼は両手を胸の前で組み、やや前かがみになって話し始めた。


「実は、新帝への拝謁の折に、我が青墨総督府へのお取り成しをいただけないかと」


その言葉とともに、側近たちが豪華な贈り物を運び込んできた。金銀の装飾品、高価な絹織物、珍しい骨董品など、その豪華さは目を見張るものがあった。


蒼来の表情が引き締まる。彼は背筋をさらに伸ばし、毅然とした声で答えた。


「趙総督、このようなものは...」


趙安が穏やかに手を上げた。その仕草は優雅でありながら、何か冷たいものを感じさせた。


「楊家当主、これは単なる感謝の印です。本日はこちらにお越しいただき誠にありがとうございました」


蒼来は毅然とした態度で答えた。その声には、楊家の誇りと信念が滲み出ていた。


「趙総督、お気持ちは十分に理解いたしました。しかし、帝の信頼を得る道は、こういった贈り物ではありません」


蒼来は一度深く息を吸い、続けた。その姿勢は楊家の威厳を体現するかのようだった。


「真に帝の信頼を得るには、民のための公正な統治こそが重要です。汚職を根絶し、税の公平な徴収と適切な使用、そして民の声に耳を傾ける政治。これらを実践することが、帝の信頼を勝ち得る唯一の道だと我々は信じています」


趙安の眉がわずかに動いた。蒼来は更に言葉を続けた。その声には、揺るぎない信念が込められていた。


「青墨の繁栄は、翠玉朝全体の繁栄にもつながります。清廉な政治こそが、民の信頼を得、ひいては帝の信頼にもつながるのです。我々楊家は、そのような政治を蒼龍郡で実践してきました。趙総督、このような統治の在り方こそ、帝にお伝えすべきではないでしょうか」


場の空気が一瞬凍りついた。張元豪と馮灼は困惑の表情を隠せなかったが、趙安の目には、わずかながら感心の色が浮かんでいた。


趙安はゆっくりと立ち上がり、蒼来に近づく。その歩みは優雅でありながら、何か危険なものを感じさせた。


「楊家当主、あなたの信念は尊敬に値します。しかし、時に...柔軟な対応も必要ではないでしょうか」


蒼来は動じることなく返した。その姿勢は、まるで岩のように揺るがなかった。


「柔軟さと節操のなさは違います。我々楊家は、民への誠実さを何よりも大切にしてきました」


馮灼が焦りを隠せない様子で口を挟んだ。彼の細い指が震えているのが見て取れた。


「しかし、より大きな舞台で楊家の手腕を発揮されては...」


「我々にとって、蒼龍郡こそが最も大切な舞台です」


蒼来の言葉は力強かった。趙安は深いため息をつき、諦めたように頷いた。


「わかりました。楊家の意志は十分に伝わりました。本日はここまでとしましょう」


蒼来と雲雷は丁重に辞退の意を示し、広間を後にした。二人の背中には、楊家の誇りと決意が感じられた。


扉が閉まると同時に、趙安の表情が一変した。その目には冷たい光が宿っていた。


「人払いだ」


側近たちが退室すると、趙安、張元豪、馮灼の三人だけが残された。


「あの楊家め、こうも頑なとは」


張元豪が歯軋りした。その表情には、怒りと焦りが入り混じっていた。馮灼は不安げに言った。彼の額には冷や汗が浮かんでいた。


「今の話が皇帝陛下の耳に入ったら...」


「落ち着け」趙安が低い声で言った。その声には、冷酷な決意が滲んでいた。「まだ手はある。夜鴉!」


闇の中から、黒衣の人影が現れた。夜鴉の姿は、まるで影そのもののようだった。


「楊家の弱みを探れ。どんな些細なことでもいい」


夜鴉は無言で頷き、闇に溶けるように消えていった。張元豪が不敵な笑みを浮かべる。


「贈り物で懐柔するのではなく、最初からこうすればよかったですな」


趙安は窓の外を見つめながら、冷たく言った。その目には、計算高い光が宿っていた。


「西方の田舎者だと思っていたので懐柔しやすいと踏んでいたが、想像以上の頑固者だったな。だが、弱みが握れれば、蒼龍郡での我々の影響力もあがろう...」


夏祭りの喧騒が遠ざかり、静寂が宿舎を包み込んでいた。楊琳華は窓辺に腰かけ、月明かりに照らされた庭を眺めていた。琳華は淡い青の寝間着を身につけ、長い黒髪を緩く結んでいた。その瞳には、今までにない柔らかな光が宿っていた。


「鳳来...」琳華は小さく呟いた。弟との関係を見直そうとする自分の心の変化に、戸惑いと期待が入り混じっていた。


そのとき、琳華の鋭い直感が何かを察知した。彼女の体が一瞬で緊張し、全身の神経が研ぎ澄まされる。庭の木々の間に、僅かに動く影を捉えた琳華の目が釘付けになった。


瞬時に判断した琳華は、窓から飛び出し、闇に潜む影へと襲いかかった。その動きは、まるで優雅な舞のようだった。


「誰だ!」


夜鴉は琳華の予想外の行動に驚いた。夜鴉の黒衣が月明かりに一瞬きらめいた。


「まさか...」


琳華の蒼龍拳が夜鴉に向かって繰り出される。夜鴉は咄嗟に身をかわし、防御の態勢を取った。その動きは、まるで影と一体化したかのようだった。


「まさかこの私の気配に気がつくとは...」


夜鴉の言葉を遮るように、琳華の攻撃が続く。琳華の長い髪が月光に照らされ、その動きに優雅さを加えていた。夜鴉は後退しながら、琳華の動きを観察していた。


「子供の力とは到底思えんな...」


琳華の攻撃は鋭く、夜鴉を追い詰めていく。しかし、夜鴉の動きはさらに洗練されていた。


「姿を見られてしまった以上仕方がないか...」


夜鴉の声が冷たく響く。琳華の一撃が空を切った瞬間、夜鴉の反撃が放たれた。鋭い刃物の閃きと、琳華の悲鳴が同時に響いた。


「くっ...」


琳華の体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。夜鴉は琳華の傍らに立ち、苦渋の表情を浮かべていた。


「まさかこんな結果になるとはな...」


琳華は左脇腹を押さえ、苦しそうに息をする。深く刺さった刃物の痕から、大量の血が流れ出ていた。琳華の淡い青の寝間着が、徐々に濃い赤に染まっていく。


「琳華姉さん!」


鳳来の叫び声が聞こえた瞬間、夜鴉は闇に溶けるように姿を消した。


「琳華!」


蒼来が駆けつけ、姪を抱き起こす。琳華は苦しそうに息をしながら、かすれた声で言った。


「気を...つけて...鳳来を...守って...」


血の色が急速に琳華の衣を染めていく。その傷の深さに、蒼来の顔が青ざめた。


「医者を呼べ!急げ!」


雲雷の厳しい声が響く中、宿舎中が慌ただしい動きに包まれた。


生死の境を彷徨う琳華のベッドの傍らで、楊家の面々は沈痛な面持ちで見守っていた。医者が必死に治療を施すが、傷の深さに眉をひそめる。


蒼来は静かに立ち上がり、窓の外の青墨の街を見つめた。その目には、これまでに見たことのない厳しさが宿っていた。蒼来の深緑の長衫は、月明かりに照らされてより一層深い色合いを帯び、その姿は決意に満ちていた。


蒼来の胸の内で、怒りと決意が渦巻いていた。青墨の闇、その根源に潜む腐敗と陰謀。それらすべてと対峙し、打ち倒す覚悟が、彼の心に芽生えていた。


「父上」蒼来は静かに、しかし力強く語りかけた。その声には、これまでにない重みがあった。「この街の闇を払拭する時が来たようです」


雲雷は黙ってうなずいた。言葉は必要なかった。父子の間に流れる沈黙が、互いの決意を確かなものにしていった。


部屋の隅で、鳳来は琳華の手を握りしめていた。その小さな手は、姉の命の温もりを必死に感じ取ろうとしているかのようだった。鳳来の眼には涙が溜まっていたが、同時に強い決意の光も宿っていた。


「姉上...必ず...」


鳳来の囁きは、誓いのように響いた。

窓の外では、青墨の街に夜の帳が降りていた。街灯の明かりが、まるで星座のように点在している。その光の海の中に、影のように潜む闇が感じられた。


蒼来は再び家族の元へと戻り、静かに言った。


「明日から、我々は反撃する。楊家の名にかけて、この街を浄化する」


雲雷は頷き、低い声で答えた。


「慎重にな。相手は我々の想像以上に根深い」


蒼来は父の言葉に頷きつつ、「はい。しかし、楊家のものが害されたのです。もはや後には引けません」と答えた。


部屋の中は緊張感に満ちていたが、同時に不思議な静けさも漂っていた。それは嵐の前の静けさのようでもあり、決意を固めた者たちの覚悟の表れのようでもあった。


うだるように暑い青墨の夜。楊家の戦いが始まった。その戦いは、単なる権力闘争ではない。民のため、正義のため、そして彼らが信じる理想の統治のための戦いだった。

この戦いは青墨の変革にとどまらず翠玉朝の未来を左右する、ある事件の始まりにすぎなかった。

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