第15話:月下の再会

深い闇に包まれた嵐峡の山々を、小さな影が必死に駆け抜けていた。楊鳳来の幼い体は、王剛の逞しい腕に守られながら、馬上で揺れていた。風を切って走る馬の背に乗りながら、鳳来の心の中では緊張と決意が交錯していた。幼い体に似合わぬ重圧を感じながらも、彼は必死に冷静さを保とうとしていた。


「王剛、盧燕さんはもう見えないな」


鳳来は落ち着いた声で現状を確認した。その小さな手は馬の鬣をしっかりと握りしめ、深緑色の上質な絹の長袍が夜風にはためいていた。しかし、その冷静な外見とは裏腹に、鳳来の心の中では不安と焦りが渦巻いていた。盧燕の身を案じる気持ちと、自分にできることは何かという思いが交錯していた。


王剛は鋭い眼光で前方を睨みつけながら答えた。彼の筋骨隆々とした体つきは、黒い革の軽装鎧に包まれていた。


「はい、盧燕殿下はかなり先に出発されましたので、もう姿は見えません。相当な速さで進んでおられるのでしょう」


鳳来は頷くと、再び前を向いた。月明かりに照らされた山道は険しく、一歩間違えば崖下に転落しかねない。その危険な道のりを、盧燕は驚異的な速さで駆け抜けていったのだろう。鳳来の心には、盧燕への心配と、自分も早く追いつかなければという焦りが渦巻いていた。同時に、この危険な状況に身を置いている自分の立場についても考えを巡らせていた。前世の記憶と現在の状況が重なり、複雑な感情が胸の内に広がっていた。


「鳳公子様」


王剛の声が耳元で聞こえた。


「山岳地帯での戦いは平地とは全く異なります。地形を利用した奇襲や、予期せぬ落石など、危険が至る所に潜んでいます。私の馬に乗っているとはいえ、どうかお気をつけください」


王剛の声には、鳳来を守ろうとする強い決意が感じられた。

鳳来は真剣な表情で王剛の言葉に耳を傾けた。彼の幼い顔には、大人びた決意の色が浮かんでいた。その表情の裏には、前世の経験から得た知識と、現在の自分の立場との狭間で揺れる複雑な思いが隠されていた。


「分かりました。十分注意します」


鳳来の声には、その年齢からは想像できないほどの落ち着きがあった。しかし、その心の中では、これから直面するであろう危険と、自分の決断が及ぼす影響への不安が渦巻いていた。


一行が山を登るにつれ、遠くで響く金属音と怒号が聞こえ始めた。戦いの音だ。鳳来の小さな体に緊張が走る。彼の心臓は激しく鼓動し、手のひらに冷や汗が滲んでいた。前世では経験したことのない、生々しい戦いの気配に、恐怖と興奮が入り混じった感情が湧き上がってきた。


「あそこだ!」


王剛の声に、全員の目が一点に集中した。


山の中腹に広がる平地に、無数の松明の光が揺らめいていた。そこでは、鄭剛率いる守備隊と李風の山賊団が激しい戦闘を繰り広げていた。剣と剣がぶつかり合う金属音、怒号、悲鳴が入り混じり、夜の静寂を引き裂いていた。


鳳来は息を呑んだ。目の前に広がる光景は、彼の想像をはるかに超えていた。前世の記憶にある戦争の映像とは比べものにならない生々しさに、一瞬たじろぐ。しかし、すぐに自分の立場を思い出し、冷静さを取り戻そうと努めた。この状況下で自分にできることは何か、どうすれば最小限の犠牲で事態を収束できるか、必死に考えを巡らせた。


夜の闇が深く沈む嵐峡の山々を、激しい金属音が引き裂いていた。月明かりに照らされた平地で、鄭剛と李風の剣が激しくぶつかり合う。二人の周りでは、守備隊と山賊団の戦いが繰り広げられていた。


「李風!」


鄭剛の声が夜空に響く。


「お前はなぜ、こんな道を選んだ!」


李風は苦々しい表情で応じた。彼の顔には深い傷跡が刻まれ、その目には怒りと悲しみが宿っていた。


「鄭剛、世の中はお前が思っているほど単純じゃない!これは俺たちが生き残るために選択した結果だ!」


二人の剣が再び激しく打ち合う。鄭剛の青い軍服が月明かりに輝き、李風の粗末な山賊の衣服とは対照的だった。かつての戦友同士、今は敵同士となった二人の眼差しには、複雑な感情が交錯していた。


「やめて!」


盧燕の悲痛な叫びが響く。彼女は薄紫色の長衣を乱し、必死に両手を広げて二人の間に立ちはだかろうとしていた。


「李風、これ以上争うのはやめて!」


しかし、盧燕の声も、激しい戦いの中でかき消されてしまう。鄭剛と李風は、互いへの怒りと失望に燃えたまま、剣を交え続けた。


「鄭剛、お前にはお前の事情があるかもしれんが、引くわけにはいかない!」


李風が怒りの声を上げる。


鄭剛の顔が歪む。


「李風…お前こそ、なぜ山賊になった?俺は、俺はこんなこと望んでいなかった!」


二人の剣戟が、さらに激しさを増す。その音は、夜の静寂を引き裂くように響いた。盧燕は泣きながら、必死に二人を止めようとするが、もはや彼女の声は二人の耳には届かない。


戦いは一進一退を続け、互いに傷を負いながらも、どちらも譲る様子はない。しかし、次第に李風の動きが鄭剛を圧倒し始めていた。鄭剛は突然かつての戦友があらわれたことに明らかに動揺していた。


「くっ…」


鄭剛の口から苦痛の呻きが漏れる。彼の動きが、わずかに鈍っていく。額には冷や汗が滲み、呼吸が乱れ始めていた。

李風は鄭剛の隙を見逃さなかった。一瞬の迷いの後、彼は全身の力を込めて剣を振り下ろした。


「ガキィン!」


鄭剛の剣が宙を舞う。彼の体が後ろに倒れ、地面に叩きつけられた。李風の剣が、鄭剛の喉元に突きつけられる。


「鄭剛…」


李風の声が震えていた。


「お前を殺したくはない。お前には大きな恩がある。だが、我々が生きるためにはお前を切らなくてはならない...」


鄭剛は苦しそうに息を吐きながら、李風を見上げた。その目には、怒りと共に深い悲しみが宿っていた。


「李風...お前は...本当に山賊になったんだな...」


李風の手が微かに震える。彼の目には、複雑な感情が交錯していた。


「俺は…俺たちは…生きるためにこの道を選んだんだ。お前には分からないかもしれない。だが、これが俺たちの現実なんだ」


鄭剛は歯を食いしばった。彼の目には、悔しさと共に、かつての親友への複雑な思いが宿っていた。


「李風…俺は…」


その時、盧燕が二人の間に飛び込んできた。彼女の目には涙が溢れ、声は震えていた。


「李風、やめて!彼を切ればもう戻って来れなくなる!」


李風は一瞬躊躇した。彼の剣先が、わずかに揺れる。


その隙を突いて、鄭剛が地面から転がるように身を翻した。しかし、すでに体力を消耗していた彼は、うまく立ち上がることができない。


李風は再び剣を構えた。その目には、決意と迷いが交錯していた。


「鄭剛、もう戻れない。俺たちは、生きていくために、お前を切る...」


鄭剛は地面に倒れたまま、苦しそうに息を吐いた。彼の目には、敗北の悔しさと、かつての親友への複雑な思いが宿っていた。


「李風…」


場に重い沈黙が訪れた。月明かりが、二人の姿を静かに照らしている。周囲では鄭剛が破れたことにより守備隊の士気が下がり山賊に投降するもの、持ち場を離れて逃げ出すものも現れていた。

盧燕は涙を流しながら、必死に二人を見つめている。


その時、遠くから馬蹄の音が聞こえ、場の空気が凍りついた。


遠くから聞こえ始めた馬蹄の音が、次第に大きくなっていく。夜空に青墨の旗が翻り、騎馬隊が姿を現した。月明かりに照らされた彼らの黒い鎧が不吉な輝きを放っている。騎馬隊は嵐峡の守備隊が敗れていることを確認すると、即座に援護のため突撃を開始した。


「援軍だ!」


鄭剛の部下たちから安堵の声が上がる。彼らの疲れ切った顔に、わずかな希望の光が宿った。


守備隊との戦闘で疲弊していた山賊たちは、この新手に対応することができなかった。李風の叫び声も空しく、山賊団は瞬く間に瓦解し始めた。彼らの疲労困憊した姿が、月明かりに浮かび上がる。


「退却だ!全員退却!」


李風の声が山肌に響く。


盧燕は必死に李風や山賊団を守りながら、撤退路を確保しようとしていた。彼女の薄紫色の長衣が月明かりに揺れ、剣さばきは優雅さと鋭さを併せ持っていた。その動きは、まるで舞うかのように美しく、同時に致命的だった。


そのタイミングで、楊鳳来たちが到着した。鳳来は王剛に馬からおろしてもらうと、よく見える場所まで近寄り素早く状況を把握する。彼の瞳には、状況が鳳来個人の手に負えない段階に入ったことへの焦りが宿っていた。ただ、周囲の混沌とした状況にも関わらず、鳳来の表情は冷静さを保っていた。


「王剛」


鳳来の声が、静かに響く。


「お願いがあります。」


王剛は驚いた表情を浮かべつつも、すぐに真剣な面持ちになった。彼の顔には、主君への絶対的な忠誠心が表れていた。


「何でしょうか、鳳公子」


鳳来は王剛の耳元で何かを囁いた。王剛の目が大きく見開かれる。彼の筋肉質な体が、一瞬緊張で硬直した。


「しかし、鳳公子、それは...」


王剛の声には躊躇いが滲んでいた。


鳳来は深く息を吐いた。彼の心の中では、自分の決断の重さと、それがもたらす結果への不安が渦巻いていた。しかし、同時に、この状況を打開するためには、自分にしかできない行動があるという確信もあった。


「お願いです。盧さんの家に赴く前、叔父上とお話しし、覚悟はできています。後でとても怒られるかもしれませんが。できますか?」


王剛は深く頷くと、飛ぶように馬に跨った。彼の表情には、主君の命令を遂行する覚悟が刻まれていた。


「やってみせます。この王剛にお任せください!」


次の瞬間、王剛の姿が戦場に飛び込んでいった。彼の巨体を乗せた馬が疾走し、両軍の間に割って入る。王剛の威圧的な存在感に、守備隊も騎馬隊も一瞬動きを止めた。彼の姿は、まるで戦の神が降臨したかのようだった。


鳳来は、王剛の背中を見送りながら、自分の決断の結果を見守ることしかできない自分の無力さに歯噛みした。しかし、同時に、この行動が最善の選択であると信じていた。


王剛は雄叫びを上げながら、山賊の頭目である李風に襲いかかった。彼の手には長剣が握られ、その刃が月明かりに冷たく光っていた。しかし、李風はすでに騎馬隊の攻撃を受け、右肩から血を流していた。彼の顔は苦痛で歪んでいたが、その目には決して諦めない意志が宿っていた。


その時、盧燕が李風の前に立ちはだかった。彼女の長い黒髪が風に揺れ、その姿は凛々しかった。


「李風を渡すわけにはいきません!」


彼女の声には、揺るぎない決意が込められていた。王剛は挑戦を受けるため馬から降り、盧燕と対峙する。


覚悟を決めた盧燕と王剛は、お互い死力を尽くして戦い始めた。盧燕の剣と王剛の剣がぶつかり合い、火花が散る。二人の動きは目にも止まらぬ速さで、その異常なまでの力に、この場の誰もが圧倒された。


盧燕の動きは力強いがどこか優雅さがあり、その剣さばきは流れるような美しさを持っていた。一方、王剛の攻撃には圧倒的な力強さがあり、その一撃一撃が大地を揺るがすかのようだった。


激しい攻防が続く中、王剛の口元に小さな笑みが浮かんだ。彼の声が、戦いの音を切り裂いて響く。


「ふむ...こんなに強い相手は久しぶりだ!」


王剛の言葉に、盧燕は僅かに油断した。彼女の動きが一瞬緩み、それを王剛が見逃さない。彼の剣が、盧燕の防御を破る。


しかし盧燕は咄嗟に身をひねり、王剛の攻撃をかわすと同時に反撃を繰り出した。その動きの速さと正確さに、今度は王剛が驚きの色を見せる。


二人の戦いを目にした李風と鄭剛は、思わず息を呑んだ。李風の目は驚きで見開かれ、鄭剛の口は半開きになっていた。


「まさか...盧燕がここまで強かったとは...」


李風の声は震えている。先ほど盧燕は自分を止めようと思えば力づくでできたという事実を噛み締めていた。そして制止していたのは自分の意思を最後まで尊重し続けてくれたのだと理解した。


鄭剛も呟くように言った。


「あの二人、これほどの猛者なのか...?」


周囲の兵士たちも、山賊たちも、皆手を止め足を止めこの驚異的な戦いに釘付けになっていた。彼らの目には、畏怖と尊敬の色が宿っていた。


激しい攻防が続く中、両者の呼吸が荒くなり始めていた。盧燕の額には汗が滲み、その長い黒髪が風に舞う。王剛の筋肉質な腕には、幾筋もの傷が付いていた。


突如、盧燕が踏み込んだ。彼女の剣が月光を捉え、一瞬、銀色の光が閃いた。王剛は咄嗟に身を翻すが、その動きが通常よりも遅い。疲労の色が見え始めていた。


盧燕の剣が王剛の肩を掠める。鋭い痛みに、王剛の顔が歪む。しかし、彼はその痛みを利用するかのように、体を回転させた。


「どりゃあっ!」


王剛の雄叫びと共に、彼の剣が大きく弧を描く。盧燕は素早く後方に跳んだが、剣先が彼女の頬を切り裂いた。


血が滴る頬を押さえながら、盧燕は再び構えを取る。その目には、決して諦めない意志が燃えていた。


二人は一瞬、互いを見つめ合う。次の瞬間、同時に踏み込んだ。


剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。二人の力がぶつかり合い、一瞬、均衡が保たれる。しかし、王剛の圧倒的な体格差が徐々にその均衡を崩していく。


盧燕の腕が震え始める。彼女の表情に、初めて焦りの色が浮かぶ。


「はあああっ!」


王剛が全身の力を込めて押し込む。盧燕の体が大きく後ろに弾かれる。


彼女が体勢を立て直そうとした瞬間、王剛の剣が閃いた。鈍い音と共に、盧燕の剣が宙を舞う。


盧燕は膝をつき、肩で大きく息をする。彼女の目には、敗北を認める色と、全てが終わったという絶望があった。


「あなたの...勝ちです」


盧燕のその言葉と共に、激しい戦いが幕を閉じた。周囲には、信じられないものを見たかのような静寂が広がっていた。


王剛は大きく息を吐きながら、盧燕を見下ろした。その目には、ひさしぶりに手応えのある相手と戦えた満足感が宿っていた。


「見事な剣捌きだった」


王剛の声には、心からの賞賛が込められていたが、盧燕は苦渋の表情を浮かべた。


李風、鄭剛は、まだ信じられないという表情で二人を見つめていた。


戦場に静寂が訪れる中、王剛は大声で叫んだ。彼の声は、戦場全体に響き渡った。


「この山賊は楊家、王剛が討ち取った。よって彼らの身柄は楊家にて預かる!」


鄭剛や騎馬隊の隊長はその発言の意味を理解した途端、激昂した。その勢いのまま異を唱えようとした瞬間、鳳来が現れた。彼の小さな姿が月明かりに照らされ、御伽噺の挿絵のようだった。鳳来の深緑色の長袍が夜風にはためき、その姿には子供とは思えない風格があった。


「楊家を蔑ろにするのであれば」


鳳来の声が静かに、しかし力強く響く。


「それ相応の覚悟を持っていただきます」


その言葉に、場の空気が凍りついた。鄭剛と騎馬隊の隊長は、互いに顔を見合わせ、そして小さく頷いた。彼らの表情には、この幼い少年の言葉に対する驚きと、楊家の力への畏怖、そして自分たちでは判断がつけられない状況になったことを理解していた。


静寂が訪れた戦場に、朝日が昇り始めた。その柔らかな光が、傷ついた大地を優しく照らし始める。血に染まった地面、折れた武器、そして疲れ切った兵士たちの姿が、朝日の中に浮かび上がる。新たな一日の始まりと共に、嵐峡の未来も、新たな局面を迎えようとしていた。

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