副都青墨

第17話:夏祭

朝靄が街を包む中、青墨の宿から一人の少女が姿を現した。楊琳華は、薄青緑色の質素な上着に灰色の袴という控えめな装いで、その小柄な体に不釣り合いな凛とした雰囲気を漂わせていた。琳華の表情には、いつもの厳しさの中に、今日一日への期待が垣間見えた。


宿の前で待っていたのは盧燕だった。紺色の男装姿で、凜々しい佇まいは琳華の目を引いた。


「お待たせしました、盧燕様」


琳華が丁寧に挨拶をする。

盧燕は柔らかな笑みを浮かべて答えた。


「いいえ、丁度良い時間です。さあ、参りましょう」


二人が歩き始めると、琳華は街の様子に目を奪われた。


「盧燕様、あれは夏祭りの飾り付けでしょうか?」


琳華が指差す先には、色とりどりの提灯が街路に飾られ始めていた。露店の主たちが忙しく準備に励む姿も見える。


「ええ、青墨の夏祭りの飾り付けですね。今日はきっと賑やかになりますよ」


盧燕の声には、どこか懐かしさが混じっていた。

琳華の瞳が好奇心に輝く。普段は感情を抑え、冷たい印象を与えがちな彼女だが、今日は少し違っていた。「胸が高鳴ります」と小さな声で呟いた。


最初に足を運んだのは、伝統工芸品の実演コーナーだった。そこでは、青墨特産の藍染めが行われていた。職人の巧みな手さばきに、琳華は目を奪われた。その真剣なまなざしは、まるで技を盗もうとしているかのようだった。


「お嬢さん、やってみませんか?」


老職人が琳華に声をかける。


琳華は一瞬躊躇した。普段なら断っていたかもしれない。しかし今日は違う。盧燕の温かい目に後押しされ、「はい、お願いします」と答えた。


小さな手で布を染料に浸し、慎重に絞る。琳華の表情は真剣そのもので、周囲の大人たちも思わず見入ってしまう。完成した作品を見せられると、琳華の顔が明るく輝いた。普段はあまり見せない、幼さの残る笑顔だった。


次に訪れたのは、子供たちが遊ぶ広場だった。そこでは「青墨鬼せいぼくおに」という鬼ごっこが行われていた。琳華は少し距離を置いて見ていたが、その目は子供たちの動きを追っていた。


「琳華様、参加してみませんか?」


盧燕が優しく促す。


琳華は躊躇した。「でも...私には...」彼女の声には不安が混じっていた。幼い頃から厳しい教育を受けてきた琳華にとって、他の子供たちと遊ぶことは未知の領域だった。


盧燕は琳華の肩に手を置いた。


「大丈夫です。私がしっかり見守っていますから」


その言葉に背中を押され、琳華は遊びの輪に加わった。最初は戸惑いを隠せなかったが、徐々に打ち解けていく。その機敏な動きは子供たちを驚かせ、すぐに人気者になった。


「お姉ちゃん、すごい!」


地元の子供たちが口々に褒める。琳華の頬が薄紅色に染まる。そこには、厳しい楊家の教育の中では味わえなかった、純粋な喜びがあった。


昼時、二人は屋台で青墨の名物「青墨饅頭せいぼくまんじゅう」を味わった。その独特の青い色と上品な甘さに、琳華は目を輝かせる。普段は食事にも厳しい作法を求められる彼女だが、今日は少し羽目を外してもいいような気がしていた。


「おや、お嬢さんたち。青墨饅頭を楽しんでおられるようですね」


近くで食事をしていた老人が声をかけてきた。琳華は一瞬戸惑ったが、すぐに礼儀正しく答えた。


「はい、とても美味しゅうございます」


老人は穏やかな笑顔で語り始めた。


「この饅頭にはね、昔々、天から降ってきた青い龍の涙から生まれたという伝説があるんですよ」


琳華は目を丸くして聞き入る。普段なら伝説など信じないと一蹴していたかもしれない。しかし今日の琳華は違った。「本当ですか?もっと詳しくお聞かせください」と、珍しく積極的に老人に質問を投げかけた。


老人の語る青墨の歴史に、琳華は街への愛着を感じ始めていた。それは単なる統治者としての関心ではなく、もっと人間的な、温かいものだった。


午後、琳華と盧燕は青墨の象徴である「大雁塔」を訪れた。七重の塔が青空に向かってそびえ立つ様は、琳華の目を奪った。


「盧燕様、登ってみましょう」


琳華が提案する。その声には、普段には見られない冒険心が滲んでいた。


塔の最上階から街を一望すると、青墨の美しさと同時に、貧富の差が激しい地区も目に入る。琳華の表情が少し曇る。


「街には光と影がありますね」


盧燕が静かに言った。


琳華は黙って頷いた。幼いながらも、統治者の一族として責任を感じ始めていた。その瞳には、将来への決意が宿っていた。


一日中、琳華は盧燕の立ち居振る舞いを観察していた。露店の店主と巧みに交渉する姿や、迷子の子供を優しく助ける様子に、琳華は心を奪われる。盧燕の姿は、琳華が憧れる「強く、優しい女性」そのものだった。


「盧燕様、どうしてそんなに色々なことができるんですか?」


琳華が尋ねる。その声には尊敬の念が込められていた。盧燕は少し考えてから答えた。


「経験ですね。そして、人々の気持ちを理解しようとする心がけかもしれません」


琳華はその言葉を胸に刻んだ。それは、彼女の将来の指針となるものだった。


夕暮れ時、祭りのクライマックスである花火大会が始まった。琳華は地元の子供たちと一緒に花火を見上げながら、今日一日の出来事を振り返る。その表情には、今までにない柔らかさがあったが、同時に厳しさもあった。


花火の光が夜空を彩る中、琳華は盧燕に尋ねた。


「盧燕様、今日は楽しい一日でしたが...どこか変な感じがします。街全体が、なんだかひりついているような...」


盧燕は琳華の鋭い観察眼に驚きつつ、静かに答えた。


「よく気づきましたね。青墨には大きな問題があるんです。表面上は華やかな祭りで覆い隠されていますが、この街の問題は汚職です。それを意識してか街にいる兵士も生活してる民も常に隙を見せまいと意識しています。そして貧困などの問題は我関せず。こうして街の雰囲気が冷たいものになっているのでしょう」


琳華は盧燕の言葉に驚き、周囲を見回した。確かに、花火を楽しむ人々の中にも、警戒するような目つきの大人たちがいることに気がついた。


「では、この祭りも...」


「そうです。人々の不満をそらすための一種のガス抜きでもあるのです。でも、だからこそ琳華様ような立場の者が、本当の意味で人々のために何ができるか考えなければいけません」


花火の光が夜空を彩る中、琳華は盧燕に尋ねた。


「盧燕様、最近私は色々と考えるんです。私は女性ですが、一人の人間として自立したい。でもどうしたらいいかわからなくて。盧燕さんのような生き方を尊敬しています」


その声には、普段は見せない弱さと迷いが混じっていた。盧燕は優しく微笑み、琳華の肩に手を置いた。


「今日のあなたを見ていて思ったの。あなたには人々の心を温める力がある。あなたのその生き方がきっと未来を開いてくれるわ」


琳華は盧燕の言葉に驚き、そして少し照れる。「本当でしょうか...」その声には、自信のなさと希望が入り混じっていた。


「ええ、間違いないわ。今日の経験を大切にして、その気持ちを、例えば弟さんにも向けてみては?」


盧燕の言葉に、琳華は深く考え込んだが、相変わらず弟への嫉妬心、劣等感を感じていた。


宿舎に戻った琳華は、今日の出来事を日記に綴った。筆を走らせながら、彼女の心に小さな変化が芽生え始めていた。弟への複雑な感情は依然としてあるものの、今日の経験を通じて、自分にも人々と心を通わせる力があることを実感している。


琳華は日記に最後の一文を書き加えた。「明日からは鳳来にも心を開いてみよう」その文字には、決意と希望が込められていた。


日記を閉じ、窓の外を見る琳華。遠くでまだ花火の音が聞こえる。青墨の夜空に、新たな希望の光が灯ったようだった。琳華の瞳には、明日への期待が輝いていた。

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