第13話: 月下の舞踏

朝靄の立ち込める嵐峡の宿で、楊鳳来は顧明智との学びの時間を過ごしていた。窓から差し込む柔らかな光が、二人の間に置かれた古書を優しく照らしている。


鳳来は、濃紺の絹織りの長袍に身を包み、小さな体で凛とした佇まいを見せていた。艶やかな黒髪は整然と後ろで束ねられ、澄んだ瞳には好奇心の色が宿っていた。顧明智の言葉を聞きながら、鳳来は無意識のうちに袖口を弄んでいた。その仕草には、幼さと大人の狭間で揺れる彼の内面が表れている。


顧明智は灰色の質素な儒服を身にまとい、長い白髪混じりの髭を丁寧に整えていた。彼は話す際、時折髭をなでる動きをし、その仕草には知識人らしい几帳面さが感じられた。


部屋の隅では王剛が、シンプルながら動きやすい麻布の服を着用し、リラックスして座っていた。ただ彼の手は、いつでも武器を抜けるよう腰元の剣に添えられていた。


栄陽を経って随分経つが、鳳来はこの旅路で疑問に思っていたことを顧明智に質問する機会を伺っていた。


「先生」


鳳来は躊躇いがちに口を開いた。その声には、知的好奇心と遠慮が混ざっていた。


「この世界に、魔法は存在するのでしょうか?」


王剛は鳳来の質問を聞くや否や、「がはは!」と豪快に笑った。その笑い声は部屋中に響き渡り、緊張感を和らげた。

顧明智は穏やかに微笑み、ゆっくりと首を横に振った。

「なんとも唐突ですな」と言いながら、彼の目には優しい光が宿っていた。「良いですか鳳公子、魔法というものは存在しません。この世界を動かすのは、自然の理と人の力のみです」


鳳来は少し残念そうな表情を浮かべた。今まで触れ合った異世界転生ものとは違い、自分の前世とかなり近い世界であるという現実が鳳来に突き刺さった。


(なるほど。この間姉さんが言ってたあの「力」は、あくまでも人間の持ちうる力の延長線上にあるってことなのかな...)


「突然すみません」鳳来は謝罪しつつ、話題を変えた。「では、この『嵐峡志』について教えてください」


顧明智は穏やかに頷き、説明を始めた。


「はい。この本によると、嵐峡は青墨に近い山岳地域の重要な生産拠点として栄えてきました。鉱物資源や林業、薬草の産地として知られ、その取引で発展してきたのです」


顧明智は続けた。


「また、近年の興味深い動向として、山賊の数が減少しているそうです。同士討ちが激化し、以前ほどの脅威ではなくなってきているようです」


鳳来はその情報を熱心に聞き入っていた。彼の瞳には、年齢不相応な深い思慮の色が宿っている。その表情は、単なる子供の好奇心を超えた、何かより深い洞察を秘めているようだった。


その時、突如として外から騒がしい声が聞こえてきた。


「大変だ! また盧天佑様の易者が山賊に襲われたそうだぞ!」


鳳来と顧明智は顔を見合わせ、急いで外に飛び出す。王剛の顔には先ほどのリラックスしていた表情と打って変わって緊張が走り、素早い身のこなしでそれに続いた。


嵐峡の街は騒然としていた。楊家の宿から少し行った先にある、政庁舎の近くには人だかりができている。人々が右往左往する中、中心では鄭剛と盧天佑の激しい言い争いが繰り広げられていた。


鄭剛は濃紺の軍服姿で、腰に佩刀を下げ、威厳ある立ち振る舞いを見せていた。その姿勢からは、長年の軍歴で培われた自信と責任感、そして必死さが滲み出ていた。

一方の盧天佑は、上質な絹の長衣に身を包み、豪商らしい華やかさを漂わせていた。しかし今は、額に汗を滲ませ、落ち着かない様子で手を握りしめていた。その表情には、何か隠し事をしているような複雑な色が浮かんでいた。


「もう我慢ならん!」鄭剛の声には怒りが滲んでいた。「青墨総督府からの圧力も高まっている。慎重にことを運びたいと考えていたが、こうも頻発するようなら山賊討伐に出るべきだ!」


対する盧天佑は冷静さを保とうとしているものの、その表情には焦りの色が見えた。


「待ってくれ、鄭剛。もう少し話し合いの余地が...」


「何が話し合いだ!」鄭剛は激昂した。その声は広場中に響き渡り、周囲の人々を震撼させた。「お前のその及び腰な態度が、何度も襲撃を招いているんだ!現に襲われるのはお前のところばかりだ!」


その様子を、鳳来、王剛、顧明智は遠巻きに見ていた。鳳来の表情には、事態の深刻さを理解しつつも、疑問が浮かんでいた。

鳳来は眉をひそめ、顧明智に向かって尋ねる。


「顧先生、盧天佑さんと鄭剛さんが対立している場合、どうやって方針を決めるのでしょうか?」


顧明智は慎重に言葉を選びながら答えた。その表情には、経験豊かな教育者としての深い洞察が窺えた。


「盧天佑様はあくまでも商人頭、この街の守備方針は鄭剛様が優先されます。鄭剛様の上司は青墨総督府の地方守備隊の監督官でしょうし、今の話から察するに、総督府からの方針が山賊の討伐だと思われます」


「でも、先ほどこのあたりの山賊は同士討ちで減少してるっておっしゃってましたよね。被害が減っているならある程度放置していても良いのではないでしょうか」


鳳来の声には、単純な疑問以上の何かが感じられた。

顧明智は眉を寄せ、深く考え込むような表情を浮かべた。


「鳳公子、それはそうですが、山賊を放置しておくのは政府の面子を保つためにも許し難いのでしょう。そもそも罪人を放置しておくのはこの世の法にはございません。罪人はどこまでいっても罪人。処罰されねばならぬのです」


その言葉に、鳳来の胸がざわつくのを感じた。彼の表情には、何か納得できないものがあるような色が浮かんでいた。


「顧先生、罪人を更生させるという考えはないのですか」


鳳来の声には、単なる好奇心を超えた、強い思いが込められていた。

その言葉に顧明徳は目を見張った。


「鳳公子、罪人は孝や礼を自ら手放した者です。そのようなものに手を差し伸べるなどという考えは...」


そこまで言って顧明智はハッとして鳳来の顔を見た。その目には、何か重要なことに見落としていた動揺が走っていた。


「鳳公子がヴェンさんを助けたことは、今考えれば良い行いだったと私は思います。当初私は鳳公子に罪の償い方について言及しましたが、よくよく考えれば今の世は罪を償う機会すら与えていないですね」


顧明智は静かに付け加えた。その声には、長年の固定観念が少しずつ崩れていくような、微かな揺らぎが感じられた。


「盧天佑様も鳳公子と同じような想いをお持ちなのかもしれません」


鳳来は黙って頷いた。


夜が更けると、嵐峡の街は静寂に包まれた。しかし、その静けさを破るように、暗い路地から物音が聞こえてきた。


「早くしろ。見つかる前に荷物をかっさらうんだ」


低い声で男が仲間を急かしていた。その声には、焦りと恐怖が混ざっていた。


その時、月明かりに照らされた屋根の上に、一つの影が現れた。しなやかな動きで飛び降りてきたそれは、男装をした盧燕だった。


身にまとっているのは、黒を基調とした質素な男装で、胸元はゆったりとした布で巧みに覆われ、女性らしい曲線を隠していた。腰には細身の帯が巻かれ、そこに短刀が忍ばせてあるのが窺えた。


頭髪は男性のように高く結い上げられ、額に垂れかかる前髪が彼女の表情に陰影を与えていた。顔には月明かりが差し込み、凛とした美しさを際立たせていたが、同時に男性的な凛々しさも感じさせた。


盧燕の動きは軽やかで無駄がなく、長年の訓練で培われた身のこなしが窺えた。また、その動きはとても力強く男性的で、鋭い観察眼を持つ者であっても、彼女が女性であることは、彼女を知る者でなければ看破できそうにもなかった。


「そこまでだ」


凛とした声が夜気に響く。その声には、強い意志と冷静さが感じられた。

驚いた強盗たちが振り向くと、盧燕は既に彼らの目の前に立っていた。次の瞬間、目にも留まらぬ速さで盧燕が動き、強盗たちは一瞬のうちに地面に叩きつけられていた。その動きは、明らかに通常の人間の能力を超えていた。鳳来の姉・琳華の力をも遥かに凌駕する、異常な身体能力だった。


盧燕は倒れた強盗たちを見下ろしながら、優しくも厳しい口調で語りかけた。その声には、強い意志が込められていた。


「お前たちにも、きっと苦しい事情があるのだろう。だが、こんな真似は今すぐやめろ。まっとうな道を歩め。罪人になればもう戻ってこれない。嵐峡には、探せばお前たちの力を必要としている場所があるはずだ」


強盗たちは、恐れと畏敬の入り混じった表情で盧燕を見上げていた。その目には、単なる恐怖を超えた何かが宿っていた。


「行け」


盧燕の一喝で、彼らは這うようにして逃げ去った。


月の光に照らされた盧燕の姿は、まるで御伽話から飛び出してきた義侠のようだった。ただ、彼女の表情には現状への苦悩が刻まれていた。


遠くから、その一部始終を見ていたのは楊鳳来だった。彼は窓から強盗の姿を確かめると誰か人を呼ぼうとその場を離れようとしたが、急に飛び出してきた盧燕の姿に釘付けになっていた。


ただ、鳳来はそれが盧燕だと気がつくのにだいぶ時間がかかった。優雅な身のこなしで茶を淹れ、穏やかな微笑みを浮かべながら嵐峡の歴史を語っていた彼女の姿と、今目の前にいる月下の勇姿があまりにもかけ離れていたからだった。


夜の闇に溶け込むように消えていく盧燕の後ろ姿を、鳳来は食い入るように見つめていた。彼の小さな瞳には、驚きと共に、何か大きな発見をしたような光が宿っていた。


(あの盧燕さんが...こんなにも強いなんて。優しくて知的な人だと思っていたのに)


鳳来の思考が激しく巡る。


(でも、あれだけ強いのであれば王剛が鬼の形相で迫っても飄々としていられるだろうな)


鳳来は小さな頭を抱えながら、混乱する思考を整理しようとしていた。彼の表情には、困惑と共に、何か重要な気づきを得たような色が浮かんでいた。昼の盧燕と夜の盧燕、どちらが本当の彼女なのか。それとも、両方とも本当の姿なのだろうか。


また、今朝見た盧天佑の姿も思い出した。商人頭としての威厳ある姿と、鄭剛との言い争いの中で見せた焦りの表情。そこにも、何か隠された真実があるように感じられた。


(人には見せる顔と隠す顔がある。僕だってそうだ)


鳳来は自分の二つの人生を思い出し、苦笑した。


(でも、盧燕さんの場合は単純じゃない。盧天佑さんも盧燕さんもとても優しい人なのかもしれない。一度二人と会話してみてもいいかもしれない)


鳳来の小さな胸の内に、新たな決意が芽生えた。その表情はもはや子供のそれではなかった。


(自分にもできることがあるはずだ。)


静かに窓を閉めながら、鳳来は明日の行動計画を練り始めた。彼の表情には、困難に立ち向かう覚悟と、それを楽しむような期待が混ざっていた。


翌朝、鳳来は早くから目覚めていた。彼は濃紺の上等な絹の長袍に身を包み、小さな手で髪を丁寧に結い上げていた。その仕草には、大人びた几帳面さが感じられた。鏡に映る自分の姿を確認しながら、鳳来は深呼吸を繰り返した。その姿は小さいながらも、威厳と気品を漂わせていた。


「王剛!」


鳳来は護衛を呼んだ。その声には、普段の子供らしさは影を潜め、何か重要な決意を秘めているかのような響きがあった。


「はい、鳳公子」


王剛は即座に応じた。彼の表情には、いつもの陽気さの中に、鳳来の様子の変化を感じ取った警戒心が混ざっていた。


「今日、盧天佑さんと盧燕さんに会いたい。すまないが約束を取り付けてくれないか」


ふぅ、と一呼吸おき、冷静さを取り戻した鳳来は王剛の目を見て言った。その瞳には、年齢不相応な決意の色が宿っていた。


「二人と直接話をする必要があるんだ」


王剛は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに真剣な顔つきになった。


「わかりました。すぐに手配いたします」


その時、部屋の隅から静かな足音が聞こえた。振り向くと、そこには楊蒼来の姿があった。


「鳳来、聞こえたぞ」


蒼来の声は低く、警告を含んでいた。彼は鳳来に近づき、その小さな肩に手を置いた。


「確認だが、嵐峡の内政に口を挟むつもりか?」


鳳来は叔父の眼差しをまっすぐに受け止めた。その小さな体は緊張で硬くなっていたが、瞳には揺るぎない決意が宿っていた。


「叔父上、承知しています」鳳来の声は小さいながらも、芯が通っていた。「でも、私にできることがあるはずです」


蒼来は厳しい表情を崩さなかったが、その目には僅かな驚きと誇りの色が混ざっていた。


「覚悟はあるのか? 一度動き出せば、もう後戻りはできんぞ」


鳳来は小さく、しかし力強く頷いた。その仕草には、大人顔負けの決意が感じられた。


「はい、覚悟はできています」


蒼来は深いため息をつき、ゆっくりと手を離した。


「わかった。だが、慎重に行動するんだ。お前の行動が楊家全体に影響を与えることを忘れるな」


鳳来は再び頷き、感謝の眼差しを叔父に向けた。その後、彼は小さな体を引き締め、盧家への訪問に向けて準備を始めた。


数刻後、王剛が戻ってきた。


「鳳公子、盧天佑様がお二人でのご訪問を承諾されました。午後の茶の時間にお待ちしているとのことです」


鳳来は小さく頷いた。その表情には、緊張と決意が入り混じっていた。


約束の時刻、鳳来と王剛、顧明徳、そして兵士の陳と郭は盧家の邸宅に到着した。門前には、盧天佑と盧燕が並んで立ち、にこやかな表情で来客を出迎えていた。


盧天佑は上質な深緑色の絹の長衣に身を包み、温和な笑みを浮かべていたが、その目には何か複雑な色が宿っていた。彼の隣には盧燕が立っている。


盧燕は薄紫色の優雅な長衣を纏い、艶やかな黒髪を簡素に結い上げていた。彼女の立ち振る舞いは淑やかで、柔らかな微笑みを浮かべていた。その瞳には温かみがあり、来訪者を歓迎する光が宿っていた。昨晩見た盧燕とは違い、とても女性的で優美な立ち姿だった。

しかし、鋭い観察眼を持つ者なら、その奥に隠された警戒心と知性の輝きを見逃すことはないだろう。


「楊鳳来公子、ようこそお越しくださいました」


盧天佑が丁重に挨拶した。その声には、商人としての洗練された外交性が感じられた。


「心より歓迎いたします」


盧燕も柔らかな声で付け加えた。彼女の声音には、優しさと共に、わずかながら緊張の色が混ざっていた。


鳳来は礼儀正しく挨拶を返すと、小さな体を正し、真っ直ぐに二人の目を見た。その姿勢には、威厳が感じられた。王剛が鳳来の後ろに立ち、警戒の目を光らせている。顧明徳は穏やかな表情を保ちつつも、状況を冷静に観察していた。陳と郭は静かに後ろに控え、周囲を警戒していた。


「お二人にお会いできて光栄です」鳳来の声は小さいながらも、芯が通っていた。「大切なお話があります」


盧天佑と盧燕は顔を見合わせ、僅かに緊張した様子を見せたが、すぐに平静を取り戻した。


「どうぞ中へお入りください」


盧天佑が言い、一行を邸内へと案内した。盧燕は優雅な仕草で客人たちを迎え入れ、心地よい雰囲気作りに努めていた。


彼らが応接間に案内され、お茶が運ばれてくると、盧天佑が静かに口を開いた。


「さて、鳳公子。どのようなお話でしょうか」


その声には、僅かな緊張感が混ざっていた。

盧燕は父の隣に座り、穏やかな表情を保ちながらも、その眼差しには鋭い観察力が宿っていた。彼女は鳳来の一挙手一投足を注意深く見守っているようだった。

鳳来は深く息を吸い、小さな体を引き締めた。彼の瞳には、決意と共に、何か大きな計画を秘めているような光が宿っていた。


「盧天佑さん、盧燕さん。私は昨夜、ある光景を目にしました」


その言葉に、父娘の表情が一瞬こわばった。盧天佑の手が僅かに震え、盧燕の背筋がピンと伸びた。部屋の空気が、急に重くなったように感じられた。

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