第12話:嵐峡の事情

梅雨明けの初夏、灼熱の太陽が照りつける中、楊家一行は嵐峡らんきょうへの道を進んでいた。鳳来は馬車の窓から外を眺めながら、山々の険しい稜線に目を奪われていた。薄手の淡青色の絹の長衣を纏った彼は、額に滲む汗を小さな手で拭いながら、どこからともなく聞こえる蝉の声に耳を傾けていた。その黒髪は汗で少し湿り気を帯び、頬は熱さで薄く紅潮していた。


彼の横では琳華が静かに瞑想をしているようで、その姿は凛として美しかった。琳華は淡い紫色の長衣を身にまとい、黒髪を整然と高く結い上げていた。その表情は穏やかでありながら、眉間にわずかなしわを寄せ、どこか心の葛藤を感じさせるものがあった。


突如、前方から悲鳴が聞こえてきた。馬車が急停止し、王剛の声が響く。


「お二人様、ここで待機を。危険な気配がございます。陳、郭、馬車から目を離すなよ!」


王剛は鎧をきしませながら素早く馬から飛び降り、前方へと駆け出した。その姿は逞しく、日に焼けた肌に汗が光っていた。鳳来と琳華は顔を見合わせ、馬車から慎重に降りる。すると陳と郭がすぐに二人の傍にはりついた。二人とも警戒の色を隠せず、手に持った武器をしっかりと握りしめていた。


目の前の光景に、鳳来は息を呑んだ。交易団とおぼしき人々が、黒装束の集団に襲われていたのだ。王剛は既に戦いの渦中にあり、その動きは目にも止まらぬほど俊敏だった。


「はっ!」


王剛が手に持った槍を振り回し雄叫びをあげると、黒装束の男たちが次々と吹き飛ばされていく。その圧倒的な力に、鳳来は言葉を失った。同時に、自分の無力さを痛感し、胸の内で複雑な思いが渦巻いた。


(王剛が戦うところを初めて見た...死闘とはこんなに迫力があって怖いものなのか...)


しばらくすると、黒装束の一団を率いる男が現れた。彼は他の者とは違い、威厳のある立ち振る舞いをしていた。長身痩躯で、鷹のような鋭い目つきをしており、長い黒髪を後ろで束ねていた。おそらくこの山賊の首魁であろう。その男は鋭い眼光で状況を見極めると、撤退の合図を出した。


「引くぞ!」


黒装束の集団は素早く森の中へと姿を消していったが、数名が王剛によって捕らえられていた。


そのとき、遠くから馬蹄の音が聞こえてきた。嵐峡の守備隊が駆けつけてきたのだ。隊長らしき男が楊蒼来に近づき、深々と頭を下げた。


守備隊は捕らえられた山賊たちを引き取り、一行は再び嵐峡へと向かった。守備隊長らしき男が楊蒼来に近づき、小声で言った。


「楊家御一行でよろしいでしょうか。かねてよりの来訪を知らされており、先馬にて先刻嵐峡に到着する旨うかがっておりました。まさか、ご来訪の折にこのような事態となるとは。こちらの警備が行き届いておらず誠に申し訳ございません」


楊蒼来は穏やかに頷いた。その姿は威厳に満ち、深緑色の長衣が風に揺れていた。


「心配には及ばない。むしろ迅速な対応に感謝する」


守備隊と楊家一行、そして嵐峡へ向かっている交易団は共に山賊を護送しつつ、嵐峡を目指した。


嵐峡に到着すると、交易団は早々に目的地へ向かう旨一行へ伝え離れていった。

また、守備隊長の元には嵐峡を警護していた守備兵が駆け寄り耳打ちしている。話を聞き終わると隊長は捕らえた山賊を連行するよう同行していた守備隊に指示を出し、駆け寄ってきた兵士と共に楊蒼来の元に近寄り話しかけた。


「到着早々申し訳ありませんが、嵐峡の守備総隊長鄭剛ていごう様が蒼龍公にお礼を伝えたいと申しております。お疲れのところ大変申し訳ありませんが、一度政庁舎へ立ち寄っていただけないでしょうか」


蒼来は先行して嵐峡へ到着していた伝令に本日の宿の場所を確認すると守備隊長に向き直り答える。


「ここから宿に向かう途中に政庁舎があるようだ。このまま政庁舎に立ち寄らせていただくよ」


「ありがとうございます。それでは私共が政庁舎までご案内させていただきます」


守備隊長は頭を下げ、楊家一行を先導し嵐峡の大通りを進み始めた。


政庁舎の前までくると、体躯の良い男と上質な絹の服を着た男が一行を出迎えた。


体躯の良い男が口を開く。その男は筋肉質な体格で、額に深い傷跡があり、短く刈り込んだ髪と鋭い眼光が印象的だった。


「楊家御一行様でよろしいですね。私は嵐峡の守備隊総隊長の鄭剛です。この度は玉京へ朝見しに行っている最中にも関わらず、山賊を撃退いただき誠にありがとうございます。私はこれから捉えた山賊を尋問しに行くためこれで失礼いたしますが、今後の嵐峡ではごゆるりとお過ごしください」


鄭剛は蒼来に一礼すると守備隊長と共にその場を後にした。続けて絹の服を着た男が話はじめた。その男は端正な顔立ちで、整った髭を蓄えている。


「私は盧天佑ろてんゆうと申します。この地の商人頭を勤めております。今回襲撃されたのは私の交易品でしてな。直接お礼を言いたくお待ちしておりました。この度は山賊より救っていただき誠にありがとうございます」


そういうと盧天佑は深々と頭を下げる。


「長旅でお疲れのところ大変申し訳ありませんが、できれば詳細を伺いたいため、可能であれば政庁舎の商人頭室へきていただけないでしょうか」


「かまわないよ。私が向かうとしよう。」


そう言うと蒼来が自身の後ろに控えている一行に振り返る。


「他のものは本日の宿に向かってくれ。父上、彼らをお願いします」


そう指示を出すと楊家一行は二手に分かれた。蒼来とその従者は、商人頭である盧天佑と庁舎に入っていく。


鳳来は本日の宿に到着し荷を解きをすると、部屋に備え付けられている椅子に腰掛け長旅の疲れを癒していた。


(山賊か...ちょっとびっくりしたな。楊家ものにも被害がなくてよかった)


すると部屋の扉を大きな力で叩かれた。


「鳳公子、王剛です。せっかく嵐峡についたことですし、この地の名物を食べに行きましょう!」


鳳来が扉を開けると王剛が兵士を2人、陳と郭を従えて扉の前に満面の笑みで立っている。王剛は軽装の鎧を身につけ、その大きな体躯が廊下を埋め尽くしていた。またその横には琳華もいた。琳華は淡い緑色の軽装に着替えており、髪を緩く結んでいた。


「たまには私も一緒に行こうかなって思って」


琳華が口を尖らせて横を向きながら言い放った。


「嬉しいです、姉上」


嵐峡の街は、険しい山々に囲まれながらも活気に満ちている。狭い路地には露店が並び、様々な香辛料や珍しい品々が売られていた。


「王剛、この街、とても面白いね」


鳳来が目を輝かせながら言った。王剛は警戒を解かない様子で答えた。


「お嬢様、鳳公子、連れ出した私が言うのもあれですが、お二人共くれぐれも油断なさらぬよう。」


王剛は真剣な表情でいうと、急にぱっと表情を明るくする。


「ちなみにここ嵐峡では嵐峡冷麺らんきょうれいめんが有名でしてな。こう言う暑い日にはとてつもなく美味いと聞き及んでおります!ぜひ食べたいですな。がはは」


その時、鳳来は路地の角で誰かとぶつかりそうになった。とっさに身をかわすと、そこには一人の美しい女性が立っていた。彼女は凛とした立ち姿で鳳来とその一行を見つめていた。彼女は鮮やかな赤色の長衣を身にまとい、その姿は街の喧騒の中でひときわ目を引いた。


「あ、すみません」


女性は慌てて謝った後、鳳来たちをじっと見つめた。


「あなたたち、見かけない顔ね、しかもその出立ち。もしかして、あなたは楊家の方ですか? 」


女性がそういうやいなや鳳来は問題が発生していることに気がついた。彼女の後ろに鬼の形相をした王剛が立っているのだ。王剛の大きな体が威圧的に女性に迫っている。


一方、政庁舎では蒼来と盧天佑の会談が行われていた。


「蒼龍公、この度は山賊の撃退、誠にありがとうございます。彼らは私を目の敵にしておりましてな、何度も襲撃されているのです。ちなみに、今回山賊は何人ほど捕まえられたのでしょうか」


「確か3人だったはずだ。あまり助けにならず申し訳ない」


「いえいえ良いのです。3人も捕まえていただけるとは。本当にありがとうございます」


しかし、その表情の奥底に、どこか不安の色が浮かんでいるのを楊蒼来は見逃さなかった。


「楊様、それにしても今回は嵐峡によくお越しくださいました。嵐峡の発展は近年めざましものがあります。もしよければ楊家の皆様だけでなく蒼龍郡の方々とも交流をさせていただきたいと考えております」


山賊の話とは打って変わって盧天佑は野心に満ちた笑顔を浮かべ蒼来に売り込みをかけてきた。


(一瞬盧さんの目から動揺を感じたが...私をここに呼んだのはこの手の売り込みが目的だったのかな?熱心な方だ)


同じ頃、嵐峡守備隊の本部では、隊長の鄭剛が捕らえられた山賊たちを厳しく尋問していた。鄭剛の顔には怒りの色が浮かび、その声は部屋中に響き渡っていた。


「お前たちの仲間の居場所を吐け!」


山賊たちは口を固く閉ざしていたが、鄭剛の目には諦めの色はなかった。


森の奥深くにある山賊たちの隠れ家では、首領の男が頭を抱え苛立ちを隠せずにいた。彼の長い黒髪は乱れ、鷹のような鋭い目つきには焦りの色が滲んでいた。


「くそっ、あんなはずじゃなかったのに...」


男の脳裏には仲間が連れ去られた光景が浮かんでいた。


鳳来たちは、先ほどの女性と自己紹介を済ませ共に市場を歩いている。目的地は嵐峡冷麺を出す露店。突然鳳来の前に現れた彼女に危うく斬りかかろうとした王剛だが、この街一番の嵐峡冷麺を出す店を紹介すると言ったら途端に機嫌が良くなった。彼女はお店の道案内をする傍ら嵐峡の歴史や文化について熱心に語っている。


(それにしても王剛のあの剣幕を見せられても飄々としている彼女の胆力はすごいな)


彼女の名前は盧燕ろえん。先ほど嵐峡政庁舎の前で会った盧天佑の娘だそうだ。盧天佑の名前を聞いた時、偶然を装って楊家に近づこうとしてのことかと疑ったが、彼女の快活さを見るうちにその疑念はどこかに飛んでいった。市場を歩く彼女の黒髪は綺麗になみうち、その動作には優雅さと活発さが同居していた。


(さすが商人頭のご令嬢だ。とても気品があって綺麗な動きをしている)


しかし、鳳来たちがここ嵐峡に着く前、山賊に遭遇したと話しをすると彼女の表情に一瞬の翳りが見えた。その大きな瞳に悲しみが浮かぶ。


「山賊の方々も、みな事情があってのことだと思うのです」


盧燕の声は柔らかく、しかし芯の強さを感じさせるものだった。鳳来はその言葉に考えさせられた。自分がいた日本もそうだった。自分の力ではどうにもならない様々な事情がこの世の中にも溢れていると言うことなのだろう。


((いや、日本と違いこの世界の方が生きていくのが大変なんだろうな)


王剛は警戒心を解かず、常に周囲に目を配りながらも、美味しそうに麺をすすっている。琳華は優雅に箸を使い、時折盧燕に質問を投げかけていた。

鳳来はそんな彼らを見て山賊のことなどすっかり忘れ微笑んでいた。


その日の夕刻、嵐峡の守備隊本部に一人の男が訪れた。嵐峡の監察使を名乗るその男は、威厳のある立ち振る舞いで鄭剛に近づいた。男は豪華な絹の服を身にまとい、その姿は中央からの権威を示していた。


「本日また山賊団の襲撃があったようですね。青墨の総督府からも一刻も早く山賊団を討伐してほしいと連絡が来ている。このまま彼らを野放しにしていれば、上から私の管理能力を問われる。私がいなくなれば青墨からの圧力が強まりこの街にも不利益になる。君も彼らの悪質さは知っているだろう。早急に結果を出していただきたい」


監察使の声は冷たく、だがその目にはわずかな遠慮と悲しみを宿していた。


「我々も以前から山賊の討滅せんと日々努力しております。何もしていないわけではありません。その点はご理解いただきたい。また、評価が下がるのも我々も同様ですし、青墨の悪人どもにいい顔をさせるのは楽しくありません。ただ、彼らを殲滅するためにも拙速な行動は避けたいと思います。そのためにも引き続き調査が必要です。今少し時間がかかることをご理解いただきたい」


監察使は苦しそうな表情を浮かべ続けた。


「青墨総督府の息がかかっていない衛士を用意できる。小隊にすら満たないが、彼らを呼び寄せるので君のもとで使ってくれ」


そういうと監察使は守備隊本部から去って行く。鄭剛は入ってきた時よりも少し小さくなった彼の背中を見つめていた。


一方、鳳来は宿の窓から夜空を見上げながら、この地の料理を思い返し口元がニヤけていた。彼は薄い白色の寝巻きを身にまとい、窓辺に立っている。その小さな体には、まだ幼さが残っているものの、瞳には大人びた思慮深さが宿っていた。


(屋台で食べた峡谷蒸きょうこくむ饅頭まんじゅうおいしかったなぁ...当分ここに逗留するらしいけど、明日は何が食べられるかな...体が小さすぎてあんまり食べられないのが残念だ...)


王剛に唆されてご当地グルメを堪能することに楽しみを覚えている鳳来だった。頭の中には今朝の山賊の話は過去のものとなっている。鳳来は小さく息をつくと、窓を閉め、寝床に向かった。明日はきっと、新たな発見や冒険が待っているはずだ。そう思いながら、彼は目を閉じた。


嵐峡の夜は静かに更けていく。しかし、その静けさの中に、やがて訪れる嵐の予感が漂っていた。

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