第11話:雨中の思索

梅雨の季節、栄陽を発った楊家の一行は、玉京への道を進んでいた。しとしとと降り続く雨は、大地を潤すと同時に、旅路を困難なものにしていた。


「うっ!」


突然の衝撃に、楊鳳来は思わず声を上げた。馬車の車輪が深いぬかるみにはまり、激しく揺れたのだ。車外からは、馬のいななきと、人々の掛け声が聞こえる。


「みんな、押すぞ!」


王剛の力強い声に続いて、ドスンという鈍い音と共に馬車が揺れた。泥水が跳ね、窓から飛び込んでくる。


「キャッ!」


隣に座っていた楊琳華が小さな悲鳴を上げる。白い肌に泥の飛沫が付着し、艶やかな黒髪にまで泥が絡みついていた。


鳳来は慌てて袖で姉の顔を拭おうとしたが、途中で手を止めた。「あ、大丈夫ですか、琳華姉さん」と、やや遠慮がちに尋ねる。

琳華は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑みを返した。


「ありがとう、鳳来。大丈夫よ」


二人の間には、以前とは少し違う空気が流れていた。栄陽での襲撃事件以来、琳華の鳳来に対する態度は柔らかくなっていたが、まだ互いに距離を測りかねているような雰囲気があった。

鳳来は自分の服も泥だらけになっていることに気づいた。藍色の上等な絹の服に、こげ茶色の泥が斑に付いている。その様子を見て、思わず顔をしかめる。


「大丈夫ですか、お嬢様」


苦しそうな声で、タール・ヴェンが馬車の窓から顔をのぞかせた。彼の顔は泥だらけで、髪の毛からは雨水が滴り落ちている。その姿を見て、鳳来の胸に申し訳なさが込み上げてきた。同時に、複雑な思いも湧き上がる。


栄陽を出発してから、ヴェンの働きぶりは目を見張るものがあった。馬の手入れから荷物の整理、夜間の見張りまで、彼は率先して最も過酷な仕事を引き受けていた。今もまた、激しい雨の中、全身泥まみれになりながら馬車を押している。


鳳来は、自分の決断がヴェンの人生を大きく変えたことを実感した。命を救われた感謝の気持ちなのか、下手なことをすればすぐに自分の首が体から切り離される恐怖からなのか。少なくとも彼のひたむきな働きは周囲の人々の心を少しずつ融解させていった。


ただ王剛はいまだに鳳来を襲ったことを許していないようだ。その厳しい視線を感じるたびに、鳳来は胸が締め付けられる思いがした。


「ああ、大丈夫だ。ありがとう、ヴェン」


鳳来は感謝と心配の入り混じった表情で答えた。そして少し躊躇した後、付け加えた。


「でも、無理はしないでくれ」


ヴェンは軽く頷くと、「ご心配なく」と短く答え、再び馬車を押す作業に戻っていった。


その後ろ姿を見送りながら、鳳来は人の命を救うということの重みを改めて感じた。同時に、自分の決断が周りに影響を与えていることを実感し、その責任の重さに少し身が縮む思いがした。


「鳳来、あなた本当に優しいわね」


琳華が柔らかな声で言った。その言葉に、鳳来は複雑な思いを抱いた。本当に自分は優しいのだろうか。


馬車が動き出すと、鳳来はヴェンのことを考えた。あの時、なぜ自分は彼を助けたのだろう。寛容さからだろうか。それとも、この世界の人々とは違う死生観からだろうか。眉間にしわを寄せ、深く考え込む。

しばらく考えた末、鳳来は結論に達した。単純に、人が死ぬところを見たくなかったのだ。人が目の前で死ぬのが怖かった。それ以上でも以下でもない。その結論に至り、鳳来に顧先生の「何をもって彼の罪は償えるのか」と言う言葉がのしかかった。


琳華は鳳来の苦虫を嚙みつぶしたような表情を見逃さなかった。彼女は少し躊躇いがちに、優しく弟の手を取った。


「あなたの判断が正しいかどうかわからないけど、ヴェンを助けたことでみんな少しほっとしてると思うわ」


と、諭すように言った。

鳳来は姉の言葉に勇気づけられ、小さく頷いた。二人の間に流れる空気は、以前ほど険悪ではなく、確かに温かみを帯びていた。


「ねえ、琳華姉さん」


鳳来は少し遠慮がちに尋ねた。


「どうして姉さんは、大人よりも強いの?」


琳華は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「私は大人より強いわけじゃないのよ。ただ、『力』の使い方を知っているか知らないかの違いなだけ。力の使い方を知ってる大人には手も出ないわ」


「力?」鳳来は首をかしげた。「僕はそんなこと、知らなかった」


琳華は優しく笑いながら、鳳来に語りかけた。


「あなたはまだ幼いし、体も小さいわ。だから体でなく頭を使えばいいの。今はまだ考えなくていいのよ」


その言葉に、鳳来は少し安心した。しかし同時に、この世界にはまだ知らないことがたくさんあると実感した。


鳳来は窓の外を流れる雨滴を見つめながら、深い思考に沈んだ。琳華の言葉が、彼の中で大きな波紋を広げていた。「力」という言葉が、この世界が自分のいた世界とは違うことを示している気がしたのだ。

前世の記憶にある異世界転生の物語では、主人公が特別な能力や魔法を身につけ、強大な力を振るう展開がよくあった。まさか自分もそんな世界に来てしまったのだろうか。鳳来は自分の小さな手のひらを見つめ、そこに隠された未知の可能性を想像した。

もしかしたら、この世界では「力」が物事を決定づける重要な要素なのかもしれない。武力だけでなく、政治力や経済力、はたまた超自然的な力も含めて。そう考えると、周りの大人たちの行動や、自分が経験してきた出来事が少し違って見えてきた。


鳳来は、自分がまだその「力」の本質を理解していないことに気づき、焦りと興奮が入り混じった感情に包まれた。この世界で生き抜くためには、その「力」を理解し、可能なら自分も使いこなす必要があるのだろう。しかし同時に、その力の使い方を誤れば、取り返しのつかない事態を引き起こす可能性もある。


彼は深く息を吐き出した。これからの旅は、単なる公務や見聞を広げるだけのものではない。自分自身の可能性を探り、この世界の一端を知る旅になるのかもしれない。その思いに、鳳来の心臓は高鳴りを覚えた。


ふと、鳳来は最近王剛から受け始めた鍛錬のことを思い出した。


確かに、王剛は体の動かし方や呼吸法について教えてくれていたが、「力」については一切触れていなかった。鳳来はようやくその理由に思い至った。きっと、自分がまだ幼すぎるから、「力」の話をしていないのだろう。王剛も琳華と同じように、鳳来の成長を待っているのかもしれない。


この考えに至り、鳳来は少し複雑な気持ちになった。早くこの世界の真実をもっと知りたいという思いと、まだ子供でいられる時間を大切にしたいという気持ちが入り混じった。その葛藤が、鳳来の表情に微妙な陰影を生んでいた。


馬車は再び動き出し、雨の中を進んでいく。窓の外を流れる景色を眺めながら、鳳来は今回の旅で何を学び、何を得ることができるのか、思いを巡らせた。琳華の存在が、これまでよりも少し心強く感じられたが、同時に、まだ埋められていない距離感も意識せずにはいられなかった。


鳳来は深い溜息をつき、雨に濡れた馬車の窓枠に額を寄せた。これからの旅路で、自分はどのように変わっていくのだろうか。その不安と期待が入り混じった思いを胸に、鳳来は目を閉じた。

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