第10話:月下の襲撃
「ああ、そうだ。栄陽に着いたんだった」
鳳来は小さくつぶやき、ゆっくりと体を起こす。宴席での出来事が走馬灯のように蘇る。特に印象的だったのは、護衛の王剛の驚異的な食欲だった。
栄陽到着早々、王剛は地元の名物である
その後の宴席でも、王剛は次から次へと料理に手を伸ばしていた。鳳来は思わず苦笑する。
(あの食欲は一体どこから来るんだろう)
鳳来は、王剛の豪快な食べっぷりを思い出し、微笑んだ。その姿は、まるで戦場で敵と戦うかのような真剣さと、子供のような無邪気さが同居していた。王剛の太い指が器用に箸を操り、次々と料理を口に運ぶ様子は、ある種の芸術性すら感じさせた。
自分の前に出された玉壺蒸しを思い出す。白磁の壺に盛られた繊細な蒸し物は、見た目にも美しかった。蓋を開けると、鶏肉と干し貝柱の優しい香りが立ち上る。銀杏や筍、椎茸が色鮮やかに飾られ、上品な卵の黄色が全体を引き立てていた。一口食べると、具材の旨味が口いっぱいに広がり、だしの風味が鶏肉の味を引き立てる。
(質素だけど、とてもおいしかったな)
鳳来は前世で食べた中華料理と比べても遜色ないその味わいを思い出し、微笑んだ。同時に、この世界の料理の奥深さに改めて感銘を受ける。前世の知識と現世の経験が混ざり合い、鳳来の味覚は豊かに育まれていた。
夜も更けているはずなのに、なぜか眠れない。鳳来は静かに起き上がり、外の様子を窺った。月明かりが中庭を柔らかく照らしている。
(少し散歩でもしようか)
そっと部屋を抜け出し、中庭へと足を踏み入れる。涼やかな夜風が頬を撫で、緊張していた体をほぐしてくれる。鳳来は深呼吸をし、この世界の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
栄陽の風を感じながら、この都市の重要性が脳裏をよぎる。鳳来は、顧先生から教わった栄陽の歴史と現状を思い返す。その知識が、目の前に広がる夜の景色に重なり、鳳来の中で生き生きとした都市の姿が浮かび上がる。
栄陽は翠玉朝の西の副都として知られる大都市だ。蒼龍郡の東部に位置し、肥沃な平原地帯の中心として栄えている。碧水河の南岸に広がるこの都市は、数千年の歴史を持ち、複数の王朝の都としても栄えた由緒ある場所だった。現在は翠玉朝の西方統治の中心地として機能し、蒼龍郡を含む西方諸地域の統括拠点となっている。
天秤大路の東の起点としても長く繁栄してきた栄陽は、東西交易の中心地として活気に満ちていた。高度な手工業が発達し、絹織物や陶磁器、金属加工など、さまざまな産業が栄えていると顧先生より聞いている。また、周辺の肥沃な土地を利用した農業も盛んで、その豊かな食文化は栄陽の大きな魅力の一つとなっていた。
蒼龍郡との関係も深く、楊家にとっては直接の上級行政機関が置かれている重要な都市だ。鳳来は、父や叔父が定期的にこの地を訪れ、朝廷に報告を行っていたことを思い出す。また、蒼龍郡の特産品や文物も集まる場所としても知られ、両地域の経済的・文化的交流の要となっていた。
ふと、厠の方から人影が見えた。鳳来の体が一瞬緊張する。
「誰だ?」
鳳来は警戒しながら声をかける。その声には、少年らしからぬ凛とした響きがあった。
「はっ!申し訳ございません。厠守のものでございます」
中年の男が恭しく頭を下げた。その姿勢には、長年の習慣が感じられた。
鳳来は安堵の息をつくと同時に、顧先生から教わった厠守の役割を思い出した。その知識が、目の前の男の存在に新たな意味を与える。
厠守は単なる便所の管理人ではなく、都市の衛生を守る重要な職業である。彼らは便所の清掃や管理だけでなく、そこから出る糞尿を収集し、農家に肥料として販売する役割も担っていた。これにより、都市の衛生状態が保たれるとともに、農業の生産性向上にも貢献していたのだ。
前世の日本と比べると、この世界の衛生状態は決して良いとは言えなかった。しかし、厠守のような存在が各地に配置され、計画的に糞尿を処理していることは、感染症の予防に一定の効果があると鳳来は考えていた。
(日本のウォシュレットが懐かしいな...)
鳳来は心の中でつぶやきながら、安堵の息をつく。
「そうか。夜分遅くお疲れ様です」
鳳来は柔らかな声で厠守に語りかけた。
二人は軽く言葉を交わし始めた。厠守は夜の宿の様子や、時折訪れる珍しい客人の話を楽しそうに語る。夜に活動しているだけでなく、その悪臭から人と話す機会のなかった厠守は変わった子供が話しかけてきてくれたことがたいそううれしかったようで、ところどころどもりながらも洪水のように言葉があふれてきた。
鳳来はその話に熱心に耳を傾けていた。厠守の話す一つ一つの言葉が、この世界の日常を生き生きと描き出していく。鳳来の目は好奇心に輝き、時折頷きながら相手の言葉を受け止めていた。
しかし、突如として鳳来の表情が変わる。何かの気配を感じとり、奥の草むらに目をやった。鳳来の全身が緊張し、警戒の色が瞳に宿る。
「誰かいるのか?」
そう鳳来が声を出すと、突如草むらから人影が飛び出してきた。
「うわっ!」
鳳来は思わず後ずさる。
刃物を持った若い男が、鳳来に向かって突進してくる。刃物の刀身が鈍く光り、鳳来めがけて飛んでくる。鳳来の瞳に、迫り来る刃が映る。時間が止まったかのような一瞬。
「鳳来!」
姉の琳華の声が響いた。
琳華の姿が風のように現れ、襲撃者を一瞬で組み伏せた。その動きは人間離れしており、まるで超人的な力を感じさせる。騒ぎを聞きつけた兵士たちが駆けつけてくる。彼らの足音が、静寂を破る。
「こちらの者を任せます」
琳華は冷静に兵士たちに指示を出すと、すぐさま鳳来のもとへ駆け寄った。その姿は、年齢を感じさせない威厳に満ちていた。
「大丈夫?怪我はない?」
琳華が心配そうに鳳来を見る。その目には、姉としての愛情と、武人としての鋭さが共存していた。
鳳来は呆然としたまま、姉の力と速さの凄まじさに言葉を失う。これは前世で見たどんな武術とも威力が桁違いだった。8歳の少女が出すような力ではなく、姉の「力」は、想像を遥かに超えていた。
同時に、鳳来は自分の軽率さを痛感した。夜間に一人で出歩くことの危険性を全く意識していなかった。ここは蒼龍府ではないのだ。鳳来の表情に後悔の色が浮かぶ。
「ごめんね、姉さん。こんな時間に一人で出歩くべきじゃなかった」
鳳来の声は、震えていた。
琳華は安堵の表情を浮かべながらも、厳しい口調で言った。
「そうよ。もし私が気づかなかったら...」その言葉は途切れ、琳華は突然鳳来を強く抱きしめた。「無事でよかった...」琳華の声は、わずかに震えていた。
翌朝、襲撃者は楊蒼来をはじめとする重要人物たちの前で裁定を受けることとなった。楊家が宿泊する宿で発生した事件のため、裁量権は栄陽の刑吏ではなく楊家にあった。とはいえ、楊家に刃物を向けて襲い掛かった以上、斬首刑となることは明白で、周りのものは口々に「斬首で終わりか」と発言している。その言葉の一つ一つが、重く空気に響く。
男は震える声で自分の身の上を語り始めた。その姿は、昨夜の凶暴な襲撃者とは打って変わって、哀れなほど弱々しく見えた。
「私は...嶺羽族のものです。家族を病で亡くし、金もなく故郷に帰る術もなくて...高貴な方が来られたと聞き、なにか金目のものがないかと思って...」
たどたどしい言葉遣いと発音から嶺羽族の出身であることに間違いはなさそうだった。その声には、絶望と後悔が混じっていた。
その言葉を聞いた鳳来は、立ち上がり発言した。鳳来の姿勢は真っ直ぐで、その目には決意の色が宿っていた。
「叔父上、この者が裁かれ斬首されるというのなら、鳳来は助命を嘆願いたします」
一同が驚いた表情を浮かべる中、鳳来は続けた。その声は、年齢を感じさせないほど落ち着いていた。
「彼を私たちの一団に加え仕事を与えてください。そして、この旅路が終わったら、帰路の途中で嶺羽族の集落へ送り届けます」
王剛は即座に反対の声を上げた。その声には、怒りと心配が混ざっていた。
「とんでもない!短絡的に襲うような者を鳳公子のそばに置くなど!また襲い掛からないという保証はどこにもありませんぞ!」
しかし、多くのものは鳳来の提案に興味を示した。顧明智が口を開いた。その声は穏やかだが、鋭い指摘を含んでいた。
「その提案には統治者としての寛容さがうかがえます。ただ彼の犯した罪はどうしますか。彼に役務を与えて終わりですか?この一団に加えるといっても人ひとり加えるのはただではありません。何をもって彼の罪は償えるのか考えておりますか」
鳳来は答えることができなかった。その表情には、困惑と焦りが浮かんでいた。
楊蒼来は鳳来の様子を見て、その後厳しい目つきで襲撃者をにらみつけた。その眼差しには、怒りと共に、何かを見極めようとする鋭さがあった。
「わかった。甥に危険が及ぶのは看過できないが、この者は見たところよほど追い詰められていたようにも見える」
楊蒼来の声は低く、重々しかった。
「本来ならばこの場で打ち首にしてしまいたいが、鳳来の成長と考えて処罰は保留とする」
楊蒼来は鳳来に向き直った。その目には、厳しさの中にも慈愛が宿っていた。
「鳳来、答えはこの旅路の中で見つけるとよい。ただし次また問題を起こせばその場で斬首するが、それでよいか?」
鳳来は一瞬躊躇したが、すぐに決意の表情を浮かべて答えた。その声は、震えていたが、芯の強さを感じさせた。
「はい。そうなった場合は致し方ありません」
楊蒼来は満足げに頷くと、王剛に向かって言った。その口調には、絶対的な命令の響きがあった。
「王剛、ちゃんと目配りをしておけ」
王剛は不満げな表情を浮かべながらも、深々と頭を下げた。その姿勢には、命令に従う絶対的な忠誠心が表れていた。
「今回の件、私は納得はしておりません。ただそれが決定ということなら従いましょう。次何かあれば殺してもよいのですね?であればこの王剛、常に目を光らせておきます」
楊蒼来は鳳来の決意を見て取ると、襲撃者に向き直った。その眼光は厳しく、襲撃者の魂を見透かすかのようだった。
「おまえの名は何という?」
襲撃者は驚いたように顔を上げ、震える声で答えた。その目には、恐怖と共に、かすかな希望の光が宿っていた。
「タール・ヴェンと申します」
楊蒼来は頷き、威厳のある声で言った。
「タール・ヴェン、おまえは今日からこの楊家の朝見一団として召し抱える。その命はわれら楊家が預かる。再び問題を起こせば、即座に命を失うことになるぞ。心せよ」
「は...はい!」
タール・ヴェンは深々と頭を下げた。その表情には、恐れと共に、わずかな希望の光が宿っていた。
鳳来はこの一部始終を見守りながら、複雑な思いに駆られていた。自分の判断が正しかったのか、この決定が将来どのような結果をもたらすのか、不安と期待が入り混じっていた。
(本当にこれでよかったのだろうか...)
しかし同時に、鳳来の心の中には、新たな決意も芽生えていた。タール・ヴェンを救うだけでなく、彼を通じて嶺羽族の実情を知り、彼らの抱える問題に向き合おうという思いだった。
鳳来は静かに立ち上がり、タール・ヴェンに近づいた。周囲の緊張が高まる中、鳳来はタール・ヴェンの目をまっすぐ見つめ、柔らかな口調で語りかけた。
「タール・ヴェン、これからはともに旅をすることになる。お互いを理解し合い、信頼関係を築いていけたらと思う。あなたの故郷や家族のこと、嶺羽族の暮らしについて、たくさん教えてほしい」
タール・ヴェンは驚きの表情を浮かべ、しばらく言葉が出なかった。しかし、鳳来の真摯な態度に、目からほろほろと涙がこぼれ出ていた。
「は...はい、小公子。私にできることがあれば何でもさせていただきます」
この瞬間、鳳来は自分の決断が新たな可能性を開いたことを実感した。同時に、この旅がより複雑で、予測不可能なものになることも理解していた。
(これから先、どんな道が待っているのだろう...)
鳳来の心に、不安と期待が入り混じった感情が広がっていった。
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