第1章:帝都への旅路

第9話:栄陽への道

朝靄が立ち込める中、一行は藍城の城門を出発した。先頭を行く楊蒼来の姿は凛々しく、その後ろには荷物を積んだ馬車や騎馬の護衛たちが続く。蒼来は背筋をピンと伸ばし、威厳に満ちた表情で前方を見据えていた。一行の中ほどには、楊鳳来と楊琳華を乗せた馬車があった。


鳳来は窓から外の景色を眺めながら、目を閉じた。馬車の揺れと、馬のひづめの音が、不思議と心地よく感じられる。早朝の移動ということもあり眠気が襲いかかる。彼の小さな体は、馬車の揺れに合わせて微かに揺れていた。


(この世界に来てから初めての長旅か...緊張と期待が入り混じる気分だな)


「鳳来、大丈夫か?」


隣に座る琳華が、珍しく優しい口調で尋ねた。鳳来は目を開け、微笑んで頷いた。琳華の眉間にはわずかな心配の色が浮かんでいた。


「ええ、姉上。少し休んでいただけです」


琳華は唇を尖らせ、不満げな表情を浮かべた。彼女の指が、着ている上等な絹の服の袖口を無意識に弄んでいた。


「私だってこんな旅、したくなかったわ。なのに、あなたが連れて行ってもらいたいって言い出すから...」


その言葉に、鳳来は申し訳なさそうな表情を浮かべた。彼の小さな手が、膝の上で軽く握りしめられた。


「ごめんなさい、姉上。でも、一緒に来てくれて嬉しいです」


琳華は顔を背けたが、その耳が少し赤くなっているのが見えた。彼女の口元がわずかに緩むのを、鳳来は見逃さなかった。


(琳華姉さん、本当は優しいんだよな。素直になれないだけで)


馬車の外では、顧明智が琳華の家庭教師と熱心に話し込んでいた。琳華の家庭教師は謝雪霞しゃ せつかという名の40代の女性で、かつては宮廷に仕えていたという経歴の持ち主だ。その優雅な立ち振る舞いと豊富な知識は、貴族の子女の教育に最適だった。顧明智は背筋を伸ばし、馬上でも儒者らしい威厳を保っていた。


「謝先生、琳華様の礼儀作法の進歩には目を見張るものがありますね」


顧明智が感心したように言うと、謝雪霞は微笑んだ。彼女の細い指が、馬の手綱を軽く握り直した。


「ええ、琳華様は非常に聡明でいらっしゃいます。ただ、時折感情的になられることが...」


二人は琳華の教育について意見を交換しながら、ゆっくりと馬を進めていた。その姿は、まるで絵巻物から抜け出してきたかのような優雅さだった。


一方、鳳来の護衛を務める王剛は、馬にまたがり常に警戒を怠らず周囲を見回していた。彼の鋭い眼光は、わずかな異変も見逃さない。王剛の筋肉質な体が、いつでも行動に移れるよう緊張していた。


栄陽えいようまでの道のりは長く、一行は幾つかの宿場町を経由しながら進んでいた。移動には主に馬車を使い、時には川船を利用することもあった。鳳来は、この世界の交通手段の多様さに感心しつつ、同時にその不便さも実感していた。


(電車や車と比べたらひどく疲れる...前世の便利さが恋しいな)


特に体力を奪われていたのは、馬車での長時間の移動だった。最初は心地よく感じられた馬車の移動も長時間となると揺れと騒音、そして狭い空間での窮屈さ、固い座席が、幼い体には大きな負担となっていた。鳳来の小さな体は、長時間の移動でかなり疲労していた。

ただ、宿場町での宿泊はかつて職場の床で寝ていた頃と比べたらマシ、と感じて意に介さなかった。それでも、慣れない環境での睡眠は十分な休息をもたらさなかった。


夕暮れ時、一行が小さな町に到着したとき、鳳来はすっかり疲れ切っていた。馬車から降りる際、足がもつれそうになる鳳来を、王剛がさっと支えた。


「鳳公子、お気をつけください」


王剛の声には心配が滲んでいた。その大きな手が、優しく鳳来の背中を支えている。鳳来は弱々しく笑って答えた。


「ありがとう、王剛。大丈夫です」


その様子を見ていた楊雲雷が、鳳来に近づいてきた。雲雷の眉間には深い皺が刻まれ、心配の色が浮かんでいた。


「鳳来、無理をするなよ。まだ長い旅が続くんだ。体調を崩しては元も子もない」


雲雷の声には慈愛が溢れていた。鳳来は祖父の言葉に頷きながら、自分の弱さを恥じる気持ちと戦っていた。


(こんな体じゃ、まだまだ役に立てない。もっと強くならないと...)


琳華も鳳来の様子を心配そうに見ていたが、素直に言葉にはできないようだった。彼女の指が、再び服の袖口を弄んでいる。代わりに、彼女は雲雷に向かって言った。


「祖父上、明日は休養日にしませんか?みんな疲れているでしょう」


雲雷は琳華の提案に微笑んで頷いた。その表情には、孫たちへの深い愛情が滲んでいた。


「そうだな。明日は一日ここで休むことにしよう。栄陽まではまだ距離があるしな。蒼来に提案しておく」


鳳来は安堵の表情を浮かべつつ、姉に感謝の眼差しを向けた。琳華はそっぽを向いたが、その口元はわずかに緩んでいた。


(少し彼女との距離が縮まって来たのかな、いい傾向だ)


一方、玉京ぎょくけいでは...


豪華絢爛な宮殿の一室で、数人の貴族らしき人物たちが密談を交わしていた。窓から差し込む月光が、彼らの緊張した表情を浮かび上がらせていた。部屋の隅々まで高価な調度品が並び、その豪華さは一目で権力者たちの集まりであることを物語っていた。


「玄興が即位したことで、我々の立場が危うくなったな」


低い声で話す男の口調には、苛立ちが滲んでいた。彼の指が、テーブルの上で神経質そうに動いている。


「そうだな。そもそもあの男は長男とはいえ皇帝候補とは見られていなかった。世豊帝せいほうてい(玄隆の諡)は想像以上に長男を溺愛していたらしい。彼を排除しようとしていた我々はこのままだと閑職に回される可能性がある。最悪命が...」


「世豊帝が定めた皇嗣密詔こうしみっしょうが裏目に出たな」


別の男が同意を示す。その声には、かすかな恐れの色が混じっていた。すると、さらに別の声が響いた。


「しかし、それではどうする。玄興に直接手を下すのは危険すぎる。もし失敗すれば...」


「そうだ。だからこそ、適当な道具が必要なのだ」


最後に話したのは、他の者たちとは明らかに異なる威厳のある声だった。その男の右手の指輪は、不自然な青い光を放っている。彼の目には、冷酷な光が宿っていた。


「これから各地の知府や自治領主たちが続々と朝見に来る。その中には、我々のいい駒になりそうな者もいるはずだ。彼らを利用すれば...」


「しかし、誰を...」


「それはこれから探せばよい。急がば回れだ。確実に成功する計画を立てよう」


威厳のある声の主が手を翳し再び指輪が光ると、部屋の空気が一瞬凍りついたかのように感じられた。他の者たちは、一様に身震いし、息を潜めている。彼らの顔には、恐れと期待が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。


「それと、あまり頼りたくはないが例のあやしげな術を使う者たちに働いてもらうのもよい。彼らの力は危険だが、我々の目的には有用だろう。」


静寂が部屋を支配した後、低いささやき声が続いた。玉京の夜は、新たな陰謀の種を宿しながら、静かに更けていった。周囲の空気が、何か得体の知れない力で満ちているかのようだった。宮殿の外では、夜警の足音が規則正しく響いていたが、それすらも陰謀の蔭に隠れてしまうかのようだった。


脚注:

[1] 皇嗣密詔(こうしみっしょう):翠玉朝において皇位継承者を決定するための秘密の勅令。通常、現皇帝が後継者を密かに指名し、その名を封印された文書に記す。皇帝の崩御後、あるいは特定の状況下でのみ開封される。この制度は、皇位継承を巡る争いを防ぎ、円滑な権力移行を図ることを目的としているが、時として政治的陰謀の温床ともなる。皇嗣密詔の存在自体は公知の事実だが、その内容は極秘とされ、漏洩は重罪に値する。

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