第8話:春の旅路

春風に乗って舞い散る桜の花びらが、蒼龍府の庭園を淡いピンク色に染めていた。その中を歩む楊鳳来の小さな姿は、まるで水墨画の中の主人公のように凛としていた。護衛の王剛が後ろに控え、二人は政庁へと向かっている。道行く人々は、幼い体に似合わぬ威厳を漂わせる鳳来の姿に、思わず足を止めて見入っていた。


(父上が急に呼び出すなんて...何かあったのだろうか)


心中で様々な可能性を巡らせながら、鳳来は政庁の大扉の前に立った。突如として湧き上がる緊張に、小さな手が微かに震える。深く息を吐いて心を落ち着かせると、背筋をより一層伸ばし、覚悟を決めたように王剛を見上げた。


扉が開かれると、父・楊雲海の落ち着いた声が響いてきた。


「入りなさい、鳳来」


一歩一歩慎重に部屋に足を踏み入れると、そこには父に加え、母・李蘭華、叔父の楊蒼来、そして祖父・楊雲雷の姿があった。祖父の温和な眼差しに触れた途端、鳳来の緊張は幾分和らいだ。


「やあ、鳳来。久しぶりだな」


楊雲雷の声には、孫を見る喜びが滲んでいた。深いしわの刻まれた目尻を優しく下げ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。鳳来は丁寧に一礼し、落ち着いた声で応えた。


「お久しぶりです、祖父上」


その声音には、幼さの中にも芯の強さが感じられた。当主座に腰を下ろした蒼来が、真剣な面持ちで語り始める。


「鳳来、お前を今日ここに呼んだのには重要な理由がある。先日、翠玉朝の皇帝・玄隆様が崩御なされ、新しい皇帝として玄興様が即位された。そして、各地の自治領主に朝見を命じる勅令が下されたのだ。言っていることはわかるか?」


鳳来は一瞬息を呑んだ。小さな瞳が大きく見開かれ、その中に驚きと理解の色が浮かぶ。瞬時の動揺を隠すように、しっかりと頷いた。


(新しい皇帝...これは大きな変化だ)


蒼来は、鳳来の反応を見守りながら言葉を続けた。その声には期待と不安が微妙に混ざり合っていた。


「私は、お前を帝都玉京に同行させたいと思っている。『小さき賢者』と呼ばれるお前に、帝都の空気を肌で感じ、広い世界を見聞してもらいたい。それがお前の成長に大きく寄与すると確信しているのだ」


雲海が思わず眉をひそめた。深紅の上着の袖が揺れ、その手は無意識のうちに握り締められている。彼の声には、父としての深い憂慮が滲んでいた。


「だが、鳳来はまだ3歳だ。皇帝が変わったばかりの帝都は何が起きるかわからない」


静寂が部屋を支配する中、楊雲雷がゆっくりと口を開いた。その声は年齢を感じさせる渋みを帯びながらも、確かな威厳を湛えていた。


「雲海、蒼来、二人とも正しい。鳳来の才能は確かに驚くべきものだが、彼はまだ子供だ。しかし、この機会を逃すのも惜しい」


雲雷は穏やかな表情のまま、蒼来に向き直った。


「蒼来、お前は鎮守使としての職務に専念する必要がある。朝見の場では楊家の威厳を示しつつ、他の自治領主たちとの関係も築いていかねばならない。私が同行して鳳来の面倒を見よう。この老体にもまだそれくらいの余力はある」


その言葉には、孫の安全を守るという強い決意と、蒼来への信頼が込められていた。


部屋の中で緊張が高まる中、李蘭華が前に進み出た。淡い青緑の衣装をまとった彼女は、鳳来の前にしなやかな動きでしゃがみ込んだ。その仕草には母としての深い愛情が込められていた。優しく、しかし真剣な眼差しで問いかける。


「鳳来、あなたはどうしたい? 無理はしなくていいのよ」


鳳来は母の温かな瞳を見つめ返した。その小さな瞳には、すでに決意の色が宿っていた。一瞬の躊躇いの後、鳳来は力強く答えた。


「行きたいです。ですが、一つ条件があります」


「それは何だ?」


蒼来が身を乗り出すようにして尋ねた。その表情には、鳳来の言葉への期待と好奇心が表れていた。


鳳来は深く息を吸い、はっきりとした口調で言った。


「姉の琳華も一緒に連れて行ってください」


その言葉に、部屋中が一瞬静まり返った。それぞれの表情に、驚きと感心、そして少しの戸惑いが浮かんでいた。雲雷の口元が緩み、穏やかな笑みを浮かべながら言う。


「なるほど。姉弟で学ぶというわけか。実に素晴らしい考えだ。帝都での経験は、琳華の成長にも大きな糧となるだろう」


雲海と蒼来は顔を見合わせ、そして深く頷いた。二人の表情には、鳳来の思慮深さへの驚きと、その提案への承認の色が浮かんでいた。李蘭華は安堵の表情を浮かべ、鳳来を優しく抱きしめた。その腕の中で、鳳来は母の温もりと、かすかな白檀の香りを感じながら、自分の決断が正しかったことを確信していた。


「私も同行し、鳳来と琳華を見守ろう。皆で楊家の名を高めてくるのだ」


鳳来は小さく頷いた。彼の瞳には、未知の世界への好奇心と、家族への深い愛情が輝いていた。そして同時に、これから始まる大きな冒険への期待と不安が胸の中で交錯していた。


(帝都か...姉上には常日頃から生意気だと思われているだろうし、この機会に一緒に行くことで少しは関係も改善できるかもしれない)


蒼来は雲海と李蘭華の方を向き、真剣な表情で語りかけた。琥珀色の衣の裾が緩やかに揺れる。


「雲海兄、蘭華姉。私たちが留守の間、蒼龍郡の統治を任せてもよいだろうか」


雲海は表情を和らげ、弟に微笑みかけた。その声には、弟への信頼と、自らの役割への覚悟が滲んでいた。


「当然だ。蒼龍郡の安泰は我々が守る。安心して行ってくれ」


李蘭華も優しく頷き、薄紅色の唇が柔らかな笑みを形作る。


「ええ、私たちに任せてください。鳳来と琳華のことをどうかよろしくお願いします」


蒼来は深々と頭を下げた。その仕草には、家族への感謝と、自らの使命への決意が込められていた。


「ありがとう。蒼龍郡の未来のために、この旅路を実りあるものにしてくる」


部屋の空気が引き締まり、それぞれが自分の役割を強く自覚する瞬間だった。鳳来はこの光景を見つめながら、家族の絆の強さを改めて感じていた。


政庁を出ると、春の柔らかな陽光が一行を包み込んだ。桜の花びらが風に乗って舞い、まるで出発を祝福するかのように頭上を舞っている。鳳来は深く息を吸い込んだ。新鮮な空気が肺に入り、心が軽くなるのを感じる。


蒼来は鳳来の肩に手を置き、優しく微笑んだ。その手の温もりが、鳳来に勇気を与えた。


蒼来は深い息を吐きながら説明を始めた。彼の表情には、これから始まる大仕事への覚悟が刻まれていた。


「まずは随行団の編成だ。私の親衛隊を中心に、文官、医師、職人、そして文化使節まで。150人から200人ほどの大所帯になるだろう」


鳳来の目が驚きで大きく見開かれた。その表情には、旅の規模の大きさへの驚きと、同時に興奮も浮かんでいた。小さな手が無意識に衣の裾を握りしめる。蒼来は表情を崩さずに続けた。


「そして馬車や荷馬の手配、贈答品の準備、道中の宿泊地の確保...やるべきことは山ほどある」


李蘭華が眉を寄せ、心配そうに尋ねた。その指先が緊張で震えているのが、かすかに見て取れた。


「そんなに大掛かりなのですか?」


雲海が頷きながら答える。腰に差した扇を無意識に握り締めている。


「ああ、これは単なる旅ではない。蒼龍郡の威信をかけた一大行事だ。万全の準備が必要だ」


蒼来は深い息をつき、呟くように言った。その声には、旅の長さへの覚悟と、同時に期待も感じられた。


「往復の道中と玉京での滞在を含めると、最長で8ヶ月ほどの長旅になるだろう」


鳳来はその言葉を聞いて、改めて旅の重大さを実感した。その小さな瞳が遠くを見つめる。しかし、その眼差しは不安というよりも、むしろ決意に満ちていた。静かな声で呟く。


「8ヶ月か...」


言葉は短かったが、その響きには蒼龍郡を出て新しい世界に飛び出すことへの喜びが、かすかに滲んでいた。

雲海が付け加えた。その声には、娘への愛情と心配が混ざっていた。


「琳華のことも忘れるな。彼女にも話をして、準備させねばならない」


蒼来は頷いた。その表情には、姪への配慮と、旅の計画を練る思考が見えた。


「そうだな。琳華の同行は鳳来の提案だ。彼女の心構えも確認しておく必要がある」


一行の背中には、これから始まる大掛かりな準備と、遥か彼方に待つ帝都への長い旅路が、重く、そして希望に満ちて横たわっていた。蒼龍郡に吹き始めた新たな風は、今や大きなうねりとなり、楊家を、そして蒼龍郡全体を飲み込もうとしていた。


「僕も、できる限りの準備をします。歴史をもっと勉強して、玉京のことをよく知っておきたいです。それに...」


彼は少し躊躇したが、続けた。その表情には、決意と共に少しの照れも見えた。


「琳華姉さんと一緒に、礼儀作法の練習もしたいと思います」


その言葉に、大人たちは驚きと感心の表情を浮かべた。蒼来は優しく微笑んで鳳来の頭を撫でた。


「そうか、よく考えているな。琳華と協力して準備することは、とても大切だ」


鳳来は小さく頷いた。彼の脳裏には、これから始まる長い旅路のイメージが広がっていた。未知の土地、初めて会う人々、そして帝都での緊張する場面...。不安はあったが、それ以上に強い好奇心と挑戦への意欲が湧き上がってきた。


「きっと、たくさんのことを学んで帰ってきます」


鳳来は家族に向かって力強く宣言した。


「蒼龍郡のために、楊家のために、僕にできることを精一杯やってきます」


その言葉に、周囲の人々の間に温かな空気がうまれた。家族一人一人の顔に、鳳来への信頼と期待、そして愛情が浮かんでいる。

蒼来は満足げに頷いた。


「よし、これからの準備は大変だが、みんなで力を合わせて乗り越えよう。この旅が、鳳来、そして蒼龍郡の未来を大きく変える転機となることを信じている」


鳳来は固く頷いた。彼の小さな体には、これから始まる大きな冒険への期待と決意が満ちあふれていた。


(あたらしい世界を見てみたい、この足で歩いて、この手で触れて、生まれ変わる前では経験できなかった冒険をしたい!)


蒼龍郡の未来を担う「小さき賢者」の旅立ちの時が、今まさに始まろうとしていた。

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