第7話:春風と姉弟の絆

蒼龍府の庭園に、柔らかな春の日差しが降り注ぐ。満開の桜が風に揺れ、淡いピンクの花びらが舞い散る様子は、まるで天から降る祝福のようだ。その光景を眺めながら、楊鳳来は姉の楊琳華と幼い弟の楊雲翔よううんしょうと共に、芝生の上に腰を下ろしていた。


鳳来は、この穏やかな春の日に、複雑な思いを胸に秘めていた。前世の記憶と現在の立場が交錯し、時折違和感を覚える。しかし、新たな家族との時間は、彼にとって何物にも代えがたい大切なものになりつつあった。


遠巻きに、几帳面に整えられた庭園の小道の脇に従者たちの姿が見える。彼らは三人の子供たちを見守りつつ、さりげなく距離を保っている。少し離れた日向の良い場所では、鳳来の護衛である王剛が、まるで猫のように気持ち良さそうに日向ぼっこをしていた。その姿は油断しているように見えるが、鋭い目は常に周囲を警戒している。時折、王剛は鳳来に視線を送り、微かな頷きで安全を確認していた。


琳華は8歳になり、その美しさは日に日に際立っていった。長い黒髪を高く結い上げ、鮮やかな青緑色の上着に薄紫の袴を合わせた姿は、まるで若葉のように清々しい。しかし、その眼差しには相変わらず鋭さが宿っており、特に鳳来を見るときはその傾向が強かった。彼女は時折、無意識に袖口を整えるしぐさを見せ、その仕草に幼さと気品が混在していた。


「鳳来、今日の学課はどうだった?」


琳華が尋ねる。その声音には、わずかながら挑戦的な響きがあった。彼女は背筋をピンと伸ばし、鳳来の反応を注視している。

鳳来は微笑みを浮かべながら答えた。その表情には、姉への敬意と、自分の知識を分かち合いたいという気持ちが混ざっていた。


「面白かったよ。顧先生が天文学について教えてくれたんだ。星々の動きを通じて季節や時間を知る方法を学んだよ」


彼は無意識に手を動かし、星座の形を空中に描くような仕草をしていた。

琳華は眉をひそめた。その表情には、弟の知識に対する羨望と、自身の努力を認めてほしいという欲求が垣間見えた。


「ふーん、そう。私も頑張って勉強してるわ。でも、武芸の方がもっと上達してるわね」


彼女は誇らしげに胸を張った。

鳳来は姉の努力を認めるように頷いた。心の中では、琳華の成長を真摯に喜びつつ、同時に自分との距離が広がることへの不安も感じていた。


「すごいです。琳華姉さんの武芸の腕前は本当に素晴らしいです。僕なんかとうてい及ばないや」


しかし、この言葉は逆効果だった。琳華の表情が曇る。彼女の瞳に、怒りと寂しさが交錯する。


「そうやって子供扱いするのやめてよ。あなたが特別だってことは、みんな知ってるわ」


琳華は唇を噛み、感情を抑えようとしていた。

鳳来は困惑の表情を浮かべた。前世の経験を持つ彼にとって、8歳の少女との関係構築は予想以上に難しかった。彼は言葉を選びながら、慎重に対応しようとする。


「ごめん、そんつもりじゃなかったんだ。琳華姉さんのことは本当に尊敬してるよ」


鳳来は真摯な眼差しで姉を見つめ、和解の糸口を探っていた。

その時、1歳になったばかりの雲翔が、にこにこしながら二人に近づいてきた。まだ歩くのがおぼつかない様子で、よちよちと進む姿は愛らしい。白い産着に身を包み、丸々とした頬は桜の花びらのように薄紅色に染まっている。彼の無邪気な笑顔は、緊張した空気を和らげる効果があった。


「あら、雲翔」


琳華の表情が和らいだ。彼女の目に、優しさが戻る。


「こっちにおいで」


雲翔は琳華の方へ手を伸ばし、バランスを崩しそうになる。鳳来が咄嗟に支えようとするが、琳華の方が早かった。彼女は素早く立ち上がり、雲翔を抱き上げた。その動作には、琳華の自分に向けられる態度からは想像できないほどの優しさと慈しみが溢れていた。


「ほら、お姉ちゃんが抱っこしてあげる」


琳華の声は優しく、普段の鋭さは影を潜めていた。彼女は雲翔の頭を優しく撫でながら、柔らかな表情を見せる。

鳳来はその様子を見て、心の中でため息をついた。琳華の愛情深い一面を垣間見ることができたが、同時に自分との距離感も痛感させられた。彼は、この複雑な家族関係の中で、自分の立ち位置を模索している。


「琳華姉さん、雲翔の面倒をよく見てくれてありがとう」


鳳来は真摯な表情で言った。彼の声には、姉への感謝と敬意が込められていた。

琳華は雲翔を抱きながら、鳳来を見た。その目には、対抗心と喜びが混ざった複雑な感情が宿っていた。彼女は一瞬、弟への愛情と嫉妬の間で揺れているようだった。


「当たり前よ。私が長女なんだから」


琳華の声には、誇りと責任感が滲んでいた。

鳳来は静かに頷いた。彼は姉の複雑な心境を察し、慎重に言葉を選ぶ。


「そうだね。僕たち三人で協力して、楊家を支えていかなきゃいけないんだ」


琳華は一瞬暖かい眼差しを鳳来に向けたが、すぐに普段の冷めた顔に戻った。その瞬間の表情の変化に、鳳来は希望を見出す。


「ふん、あなたに言わなくてもわかってるわ」


鳳来は一瞬の暖かい眼差しを見逃さなかった。姉との関係を築くには、まだまだ時間がかかりそうだ。だが、諦めるつもりはない。新しくできた姉、弟という存在がかけがえのないものだと感じていた。彼は、これからの長い人生の中で、きっと三人の絆が深まっていくことを信じていた。


春風が三人を包み込み、再び桜の花びらが舞い散る。楊家の未来を担う三人の子供たちは、それぞれの思いを胸に秘めながら、成長への一歩を踏み出していた。


その時、庭園の入り口に一人の使者が姿を現した。彼は慌ただしく近づいてくると、鳳来の前で恭しく頭を下げた。使者の息は少し荒く、急いで来たことが窺える。


「鳳公子、申し訳ございません。雲海様からのご伝言でございます。ただちに政庁にお越しいただきたいとのことです」


鳳来は一瞬驚いたが、すぐに落ち着いた表情を取り戻した。彼の心の中では、期待と不安が入り混じっていた。政庁に呼ばれるという異例の事態に、何か重大な出来事が起きたのではないかと推測する。


「ありがとうございます。わかりました。すぐに参ります」


鳳来の声は、実年齢からは考えられないほどに落ち着いていた。

鳳来は立ち上がり、琳華と雲翔に向き直った。以前父の執務室に呼ばれたことはあったが、政庁に呼ばれるのは初めてのことで、その異例さに心臓が早鐘を打っていた。しかし、表情には動揺を見せないよう努めた。彼は背筋をピンと伸ばし、楊家の後継者としての威厳を保とうとする。


「ごめん、行ってくるね。また後で」


鳳来の声には、大人びた落ち着きが感じられた。

琳華は一層冷たい表情で頷いた。その目には、自分ではなく弟が呼ばれたことへの複雑な感情が浮かんでいた。劣等感と焦りが入り混じっているだろうことを鳳来は感じていた。琳華は無意識に雲翔を強く抱きしめ、その仕草に彼女の不安が表れていた。


「ふん、行ってらっしゃい」


彼女の声には、かすかな苛立ちが混じっていた。

一方、雲翔は兄の姿をニコニコしながら見つめていた。その無邪気な笑顔は、緊張感漂う空気の中で不思議な温かさを放っていた。彼は小さな手を鳳来に向かって振り、別れを惜しむように見えた。

鳳来は軽く会釈すると、すぐに王剛を探した。すると王剛はすでに使者の真横に立っており、周囲の状況を素早く把握していた。その眼光は鋭く、何か危険な兆候がないか慎重に観察しているようだった。王剛の手は、さりげなく武器のあたりに置かれており、いつでも行動できる態勢を整えていた。


「行きましょう、鳳公子」


王剛の声は低く、落ち着いていた。彼は鳳来の前に立ち、道を開くように歩き始める。

鳳来は深呼吸をして、王剛と使者と共に歩き出した。彼の小さな背中には、楊家の未来を担う者としての責任感が感じられた。春の陽光が彼らの背中を照らし、その小さな影は次第に長く伸びていった。庭園を後にする鳳来の背中は、幼さの中にも凛とした威厳を感じさせ、何か大きな変化の予感を漂わせていた。


琳華は複雑な表情で弟の背中を見送りながら、雲翔を抱きしめた。彼女の瞳には、弟への羨望と、自身の将来への不安が交錯していた。

胸の奥で、彼女は苦い現実を噛みしめていた。どれほど努力しても、女性であるが故に高い地位を得ることは難しいのだと。今は弟より優れているかもしれない。でも、体格も力もいつかきっと追い越されてしまう。その日が来るのを、琳華は恐れていた。雲翔を抱く腕に力が入る。まるで、自分の立場を必死に守ろうとするかのように。


「あの子、本当に特別なのね...」


彼女の呟きは、誰にも聞こえない風に乗って消えていった。その声には、敬意と嫉妬、そして何か諦めのような感情が混ざっていた。


蒼龍府の庭園に再び静けさが戻る中、桜の花びらが三人の子供たちの周りをゆっくりと舞い、新たな章の幕開けを予感させるかのようだった。風に乗って舞う花びらは、まるで楊家の未来を見守るかのように、優しく地面に降り立っていった。

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