第2話:蒼龍の血を引く者たち
朝日が差し込む部屋の中で、幼い少女の声が響き渡る。青と緑の絹織物で飾られた広々とした居間は、
「泣くな! 泣くんじゃない!」
その声の主は、わずか5歳にして凛とした美貌の片鱗を覗かせる少女、
黒曜石のような瞳には年齢不相応な鋭さが宿り、小さな眉をひそめた表情には、どこか冷たいものが混じっている。無意識のうちに袴の裾を握りしめる指先が、白く変色していた。
「お姉様、そんなに強く言わないで」
優しい声が、緊張の漂う空気を柔らかく包み込む。振り向いた琳華の前には、母・
「でも母上、弟はうるさいです。泣き止まないから、怒ってるんです」
琳華の言葉に、蘭華は小さく息をついた。その仕草は、まるで風に揺れる柳のよう。彼女は静かに揺りかごに近づき、柔らかな白い産着に包まれた鳳来を抱き上げた。
「鳳来、どうしたの? お腹が空いたのかしら」
(楊鳳来か。転生した俺の新しい名前だ。背中の緋色の鳳凰のあざが由来なんだろう。安直といえば安直だが...悪くない響きだ。)
生後3ヶ月の鳳来は、前世の記憶と意識を保ちながらも、赤子としての本能に翻弄されていた。泣きたくなくても涙が溢れ、それが姉の苛立ちを誘う。この状況に、彼は深いもどかしさを感じていた。
(言葉を発したくても、まだ喉の筋肉が未発達で声にならない。前世の知識や経験が全て頭の中にあるのに、それを表現できないなんて。まるで金縛りにあったようだ。)
鳳来は日々の生活の中で、この世界が中国に似た異世界であることを把握していた。さらに驚くべきことに、彼らの言語が瞬時に理解できる特殊な能力も持っていた。これを「ギフト」と呼ぶことにしたが、その正体については謎のままだった。
蘭華の腕の中で、鳳来はようやく泣き止んだ。しかし、その瞳は赤子のものとは思えないほどに意識的で、周囲の状況を冷静に観察している。
(母親の温もりか...前世では知らなかった感覚だ。仕事人間だった両親、存在を忘れられがちだった俺。でも、ここは違う。この家族には、確かな絆が感じられる。)
そんな思考に浸る中、朱塗りの立派な扉が開き、一人の男性が入ってきた。深い藍色の長衣に、金糸で龍の模様が刺繍された黒い上着を纏う
「やあ、皆揃っているようだな」
その声には、公務の場では決して見せない柔らかさが感じられた。特に蘭華を見る目は、深い愛情に満ちていた。
「夫君、お帰りなさい。今日はずいぶん早いのですね」
蘭華の言葉に、雲海は優しく微笑んだ。白檀の香りが漂う中、その表情には硬い公務の面影はなく、ただ愛情深い家庭人の顔があった。
「ああ、今日は特別にな。わが家の宝物たちに会いたくてな」
そう言って、雲海は蘭華の傍らに立ち、鳳来の頬に触れた。その手は政務で筆を執る手とは思えないほど繊細で、まるで最高級の絹に触れるかのような優しさだった。
(父親からこんなふうに触れられるのは初めてだ。この温かさ、この慈しみ。前世では知ることのなかった家族の愛情が、ここにはある。)
「父上! 私の練習の成果を見てください!」
琳華が突然叫んだ。その声には、強い承認欲求が滲んでいた。小さな体を強張らせ、両手を固く握りしめる姿に、切実な思いが表れている。
「琳華、今は...」
制止しかけた雲海だったが、蘭華が静かに首を振る。その仕草には、娘の気持ちを理解する母としての深い愛情があった。
「いいのよ、夫君。少しの間だけでも」
雲海は小さく頷くと、琳華に向き直った。
「よし、見せてみろ。どんな練習だ?」
琳華の顔が輝いた。その瞳は、まるで夜空に輝く星のように煌めいている。即座に姿勢を正し、小さな拳を握る様子には、武人としての誇りと父への強い思いが滲み出ていた。
「はい!
琳華の動きが始まった。その姿は幼いながらも力強く、まるで小さな剣舞のように美しい。蒼龍拳の型をキビキビと披露する様は、日々の厳しい鍛錬の跡が窺えた。部屋の空気を切り裂くような鋭い動きに、小さな武神の面影すら感じられる。
(蒼龍拳か...この地域独特の武術なんだろう。5歳でこの動き、姉の才能は確かに特別だ。でも...)
鳳来は、琳華の動きの中に潜む何かを感じ取っていた。技の一つ一つに込められた必死さ。承認を求める切実な思い。そして、その瞳の奥に潜む寂しげな影。
(姉の中にある焦り、俺にも分かる気がする。前世でも、認められたいと必死だった時期があった。背中の特別なあざのある弟の存在が、さらにプレッシャーを与えているのかもしれない。)
型の披露が終わると、琳華は期待に満ちた眼差しで父を見上げた。雲海は満足げに頷き、娘の頭を優しく撫でる。
「よくやった。手の運びが前より良くなっているぞ」
その言葉に、琳華の頬が僅かに紅潮した。しかし同時に、何か物足りなさも感じているようだった。
蘭華は、そんな娘の様子を優しく見守りながら、抱いている鳳来を揺すっている。部屋には、家族それぞれの思いが静かに交錯していた。
(この世界で、俺は何者になれるのだろう。楊家の一員として、どんな道を歩むことができるのか。前世の知識と経験を活かしながら、この世界で生きていく。それが、今の俺に課された使命なのかもしれない。)
蒼い龍の刺繍が施された襖絵に夕陽が差し込み、部屋の中に温かな光が広がっていく。鳳来の小さな胸の中で、この家族への、そしてこの世界への確かな思いが芽生え始めていた。
(新しい人生、新しい家族。ここから始まる物語を、自分の手で紡いでいこう。)
未来への期待と不安が入り混じる中、鳳来の瞳には、小さいながらも確かな決意の光が宿っていた。外から聞こえる風の音が、まるで彼の新たな人生の始まりを祝福しているかのようだった。
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